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東上9号~21号踏切
地図
OpenStreetMapで大山駅から中板橋駅周辺を見る。
東上9号踏切から20号踏切の間は板橋区などによる立体交差化の検討が行われてきたが、2022/7/28に東武鉄道から連続立体交差事業(高架化)に着手することが発表された。これにより東上10号踏切から18号踏切まで、現存しない東上14号踏切を除く8つの踏切が廃止されることになる。完成は2030年度を目指すとしている。
 
なお、東京都公文書館で大正3年(1914年)東上鉄道起案の「道路及河溝工事施設(板橋町地内工事施設個所表)」(以下では記載された番号を「板橋町○号」とするが、この番号は踏切以外の暗渠、架道橋などにも付けられている)を入手し、開業当時の踏切位置がそこに記載されていたので位置関係を確認しながら改めて見ていくこととした(哩程はヤードポンド法、東上線は旧下板橋駅起点のはずだがゼロマイルは東上13号踏切東側と推定され、そこから池袋方は哩程も逆向きに計測されている)。哩程には記載の誤りもあるようで位置は推定するしかないが、図面(下板橋町地内線路平面図)が添付されているためそれとも付き合わせてみると番号のついていない踏切の記載が構内踏切を除いて少なくとも6箇所見つかった。そちらも再訪してみよう。
(参考)ヤードポンド法での表記:哩(マイル)=約1.609km、鎖(チェーン)=約20.12m(1/80哩)、節(リンク)=約20.12cm(1/100鎖)。線路平面図の「下板橋町」は誤記と思われるが、明治22年(1889年)までは下板橋村(または下板橋宿)であった。
昭和38年
国土地理院Webサイトから昭和38年(1963年)の空中写真(国土地理院撮影)を見る。
すでに山手通りは完成しているが、大山駅はまだ短い状態。
東9
下板橋の電留線西側、東上9号踏切(板橋町13号に該当と推定、哩程22鎖80節=約458m)から山手通りの陸橋(環6架道橋)方向を見る。線路の両脇に空間があるが、陸橋の手前あたりにかつて金井窪という駅があった名残だそうだ。
金井窪駅は昭和20年(1945年)4月13日の空襲で被災し、戦後復活することなく廃止になったという。
なお、板橋町の工事施設個所表は東上9号踏切脇にある巣鴨村との町境(現在も区境)から西側の谷端川旧河道を1号としており、12号までは下板橋駅留置線の構内となっている。2号から11号までは留置線内にあり南北に留置線で分断された道路が残っている場所もある(現在のゼロキロポストは7号と8号の間、ゼロマイルからの哩程約35鎖=約700mと推定される)。12号は留置線西側の踏切(哩程26鎖30節=約529m)として記載されているが、現在はここも留置線内にあり取り付け道路も含め痕跡は見当たらない。
東上9号踏切にあたる板橋町13号には工事施設個所表欄外に板橋間道の記載があるが、板橋区立中央図書館所蔵の「いたばしの古道」(板橋区教育委員会事務局社会教育課, 1983)によれば王子から板橋区役所へ向かう王子新道が区役所で南に折れたあたりからを板橋間道と読んでおり、ここを南へ進んでいくと東武東上線と山手線をそれぞれ跨ぐ陸橋に至る。山手線の六ツ又陸橋は踏切だった頃には板橋間道踏切と呼ばれていた。 このページの写真は特に記載がなければ2011/10/29撮影。
昭和22年
国土地理院Webサイトから昭和22年(1947年)の空中写真(米軍撮影)
番号はついていないが東上9号と10号の間、現在の山手通りにあたる場所とさらにもう一つ西側に斜めに伸びている道路があり、そこに工事施設個所表では板橋町16号(哩程17鎖=約341m)があったようだ。山手通りの方は記載されていない。
板橋町16号
板橋町16号は写真のあたりで東武鉄道板橋変電所(金井窪駅留置線跡)の東側角を斜めに横切って線路に向かっていたと思われる。
東10
変電所の西側脇にある東上10号踏切(板橋町17号と推定、哩程13鎖40節=約269m)。
東11
このあたりは踏切が続く。
東上11号踏切を行く50000系では唯一正面非貫通なレア編成51001F。
この踏切は工事施設個所表では板橋町18号の「土管埋設」(哩程10鎖40節=約209m)として記載されていると推定され、踏切の記載はいない。昭和22年の空中写真では踏切東側(写真右側)を谷端川の支流である出端川の暗渠がここで東上線を渡っており、それが板橋町18号として記載されているものと思われる。
迂回路
ところで、東上線の踏切には左の写真のように迂回路を案内する看板がついているところが多い。
どの踏切も閉鎖している時間が長く、過去無理に渡って事故に遭った人がいたためと思われる。
東12
このあたりでは二車線が珍しい東上12号踏切(板橋町20号と推定、哩程6鎖55節=約131m)。
板橋町21号
東上12号踏切の西側(点線付近)に板橋町21号(哩程4鎖70節=約94m)があったと推定されるが、現在南北に道路はなく正確な位置はわからない。
この写真は2024/4/13撮影。
東13
大山駅東側の東上13号踏切。この踏切は開業当初の工事施設個所表に記載がなく、後から作られたものらしい。
ゼロマイル
工事施設個所表には東上鉄道のゼロマイルそのものの位置記載はないが、両側の施設位置から推定すると東上13号踏切東側、写真の矢印付近(東京都公文書館所蔵の昭和4年東武鉄道設計協定書から算定すると、下板橋停車場中心から40鎖20節=約808m)にあったことになる。巣鴨村の表と板橋町の表で微妙に哩程の記載にずれ(測定方法は不明)があるので正確な場所はわからない。
現在東武東上線のゼロキロポストは大正元年に明許を取得した際の鉄道と軽便鉄道の分岐点にあたる旧下板橋駅(現在は留置線)に位置し、東武東上線はここからの距離で設備を表示している。ゼロキロとゼロマイルの位置が異なる理由の資料は現時点で発見できていない。
この写真と次は2024/4/13撮影。
旧道踏切
現在の大山駅池袋方先端付近。開業当時はここ(点線付近)に板橋町23号踏切(哩程4鎖60節=約92m、なおここからはゼロマイルが上り側となるため、正順で距離が増えていく)があったと推定される。両側には建物が立っていて道路はないが、線路平面図や、今昔マップの1917〜24年には旧道があるように見える。
東14跡
東上14号踏切(板橋町25号と推定、哩程6鎖75節=約135m)は今はない。
写真左奥のビル右脇に向かって線路と道路が交差する位置に踏切があったが、ホームの延長で分断されてしまい、現在は地下通路が設置されている。一方旧道は写真右奥のビルが建っているあたりを線路に沿って踏切へ向かっていたらしい。
東口
その踏切跡の隣にあるこじんまりとした大山駅東口。
知らなければ見逃してしまいそうだ。
東15
大山駅西側の東上15号踏切(板橋町26号と推定、哩程11鎖20節=約225m)は、跨線橋を備えている。
ただ、あまり利用されている様子はなさそうだ。
板橋町27号
大山駅南口(実は北口よりも北にある)の前を通る道は東上15号踏切を渡るハッピーロード大山商店街(旧川越街道)に突き当たっているのだが、線路平面図ではそのまま北へ伸び線路を跨ぐ踏切(板橋町27号と推定、哩程12鎖80節=約257m)があったとされている。現在西側は商店や住宅になっており痕跡はない。
この写真は2024/4/13撮影。
東16
都道420号が線路にぶつかるところにある東上16号踏切(板橋町29号と推定、哩程16鎖30節=約327m)。
線路の手前まで幅の広い通りだが、踏切の向こうは一車線の路地で、商店街(ハッピーロード大山)のアーケードにつながっている。東向き一方通行なので、こちらから踏切の向こうには進めない。
この踏切の脇を千川上水が通っており、古くは千川上水踏切と呼ばれていたらしい。工事施設個所表では千川上水溝橋として板橋町28号(哩程16鎖15節=約324m)として踏切の南側を潜っていたことになっているが、表では取り消し線が記載されており欄外に「千川上水溝橋:水利組合ノ関係モ有之(これ)免ニ付更ニ出願可仕候(つかまつるべくそうろう)」と追記がある。橋を含め水利組合が管理することになったということだろうか。
板橋町30号
東上16号踏切の北側にも工事施設個所表に踏切(板橋町30号と推定、哩程18鎖25節=約367m)があったという記載がある。線路西側は住宅地で道路はない。
この写真は2024/4/13撮影。
東17
西に向かう車は次の東上17号踏切(板橋町31号と推定、哩程23鎖50節=約472m)を渡って行くことになる。この踏切は工事施設箇所表の欄外に小松屋横丁道という追記がある。
「いたばしの古道」によれば小松屋横丁(町)道は中山道の旧板橋町役場近くから西へ向かい、大山駅西側で旧川越街道(ハッピーロード大山商店街)にぶつかりその先の大谷道(おおやどう)へつながる道路(中山道の分岐点に小松屋という酒屋があったことが由来)だったが、線路東側は東京都健康長寿センターの敷地になり一部で道筋が失われているようだ。
東18
豊島病院前の東上18号踏切(板橋町33号と推定、哩程31鎖90節=約641m)を過ぎると、東上線は築堤上を進んでいく。
豊島病院通り
豊島病院北側の豊島病院通りは、アンダーパス(馬場架道橋)で東上線を潜り抜ける。
ここはもともと踏切ではないようだ。
板橋町35号
若干逆戻りしてしまうが、豊島病院通りの南側、坂道を上る手前の築堤を上ったところに板橋町35号(哩程37鎖25節=約749m)があったと推定される。
この写真は2024/4/13撮影。
山中トンネル
東上19号踏切は現存しない。その場所には、山中トンネルという銘板のついたアンダーバスがある。中板橋駅前には山中稲荷神社があり、山中というのはこのあたりの字だったようだ。
板橋区の資料では、仲町架道橋という名称もある。
東19跡
かつての東上19号踏切(板橋町38号と推定、哩程45鎖90節=約923m)は、防災倉庫側の坂道を上がって行ったところにあったらしい。
昭和38年その2
国土地理院Webサイトから昭和38年(1963年)国土地理院撮影の空中写真での東上19号踏切から中板橋駅付近。
東20
中板橋商店街(なかいた)の看板がみえる東上20号踏切。工事施設個所表には板橋町42号(哩程50鎖80節=約1,020m)が記載されているが哩程では若干東側にずれている。
この写真と次は2024/4/13撮影。
板橋町43号
東上21号のやや池袋寄りに板橋町43号(哩程57鎖20節=約1,150m)が記載されているが、山中稲荷神社の奥あたりで東側に道路がない。
東21
中板橋駅上りホームから写真奥に東上21号踏切(板橋町44号と推定、哩程58鎖=約1,166m)を見る。
2016/5/18追記:脱線事故が起きたのはこの踏切の先だが、報道によれば踏切手前のATS地上子が破損しており、実際には踏切手前から車両に支障が起きていた可能性がある。
 
手前には、駅員が使っていると思しき構内踏切が見える。
板橋町45号
現在跨線橋となっているあたりにホーム延伸前の踏切(板橋町45号と推定、哩程62鎖=約1,247m)があったようだ。そのあたりに板橋町と上板橋村の境があったので、板橋町の工事施設個所表はここで終わっている。
この写真は2024/4/13撮影。
by Natrium