西武柳沢1号~4号踏切
OpenStreetMapで
西武柳沢駅〜田無駅間を見る。柳沢(やぎさわ)は周辺の地名だが、西武がつくのは開業当時にすでに長野電鉄に柳沢駅(2002年に廃止されている)があったためという。
西武柳沢駅西側の西武柳沢1号踏切。こじんまりとした西武鉄道にはよくある雰囲気の踏切だ。
このページの写真はいずれも2023/10/3撮影。
西武柳沢2号踏切は、東西に走る富士街道と南北に西武新宿線を渡る榎ノ木通りの交差点脇にあり、交差点には寛政7年(1795年)造立の六角地蔵石幢(せきどう)が立っている。榎ノ木通りは青梅街道をすぎると深大寺街道となり、その先は浄水場などで一部の痕跡が消えているが調布市の深大寺までつながる古道だった。北は川越までつながっていたそうで、関東管領上杉氏の軍用道路だったという。
現在は車両通行禁止の小さな踏切になっている。
西武柳沢2号踏切から西側は石神井川の谷を築堤で進んでいるのだが、青梅街道の手前に小さな陸橋がある。ここは第二次世界大戦末期の昭和19年(1944年)に作られた軍用軽便鉄道の軌道跡だという。現在ひばりが丘団地などになっている中島航空金属田無製造所から、現在は武蔵野中央公園などになっている中島飛行機武蔵製作所を結んでいたとされる。しかし、東久留米駅から田無製造所を結ぶ引き込み線(
たての緑地)や、武蔵製作所から武蔵境駅、三鷹駅を結んでいた引き込み線とは異なりほとんど廃線跡が残っていない。
国土地理院Webサイトに
昭和19年の空中写真(陸軍撮影)があるのだが、陸橋はすでに作られているものの軽便鉄道の線路は写っていない。軍用線なので写真が修正されている可能性もゼロではないが、この写真の撮影日が1944/10/22でそのあと敷設されたとすれば、終戦まで1年も使っていなかったことになる(ロールアップで推定路線位置を記載)。
なお、路線の位置については米国陸軍地図局作成の地図(
Japan City Plans 1:12,500 -
Tanashi / U.S. Army Map Service, 1945-1946)がThe University of Texas at Austinのサイトで公開されており、そちらを参考とした。
前の空中写真でもわかるが、青梅街道は戦前から西武新宿線と立体交差しており、ここは踏切ではない。
青梅街道東側、富士街道との交差点脇に立つ弘法大師標柱。
そして青梅街道の西側には享保8年(1723年)造立の柳沢庚申塔がある。青梅街道は写真奥で左折し直進は所沢街道となるが、その追分付近を中心とした柳沢宿が江戸時代に栄えていたそうだ。
青梅街道から西武新宿線の南側を進んでいくと、大きな調整池が現れる。石神井川南町調整池といい、写真右側を流れる石神井川の洪水防止のため昭和55年(1980年)に完成した。写真中央やや左に線路をくぐるトンネルがあるのだが、これは踏切跡ではなく玉川上水の分水である田無用水から分水された流れが石神井川に流れ込んでいた場所にあたり、現在は道路として使用されている。
調整池西側に踏切をくぐる立体交差があるが、ここも元から立体交差で踏切ではない。
国土地理院Webサイトから
昭和36年の空中写真(国土地理院撮影)。この頃までは先ほどの立体交差までが高架線で、そこから西側は地上に降りていて現在の都道12号調布・田無線の付近に踏切があった。
写真手前の文化通りが旧道で、その先にあったのが西武柳沢3号踏切。現在は立体交差化されているため面影はない。
ガード下には自転車駐車場が作られているのだが、2001年に西東京市となる前の田無市が設置した看板がそのまま残っている。手書きの放置禁止の看板はほとんど読めなくなっているが、むしろ迫力がある気がする。
西側に大きな踏切がなく、田無駅南側にはロータリーがない(現在再開発中)ため北口に向かうバスが頻繁に踏切を渡っていく。