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東上58号〜69号踏切

OpenStreetMapで成増駅から笹目通り付近までを見る。
成増駅から先は、東京メトロ有楽町線の開業に合わせ連続立体化されており、東上59号踏切の次は、志木駅の先にある東上91号踏切まで踏切がない。
(1987年時点では12の踏切が廃止されているとされており、数字としてはそれ以前に19の踏切が廃止されていた計算になる)
廃止された踏切の番号については公表されている資料がほとんど見つからないため、推定の部分が多いことをお断りしておく。2012/2/25に埼玉県立浦和図書館で一部の番号を特定できる資料を発見したのでそれをもとに写真の番号を振り直しているが、これも推定が含まれている。
さらに、全国Q地図の東京都3千分の1地図の記載をもとに一部修正(60、61号踏切の位置を変更)した。
成増駅から先は、東京メトロ有楽町線の開業に合わせ連続立体化されており、東上59号踏切の次は、志木駅の先にある東上91号踏切まで踏切がない。
(1987年時点では12の踏切が廃止されているとされており、数字としてはそれ以前に19の踏切が廃止されていた計算になる)
廃止された踏切の番号については公表されている資料がほとんど見つからないため、推定の部分が多いことをお断りしておく。2012/2/25に埼玉県立浦和図書館で一部の番号を特定できる資料を発見したのでそれをもとに写真の番号を振り直しているが、これも推定が含まれている。
さらに、全国Q地図の東京都3千分の1地図の記載をもとに一部修正(60、61号踏切の位置を変更)した。

同じ場所の昭和54年(1979年)の空中写真(国土地理院撮影)。
昭和62年(1987年)に開業する有楽町線の工事たけなわの時期にあたり、川越街道から跨線橋に向かって工事用道路になっていた様子が分かる。
現在この場所は再び住宅街になっており、当時の姿を想像することは難しい。
昭和62年(1987年)に開業する有楽町線の工事たけなわの時期にあたり、川越街道から跨線橋に向かって工事用道路になっていた様子が分かる。
現在この場所は再び住宅街になっており、当時の姿を想像することは難しい。

成増駅西側の東上58号踏切。
このページの写真は特に記載がないものはいずれも2011/11/27撮影。
このページの写真は特に記載がないものはいずれも2011/11/27撮影。

その東上58号踏切に架かる歩道橋は、補修工事のため撮影日の翌日から来年3/31まで通行不可となるそうだ。

せっかくなので歩道橋から眺望を撮影。

連続立体化前最後の踏切となる東上59号踏切は、その先に成増駅折り返し用の引き上げ線を備える。

東上59号踏切から南側の路地をしばらく進むと、線路脇に現れる不思議な行き止まり。
ここが昭和22年の空中写真では踏切になっていた場所。ここを東上60号踏切とすると和光市駅近辺で番号が合わなくなる。とりあえず番号のない踏切跡としよう。
(2023/9/12修正)全国Q地図の東京都3千分の1地図を確認したところ、ここに踏切が描写されていることがわかったので、ここを東上60号踏切としておくことにする。
ここが昭和22年の空中写真では踏切になっていた場所。
(2023/9/12修正)全国Q地図の東京都3千分の1地図を確認したところ、ここに踏切が描写されていることがわかったので、ここを東上60号踏切としておくことにする。

その突き当りから西を向くと成増跨線橋が見える。

成増跨線橋の北側はものすごい崖。

西へ進むと線路沿いにも急坂がある。昭和22年の空中写真では、この先が踏切だったようだが、分譲住宅が絶賛販売中で撮影は遠慮となった。

2011/12/23に再訪。丘の上、というか坂の上の景色。写真右の草むらが踏切の向かい側にあたる部分。
さきほどの踏切跡か、ここが東上6061号踏切だと思われる。
(2023/9/12修正)東上60号踏切の位置修正に伴い修正した。全国Q地図の東京都3千分の1地図でも踏切が描かれている。
さきほどの踏切跡か、ここが東上
(2023/9/12修正)東上60号踏切の位置修正に伴い修正した。全国Q地図の東京都3千分の1地図でも踏切が描かれている。

南側は成増跨線橋のすぐ西側、白子変電所脇にある地図上では道路になっている場所が踏切へ向かう道だったはずだが、フェンスに阻まれ近づくことが出来ない。

その先はすっかり廃道になっていた。

昭和34年(1959年)地理調査所発行1:10000「成増」(昭和32年測量)で見ると、上の位置は踏切跡として描かれており、どうやら東上6061号で間違いないようだ。
右下の陸橋の成増駅寄りには踏切らしきものは書かれていない。
右下の陸橋の成増駅寄りには踏切らしきものは書かれていない。

東武東上線は白子川を橋で超える。画面右側の公園は旧白子川。

昭和22年(1947年)の白子川から外環道の東側まで(米軍撮影)。
左上から笹目通りに向かっているのは、かつて西高島平から和光市へ向かって伸びてくる予定だった地下鉄6号線延伸計画の計画があったところ。
左上から笹目通りに向かっているのは、かつて西高島平から和光市へ向かって伸びてくる予定だった地下鉄6号線延伸計画の計画があったところ。

線路の北側、地福寺墓苑の階段。地福寺は線路の南側にあり、線路で分断された形になっている。

墓苑までの坂道のその先、さらに細い道を上っていくと、わずかに開けた平場に出るが、ここが東上61号踏切だったであろう場所。電車が全速力で駆け抜けていく場所にあり、足元のバランスの悪さも手伝って結構怖い。
昭和22年の空中写真では、かつては南側の地福寺まで道がつながっていた。
昭和22年の空中写真では、かつては南側の地福寺まで道がつながっていた。

南の地福寺側は境内の私有地になっている。あるいは、もとから私道だったのかもしれない。

地福寺から南側を和光市に向かうには、旧川越街道の大坂か、やや線路寄りにある滝坂を上る。いずれもかなりの急坂だ。
滝坂の途中には、「小島家湧水」と銘打った湧水が流れ落ちている。
滝坂の途中には、「小島家湧水」と銘打った湧水が流れ落ちている。

おまけで滝坂の下、旧川越街道の白子宿跡にある白子村道路元標(2015/5/16撮影)。道路元標は大正8年(1919年)の旧道路法で設置されたもので、現在の和光市の前身にあたる北足立郡白子村の中心地であるところの、旧川越街道が成増から坂を下ってきて、和光市方面へ登る大坂に向かって左に直角に折れる交差点に置かれている。いまでは交差点名もない場所だが、かつては白子村の道はここから始まっていたというわけ。

さきほどの北側の細い坂を上った先にあるのが「西寺の上橋」。ここは古くから跨線橋だったようだ。

笹目通りを越えてすぐ、柳下生コン工場の脇にある跨線橋(古美山橋)は連続立体化の際に追加されたもの。
跨線橋の右わきにある小路がかつては踏切となっていた。東上62号踏切の跡と思われる。
跨線橋の右わきにある小路がかつては踏切となっていた。東上62号踏切の跡と思われる。

上の写真、右側の道を進むと、畑の中に怪しげな穴がある。
実はこれがかつての踏切に代えて作られた地下道の「谷中隧道」。東上63号踏切であったと思われる。
実はこれがかつての踏切に代えて作られた地下道の「谷中隧道」。東上63号踏切であったと思われる。

OpenStreetMapで和光市駅近辺の地図を見る。

谷中川を越え、建設中の新道(諏訪越四ツ木線)を越えた西側にある谷戸橋。
ここも古くから跨線橋だったようだ。
ここも古くから跨線橋だったようだ。

義名山隧道。ここも連続立体化前は踏切だった。
2012/2/25に埼玉県立浦和図書館で発見した「通学道路(踏切)一覧表」(埼玉県県民部交通安全課/1983年発行)によれば、和光市下新倉1661に東上64号踏切が存在したと記載されている。
この場所は「ブルーマップ朝霞市・和光市1994」によれば下新倉1561にあたるが、1661は遙か南の方にあり、上記資料の誤記であればここが東上64号踏切で間違いないだろう。
2012/2/25に埼玉県立浦和図書館で発見した「通学道路(踏切)一覧表」(埼玉県県民部交通安全課/1983年発行)によれば、和光市下新倉1661に東上64号踏切が存在したと記載されている。
この場所は「ブルーマップ朝霞市・和光市1994」によれば下新倉1561にあたるが、1661は遙か南の方にあり、上記資料の誤記であればここが東上64号踏切で間違いないだろう。

義名山隧道から少し成増寄りに北側を戻る。正面には東京メトロの施設があるのだが、このあたりが地下鉄6号線と東武東上線が合流するはずだった場所と思われる。見た通り、痕跡は何もない。
和光市史によれば、現在の都営三田線西高島平駅から笹目通りの北側に沿って進み、下新倉氷川八幡神社あたりからカーブしてここで東上線に合流し、和光市から乗り入れる計画だったそうだ。
開通していれば吹上観音と氷川神社のあたりに駅が作られ、和光市内ももっと交通が便利になっていたかと思うと残念ではある。
和光市史によれば、現在の都営三田線西高島平駅から笹目通りの北側に沿って進み、下新倉氷川八幡神社あたりからカーブしてここで東上線に合流し、和光市から乗り入れる計画だったそうだ。
開通していれば吹上観音と氷川神社のあたりに駅が作られ、和光市内ももっと交通が便利になっていたかと思うと残念ではある。

昭和22年の外環西側から、清水通りまで(米軍撮影)。
和光市駅東側の踏切は、ホームの延伸などによって位置を変えている。
西側のホンダがある場所、現在ではつながっていない道路が線路を跨いでいるように見えなくもない。
和光市駅東側の踏切は、ホームの延伸などによって位置を変えている。
西側のホンダがある場所、現在ではつながっていない道路が線路を跨いでいるように見えなくもない。

和光市の中央を縦断する外郭環状道路のすぐ西脇にある中丸隧道。
ここもかつては踏切だった。しかし、外環側にも地下道が完成しており、あまり利用者はいない感じ。
先の「通学道路(踏切)一覧表」には新倉1589に東上65号踏切があり、ブルーマップ1994年版によればこの場所は下新倉1589の隣、1584に位置しており、ここだと考えていいだろう。
ここもかつては踏切だった。しかし、外環側にも地下道が完成しており、あまり利用者はいない感じ。
先の「通学道路(踏切)一覧表」には新倉1589に東上65号踏切があり、ブルーマップ1994年版によればこの場所は下新倉1589の隣、1584に位置しており、ここだと考えていいだろう。

和光市駅北側、妙蓮寺通りが駅とぶつかるところ、昭和22年の空中写真ではここが駅東側の踏切になっていた。
駅の南側はすっかり再開発されてしまい、痕跡はわからない。
駅の南側はすっかり再開発されてしまい、痕跡はわからない。

昭和38年には、駅ホームの延伸により、こちらの側道側に踏切が移動していたらしい。
「ゼンリンの住宅地図 和光市1982」では駅ホームの延伸で踏切は廃止されてしまっていて先の資料にも記載がないが、ここが東上66号踏切の跡と思われる。
「ゼンリンの住宅地図 和光市1982」では駅ホームの延伸で踏切は廃止されてしまっていて先の資料にも記載がないが、ここが東上66号踏切の跡と思われる。

和光市駅北口は再開発が進んでおらず、駅前もかなり狭い。
バスは北口の東側にある転車台(ターンテーブル)で向きを変えて出発していく。
バスは北口の東側にある転車台(ターンテーブル)で向きを変えて出発していく。

かつては南口側にも転車台があった。
南口の駐車場に残されている怪しい円形の筋模様があるが、これが転車台の跡。
南口の駐車場に残されている怪しい円形の筋模様があるが、これが転車台の跡。

駅西側のアンダーパス。ここもかつて踏切だった。桁下が3.3mしかなく、一部の大型車は通行できない。2014/6/25にはいわゆるゲリラ豪雨で冠水してしまい、閉じ込められた車両から運転者が救助される事態になったこともある。
道路の東側には、なぜか昔から廃屋が取り残されたままになっている。
先の資料では新倉4199に東上67号踏切があることになっている。ブルーマップではこの場所が新倉4149とあるので、ここでよいだろう。それにしても、「通学道路(踏切)一覧表」の記載が不正確なのが残念だ。
道路の東側には、なぜか昔から廃屋が取り残されたままになっている。
先の資料では新倉4199に東上67号踏切があることになっている。ブルーマップではこの場所が新倉4149とあるので、ここでよいだろう。それにしても、「通学道路(踏切)一覧表」の記載が不正確なのが残念だ。

さて、そのアンダーパスから少し西に向かって、線路北側から本田開発本社手前のマンションに向かって、斜めに道路が線路にぶつかっている。
昭和22年の空中写真でも、ここはすでに踏切ではないようにみえるが、昭和15年(1930年)大日本帝国陸地測量部発行1:10000「成増」や、「明治前期・昭和前期 東京都市地図2(東京北部)」(柏書房、1996)の「志木 1932→1935) 1:25000」では本田開発の敷地をまたいで古い道が斜めに線路を渡っていたようでもあり、古くは踏切だったのではないかと思われる。
現時点の推測では、ここを東上68号踏切跡として仮定しておく。
昭和22年の空中写真でも、ここはすでに踏切ではないようにみえるが、昭和15年(1930年)大日本帝国陸地測量部発行1:10000「成増」や、「明治前期・昭和前期 東京都市地図2(東京北部)」(柏書房、1996)の「志木 1932→1935) 1:25000」では本田開発の敷地をまたいで古い道が斜めに線路を渡っていたようでもあり、古くは踏切だったのではないかと思われる。
現時点の推測では、ここを東上68号踏切跡として仮定しておく。

さらに西へ進んで、高架線が東京メトロ和光車両基地へ向かうあたり。
写真右下にはアンダーパスで埼玉県道112号線(広沢原清水線)があるが、その東脇にある行き止まりも、昭和15年ごろには踏切だったらしい。
現時点の推測では、ここを東上69号踏切跡として仮定しておく。
写真右下にはアンダーパスで埼玉県道112号線(広沢原清水線)があるが、その東脇にある行き止まりも、昭和15年ごろには踏切だったらしい。
現時点の推測では、ここを東上69号踏切跡として仮定しておく。