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西武園線:東村山3号~9号踏切
OSMその1
OpenStreetMapで東村山駅周辺を見る。
西武園線は元々は初代西武鉄道(武蔵野鉄道との合併前)が村山線(現在の西武新宿線)の箱根ヶ崎延伸計画で保有していた免許を使って昭和5年(1930年)に開業した路線で、村山貯水池前駅(1941年に狭山公園駅に改称、1948年に村山貯水池駅に改称)まで村山線の一部として扱われていた。多摩湖鉄道(現在の多摩湖線)が同じく昭和5年に仮駅で開業していた村山貯水池駅のほど近くにあり、両社は壮絶な観光客の争奪戦を繰り広げたという。
その後の紆余曲折を経て両社が現在の西武鉄道に統合されたのち、1950年に競輪場への輸送目的に造られた現在の西武園駅を残して1951年には村山貯水池駅へ向かう旧線は廃止、1952年に村山線の西武新宿線への改称に伴って分離され、西武園線となった。
現在事業が進んでいる東村山駅立体交差化工事で西武園線では東村山駅から北側、線路が西にカーブして東村山3号踏切を越えるところまで高架化される。
西武園線村3
豊島園線と同様に途中の東村山2号踏切までは西武新宿線と共有しているため、単独では最初の踏切となる西武園線東村山3号踏切。
踏切南側には東村山ふるさと歴史館がある。
ここからの写真は2022/9/10撮影。
諏訪神社
踏切を渡る西宿通りを少し南へ進んだところにある諏訪神社。貞享(じょうきょう)2年(1685年)ごろに前川(柳瀬川の支流)の洪水で流れ着いた御神体を祀ったものという。
八百竹
歴史館と諏訪神社の間、西宿通り東側にある八百屋。八百屋なのだが八百屋として営業している雰囲気はなく、看板の右側をよくみてみるとうっすら「貸金」という文字が読める。かつては貸金業を営んでいたのだろう。
Google Mapでみると左側は店舗として使用されていないものの、右側は花屋として営業していることがあるようで、よくよくみるとシャッターには「本日休業します」という札もかかっていた。
西武園線村5
連続立体化工事の西端となる西武園線東村山5号踏切。この踏切は工事後も残存することになる。
西武園線村4?
順番が逆になってしまったが、西武園線の廃止された東村山4号踏切は5号踏切のすぐ東側にあった。現在は工事用仮囲いで囲われてしまっていてよくわからなくなっている。
八国山通り
5号踏切を渡る道路は八国山通りと名付けられている。八国山は西武園線北側に広がる広大な緑地で、「となりのトトロ」の七国山のモデルとなったとも言われており、主人公の母親が入院していた病院のモデルとなった病院も緑地東部に囲まれる位置にある。
山とは言うものの実際には東西に広がる丘陵地で、はっきりとした山頂はないらしい。
西武園近辺
再び国土地理院Webサイトから昭和30年の空中写真(米軍撮影)
西武園線はさらに西へ、狭山湖と西武園競輪場に向かって空中写真左上に伸びていくが、以前は村山線の末端部として現在よりも南寄りの多摩湖線の方へ進んでいた。
空中写真では、村山貯水池前駅へ向かっていた村山線は昭和26年(1951年)ですで廃止になっており、一方の多摩湖線は西武園ゆうえんちまで延伸する前で旧多摩湖駅が左下に見えている。
西武園線村6
西武園線の東村山6号踏切は廃止されている。空中写真から推定した位置は現在では八国山緑地の入り口になっている。線路の南側は北山公園になっているが、現在直接渡る道はない。
ここからの写真は2023/9/28撮影。
看板跡
踏切跡と思われる場所に立つ朽ちた看板の柱。西武鉄道の踏切によくある「でんしゃにちゅうい」と書かれていたのかもしれない。
射撃場跡
振り返って山側をみると、「御大典記念 帝国在郷軍人会 北多摩郡連合分会 常設射撃場」と書かれた石碑が立っていた。東村山ふるさと歴史館の記事によれば、大正3年(1914年)から西武園線が開通する昭和5年(1930年)まで線路南側の北山公園に射撃場があったという。
西武園線村7
八国山緑地を薮をかき分けながら西へ進んで、西武園線の東村山7号踏切に出る。
照光寺
線路南側を西へ進んでいくと、山門になぜかアンパンマンの石像がある禅宗照光寺の前を通る。旧村山線はこの辺りを東西に通っていたようだが、線路跡は残っていない。
西武園線村8
再び線路北側に回って西武園線の東村山8号踏切を見る。
西武園線村9
そして西武園駅手前の西武園線東村山9号踏切。
西武園駅
少し東村山方向へ戻って西武園駅を見る。2面3線の大きな頭端式ホームを抱えた終着駅だが、終日2000系や9000系の4両編成がのんびり単線を往復している。
臨時改札
西武園駅には、競輪開催時に使われたであろう臨時改札が並んでいる。現在も使用しているのかは定かではない。
旧線
最後に旧村山線跡を見ていこう。昭和26年(1951年)に廃止となった部分は現在では宅地化されていて線路跡は残っていないが、当時の踏切があったであろう位置は地図や空中写真で特定できたので行ってみる。
それにしても、現在の多摩湖駅(1961年多摩湖駅として開業、1979年西武遊園地駅、2021年に現名称に改称)と旧多摩湖駅(1936年村山貯水池駅、1941年狭山公園前駅、1951年多摩湖駅となるが1961年に現多摩湖駅へ移転し廃止)、村山線の村山貯水池前駅の位置関係の近さよ。
全国Q地図
全国Q地図の東京都3千分の1地図(1952〜1958年)でみる旧村山線。
廃止後まもない村山線の跡が地図に記載されている。このころはまだ南北に渡る道路も現在より少なく、踏切跡としては4ヶ所と推定される。
野口信号所
西武園線東村山7号踏切と8号踏切の間にある野口信号所の跡を西側から東村山方向に見たところ。手前に向かって旧線が伸びていた。
ここからの写真は2024/5/5撮影。
旧線跡
信号所で分かれた旧村山線の跡は道路になっているが、その先写真奥で突き当たりになっている。
旧踏切その1
突き当たりで北を向いたところ。写真右には照光寺が、奥には西武園線東村山8号踏切が見えるが、手前の丁字路のあたりが旧村山線の最初の踏切であったと思われる。ここから西側の線路跡は宅地として分譲されてしまっている。
はっけんのもり
前の写真奥の方の丁字路を西へ進んでいくと、都営住宅開発時の発掘調査で縄文時代中期から中世までの遺構が出土したことで保存されることになった「下宅部(しもやけべ)遺跡はっけんのもり」がある。
旧村山線は遺跡の南側にある歩道部分か、もう少し南(左)の住宅部分を走っていたと思われる。
踏切跡その2
下宅部遺跡の西側を通る「はっけんのもり通り」は廃止当時にはなかった。遺跡南側を流れる北川(後川)を多摩湖へ向かって行くと現れるなもなき橋から線路跡を見たところ。住宅地になっていて跡形もないが、写真中央の舗装の色が変わっているあたりがおそらく踏切だった場所と思われる。
踏切跡その3
続いてさらに上流側にある宅部橋から線路跡を見る。写真左奥のアパート前あたりを線路が通り、踏切もあったと思われる。
踏切跡その4
4番目の踏切跡は北側に直交して南北に通る水道敷と交差する部分にあった。写真中央の遊具付近が踏切であったと思われる。
線路敷?
水道敷から西へ伸びる児童遊園は線路敷の跡かもしれない。
村山貯水池駅跡
前の写真左奥にある細道を抜けると、村山貯水池駅跡に出る。このあたりも宅地化されてしまっていて、道路の両脇にあったであろう駅の跡は見当たらない。
多摩湖線
駅末端部があった先の突き当たりには高架線の上を走る多摩湖線が見える。多摩湖線は村山線の延伸可能性も踏まえ、当初から北川の谷をまたぐように高架で敷設されたらしい。
多摩湖と富士山
多摩湖線の高架をくぐって都立狭山公園へ。多摩湖(村山下貯水池)のダムを登って湖越しの富士山を眺めて探索は終了とした。
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