和田町1号踏切
OpenStreetMapで
和田町駅~上星川駅間を見る。
帷子川(かたびらがわ)に沿って走る相鉄本線は、天王町から星川駅を跨いで和田町駅までの間が「星天」連続立体交差化事業で高架化工事中だが、横浜新道から西側は工事区域に含まれない。
一方、和田町駅の西側には相模道が相鉄線を跨ぐ和田町1号踏切があったのだが、平成11年(1999年)3月に立体交差化されている。今回は、そこを目指して行ってみよう。
昭和38年(1963年)の空中写真(国土地理院撮影)。
右下に見えるのは現在相鉄のバス折返し所になっている常盤園下駅の跡。常盤園は、帷子川の北側にあった岡野家別荘のことだそうだ。
和田町駅から和田町1号踏切の間には、3ヶ所ほど踏切ではないかと疑われる道路が見える。
帷子川を跨ぐ和田橋の北側から和田町駅を見る。
このページの写真は2014/4/29撮影。
川の北側には地元では和田地蔵尊と呼ばれる元禄2年(1689年)造立の庚申塔(阿弥陀如来像)がある。
和田町駅と帷子川の間にある細い路地を入って行ってみると、上り線ホームに突き当たる道が2ヶ所ある。上の地図で踏切跡のように見える場所だ。
手前側を突き当たる道路から見る。道といっても水路敷のような細い路地だ。
同じ場所を線路の南側から。道は確かに線路を跨いでつながっているように見える。かつてはここに踏切があったのかもしれない。
次に上の写真で奥に見えた歩道橋に突き当たる道路から。
この道は地図と異なりまっすぐ進んでマンションに突き当たって終わっている。
左には、柵で囲われて入れない水路敷が帷子川まで続いていた。
線路の南側では、跨線橋の下に蓋暗渠が潜り込んでいるのが分かる。
ここは水路敷が線路の下を抜けているようだ。ここに踏切があったのかどうかは、よくわからない。
3つめの踏切候補地は、北側が工場敷地になっており道路が残っていない。
さらにその西側に線路に向かう道があるが、これはどうやら水路敷のようだ。
このあたりは、南側にある崖下から湧水が帷子川に流れ込んでいるようで、幾重もの水路敷がみられる。
上の写真から道路を挟んで南側。ここでは、開渠になっていて水が流れているのを見ることができる。結構水量もある流れだ。
和田町駅から線路の南側を通る道は、その名も「水道道(すいどうみち)」だった。
横浜水道道は、道志川から野毛浄水場まで水を送るための水道道路だということらしい。水道に並行してメンテナンス用のトロッコ軌道もあったという。
上の写真にある曹洞宗正福院は、道路南の崖下にある寺院。当地には元禄2年(1689年)に移転してきたというから、和田地蔵尊と同じ歳ということか。
境内には、やはり湧水があるそうだ。
この寺の住職が北条家に「仏向町」という地名を名づける許しを得たとも、仏前に供える米を作る仏餉がなまって仏向になったとも町名の由来を伝えている。
さて、その正福院入口交差点から北側、線路の方を見る。
左に庚申塔が建っているのが見えるが、線路を跨ぐ立体交差道(宮崎跨線橋)の左側を進んだ奥が和田町1号踏切だった場所。
また、写真左のビルがあるあたりは、かつて帷子川が蛇行していた場所にあたるようだ。
道端の庚申塔。右側から文化9年(1812年)、安政2年(1855年)、享保2年(1717年)の造立。200年から300年前のものということになる。
庚申塔の右側を進んでいくと、突き当りにあるのが宮崎地下道。ここがかつては和田町1号踏切だった場所だ。
国道16号(八王子街道)から、写真中央の宮崎橋を渡った所にかつては踏切があった。現在ではこの橋は地下道と、左にある工場くらいしか行く場所のない橋になってしまっている。
国道16号から帷子川越しに相鉄線を見る。手前の工事用道路らしきものは封鎖されていて使われていない。
最期におまけ、4/27のダイヤ改正で運行を開始したばかりの特急を海老名駅で1枚。