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国分寺1号~9号踏切
地図その1
OpenStreetMapで西武多摩湖線の国分寺駅〜東国分寺駅跡間を見る。
国1
JR中央線に並走する形になっている西武国分寺線と異なり、西武多摩湖線は道路を挟んで北側に駅がありJRや国分寺線とは陸橋で繋がっている。しかし、昭和3年(1928年)の開業から平成2年(1990年)までは現在より100mほど南側に駅があった。
ちょうど交番があるあたりに線路があったと思われ、その左側が国分寺1号踏切の跡ということになる。 このページの写真は2023/11/4撮影。
昭和50年
国土地理院Webサイトより昭和50年(1975年)の空中写真(国土地理院撮影)
移設前のホームと踏切が見える。旧ホームのあった場所には駅ビルが建っており、面影は残っていない。
バス折返所
現在の西武多摩湖線国分寺駅脇にあるバスのりばの看板。写真左側は行き止まりのバス折返所になっており、西武バスはそこに突っ込んでからバックし写真右側枠外にある国分寺駅北入口バス停で待機する形になっている。
国分寺駅北口のバスロータリーが完成した2020年末までは武蔵野美術大学行きのバスもこちらで発着していたのだが、現在は小平駅方向の路線のみが残っている。
国2
国分寺2号踏切は駅北側にある。線路右(東)側の道路は西武バス専用道(私道)となっていて一般車両は歩行者は入って行くことができない。昭和34年(1959年)に多摩湖線の複線用地を転用して運用を開始したという一車線の専用道は国分寺4号踏切までつながっており、結構頻繁にバスが行き来しているのを眺めることができる。
恋ヶ窪東遺跡
ここでちょっと寄り道して多摩湖線よりも一つ西側を南北に通り花沢通りへ行ってみる。国分寺2号踏切から西へ向かったところにあるのが恋ヶ窪東遺跡。恋ヶ窪は西武国分寺線の駅にあるが、国分寺駅から西国分寺駅あたりの北側にある地名で遺跡西側を南北に通る野川源流の谷を峡が窪(かいがくぼ)と呼んだ(現在は日立製作所中央研究所の敷地内にあり、「さんや谷」と呼ばれている)ところから来たとも、源頼朝に従った畠山重忠の悲恋に由来するとも言われているようだが、いずれにせよ水が豊富な谷筋の崖上に見つかった旧石器時代から縄文時代の遺跡だという。
国3
多摩湖線に戻って国分寺3号踏切とバス専用道を進む寺61系統の国分寺駅北入口行きバス。専用道そのものに信号はないので、バスは交差点で一時停止してから進んでくる。
八幡神社
踏切西側にある本町南町八幡神社。昭和26年(1951年)に中央線南側の武蔵国分寺近くにある本村八幡神社(元町八幡神社)から分祀した比較的新しい神社で、国分寺駅周辺の発展に伴い駅北側でも独自に祭礼を行うようになったことから設けられたという。
国4
熊野神社通りが多摩湖線を渡る国分寺4号踏切を通過してバス専用線に入って行く西武バス。専用線はここから始まっている。
国5
都道134号恋ヶ窪新田三鷹線が多摩湖線を渡る国分寺5号踏切を、南にある歩道橋から見たところ。写真左側には国分寺市立第三小学校があるため、通学路として歩道橋が設けられている。
東国分寺駅跡その1
踏切から南側を見る。昭和8年(1933年)の多摩湖鉄道開業時にはここに東国分寺駅があった。交換駅とするために昭和11年(1936年)に踏切北側に移設されている。
(補足)東国分寺駅の移設については、国立公文書館所蔵の多摩湖鉄道申請「停車場新設並ニ廃止認可申請書」(昭和10年)に記載がある。
東国分寺駅跡その2
踏切北側の市役所西通り。第三小学校バス停の付近で道路幅に余裕があってバス待避所が作られているが、線路側に交換駅としての二代目東国分寺駅があった。戦時中の昭和20年(1945年)に休止となり、そのまま昭和29年(1954年)に廃止されてしまっている。
バス停から北は小平市に入る。
昭和22年
国土地理院Webサイトから昭和22年の空中写真(米軍撮影)。この時はすでに駅としては休止していたはずだが、島式のホームが残っている。
地図その2
後半の国分寺6号踏切から9号踏切までの地図。地図中央付近で西武多摩湖線は五日市街道と並行する玉川上水を乗り越えている。
ルネサス
国分寺5号踏切から6号踏切までの間は1kmほど踏切がない。この辺りでは古い地図で見ても土地割が南北方向に長くなっているため東西に渡る需要があまりなかったのかもしれない。
途中、線路西側にはルネサスエレクトロニクス武蔵事業所の大きな敷地が広がっている。ルネサスの向かい側には1966年から2013年まで国分寺・一橋学園折返しの区間列車を交換させるための本町信号場があったというが、現在は休止となっており線路も撤去されているため路盤しか残っていない。
国土地理院Webサイトの1989年空中写真(国土地理院撮影)にはそれらしい線路が写っている。
廃看板
ルネサス武蔵は元々日立製作所武蔵工場だった場所にあるが、その北側に残されていた日立超LSIシステムズの看板。現在は日立ソリューションズ・テクノロジーに改称しており、ここに事業所は残っていないようだ。看板はこれも社名が変更された1998年ごろに設置されたのではないかと思われるので、かれこれ25年くらいここに建っていることになる。Google Mapで見ると2010年ごろには社名がマスクされていたが、その後経年劣化で剥がれてしまったらしい。
歩道橋
さらに北へ進むと、線路東側の住宅の間から突然出てくる歩道橋がある(写真は北寄りからみたところ)。ここに踏切があったわけではなく、東側にある小平市立上水中学校や、西側にある小平市立第十小学校の通学路として設けられたものと思われる。
桜堤駅跡その2
歩道橋の下から北側を見る。写真中央下で線路を横切っているのは玉川上水南側を並走する砂川用水(深大寺用水)で、明暦3年(1657年)に立川付近で砂川分水として開削され、下流の分水と統合されていき明治初めには調布市の神代団地あたりで野川まで水を流していたという。
さて、その用水路の北側、玉川上水の手前には昭和9年(1933年)に一橋大学駅(廃駅)の開設に伴って移設された二代目の桜堤駅があった。名前の通り玉川上水沿いには小金井桜として知られた桜の名所だったそうで、そこへ向かう観光客向けの駅だったそうだ。
二代目の桜堤駅は東国分寺駅と同様に昭和20年(1945年)に休止となり、そのまま昭和28年(1953年)に廃止となっている。
(補足)桜堤駅の改廃については、国立公文書館所蔵の多摩湖鉄道申請「停車場、停留所新設竝ニ廃止認可申請書」(昭和8年)に記載がある。
桜堤バス停
駅があったあたりには桜堤バス停が残っている。
国6
五日市街道が線路を渡る国分寺6号踏切は小平桜橋交差点と隣接しており、交差する市役所西通りからの合流もあって渋滞が頻発している様子。
桜橋
交差点名にもなっている桜橋。西側が道路改修で拡幅されているが、東側には古い欄干が残っている。
玉川上水
桜橋から玉川上水を下流方向に見たところ。玉川上水は自然に近い状態が保たれているが、水流は清流復活事業による処理水なのだそうだ。
国7
桜橋の北側には旧五日市街道(山家通り)が通っており、それが多摩湖線に突き当たるところにはかつて国分寺7号踏切があった。
桜堤駅跡その1
国分寺7号踏切跡の脇から北向きに多摩湖線を見たところ。初代桜堤駅は写真奥の木立の左にあったと思われる。昭和3年(1928年)に開設され、南へ移設された昭和9年(1933年)まで使われていたが、現在痕跡と見られるものは残っていない。
国8
国土交通大学の前に置かれている国分寺8号踏切。
一橋大学駅跡
国分寺8号踏切から北方向を見たところ。写真右側に使われていない(架線がない)側線があるが、そのあたりに一橋大学駅があった。
一橋大学駅は昭和8年(1933年)に商科予科前駅として開業した駅で、西側にある東京商科大学予科の最寄駅として設置された。昭和24年(1949年)に学制改革で大学名が変わったのに合わせて一橋大学駅となったが、さらに北側にあった小平学園駅と統合され現在の一橋学園駅として昭和41年(1966年)に移転している。
昭和22年
国土地理院Webから昭和22年の空中写真(米軍撮影)。一橋大学駅と小平学園駅の駅間距離は400m程度しかなかったそうだ。
駅前ロータリー跡
一橋大学駅の駅舎などは残っていないが、西側の市役所西通りと一ツ橋通りの交差点は三角形のロータリーで、駅がここにあったことを偲ばせる遺構となっている。
国9
一橋学園駅南側にある国分寺9号踏切。
南側
国分寺9号踏切から南側を見たところ。側線に向かう踏切は一橋大学駅時代からのもので、写真奥の少し高くなっている場所がホームの後ではないかと思われる。
構内踏切
一橋学園駅は島式の交換駅で、南北にホームへ向かう構内踏切がある。写真は南側の構内踏切で、駅西側からホームに入る形になっている。
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