小川1号〜5号踏切
現在の地図。
西武鉄道には小川○号という踏切が2系列あり、小川駅から西に向かう拝島線は1号がなく、代わりに南からくる国分寺線の鷹の台5号踏切を挟んで小川2号〜25号踏切があり、北側に進む国分寺線には小川1号〜5号踏切がある(東村山駅南側の踏切は新宿線の久米川3号踏切)。
国分寺線はこのあたりでは鎌倉街道や東山道武蔵路という中世・古代の道筋にそって北上して行く。
小川駅北側、中宿通りが国分寺線を渡る小川1号踏切。国分寺線だけでなく拝島線の車両も通過するため閉まっている時間が長く、車も渋滞気味。
ここからの写真は2023/9/29撮影。
野火止用水の開渠沿い、野火止通りにある小川2号踏切。
南が上だが、西武多摩湖線の八坂駅に掲示されていた地図。
このあたりは西武線だらけで、国分寺線のほかに拝島線、多摩湖線、新宿線が複雑に交錯している。
鎌倉時代にあってもここは交通の要所で、「九道の辻」と呼ばれた八坂交差点では、現在失われた鎌倉街道を加えて9本の道が集まっていたという。
九道の辻(くどうのつじ、八坂交差点)。現在でもこのようにややこしい標識が…
現在でも、八坂交差点は府中街道、野火止用水、江戸街道(GoogleMapでは東京街道、秩父街道とも呼ばれる八坂駅南側の萩山駅へ向かう道)などが交差する七叉路となっている。
この写真は2012/10/27撮影。
その江戸街道の南側には、現在はダイエーの敷地内だが「迷いの桜」という桜並木がある。
小平市が設置した看板によれば、元弘3年(1333年)に新田義貞が鎌倉攻めの際に通りかかり、どれが鎌倉への道か迷わないよう桜を植えさせたのが始めだとか。
まあ、九叉路では迷いますわな(笑)
鎌倉街道(さらに昔は東山道武蔵路)は、写真正面方向へ向かって進み、現在ブリヂストンの工場となっているあたりを突き抜けて玉川上水にかかる鎌倉橋(津田塾大学の東側)あたりへ抜けていたという。
この写真は2012/8/18撮影。
九道の辻から真西へ向かう江戸街道(東京街道)を進んで行ったところにある小川3号踏切。
この写真は2023/9/29撮影。
野火止用水に沿って国分寺線を渡る小川2号踏切、江戸街道(東京街道)の小川3号踏切の北側、上の地図のロールアップ画像で5番目の道は、古い地図では線路を渡っているように見える。
写真奥の突き当りが踏切跡なのかもしれない。
ここからの写真は2012/8/13撮影。
そのまた北、多摩湖線の築堤を越えた北側にある、見逃してしまいそうな遊歩道の踏切が小川4号踏切。
八坂小学校脇、美住通りの小川5号踏切。
この写真は2023/9/29撮影。
さらに北へ進み、新青梅街道の先で府中街道から西北に分かれて行く道があり、これも鎌倉街道の一ルートという説がある。(この近辺では、鎌倉街道のルートには複数の説があり、上の地図の6番目の道や、府中街道もその候補)
その道を西北へ進んでいくと、国分寺線にぶつかって歩道橋で線路を越えるが、ここも全国Q地図の
東京都3千分の1地図では踏切だったように書かれているところ。
このあたりから東村山駅に向かって、西武新宿線、西武園線を含めた連続立体化工事の計画があり、完成すればずいぶんと景色が変わるだろう。
ここからの写真は2012/8/13撮影。
その歩道橋を渡らずに上の写真右の道を進むと、「この先行き止まり」の看板の先に現れるのが「浅間塚」(写真は線路を渡った西側から撮影)。
東村山市が設置した看板によれば、天保13年(1842年)に山頂部分に浅間神社を祀る祠が建てられたとあるが、富士講のために築かれたのではなく、古くからあった塚らしい。
古墳というわけでもないようで、一説には古代の測量台だという話もあるらしい。
なお、東山道武蔵路は律令制の時代(7世紀)に作られ、771年に武蔵国が東海道に移された際に官道から外されたのちも11世紀までは使われていたが、平安末期には廃道になっていたという。
鎌倉街道はその道筋に沿って中世に使われたが、これも近世には廃道になっていて、九道の辻あたりから北側は道筋がよくわからなくなっているという次第。