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東上68号〜91号踏切
和光市
国土地理院Webサイトから昭和22年(1947年)の空中写真(米軍撮影)を再掲。
これまで和光市駅から志木駅までの間について踏切番号を確認できる資料は一部しか見つかっていなかったが、2023/10/25に埼玉県立文書館所蔵の東武鉄道作成「東上線成増・志木間線路平面図(昭和48/9測量、1:2000)」(以下では「線路平面図」とする)が確認できたため、昭和48時点で現存していた踏切については位置の特定ができた。
成増駅から志木駅までの間にあった踏切は60〜90号の31ヶ所。このうち1987年時点で廃止された12の踏切と、すでに廃止されていた19の踏切があったとされる。
そのうち、番号の分かっている和光市駅西側の67号まで8つを分類すると、前者が62(古美山橋)、63(谷中隧道)、64(義名山隧道)、65(中丸隧道)、67(和光市駅西側)の5ヶ所、後者が60(成増跨線橋東側)、61(白子変電所)、66(妙蓮寺通り)の3ヶ所と推測される。 したがって残る68〜90号踏切については、前者が7ヶ所、後者が16ヶ所ということになり、線路平面図で昭和48年当時の現役踏切7ヶ所(70〜73、83、84、86)と廃止されていた68(越戸川脇の架道橋)、75(岡跨線橋)の位置が確認できたため、再度番号の見直しを行った。
その他の踏切はたしてどこがだったのかは、地図と現地踏査から推測していく。
地図
OpenStreetMapで前半部分の地図
2023/10/9追記:埼玉県立文書館(もんじょかん)の収蔵資料検索システムを調べていたところ、朝霞駅北側の立体交差が東上72号踏切であることを示す資料がリストアップされていた。これにより番号が確定している東上67号以降の踏切番号を見直す必要が出てきたため、再考した。
2023/10/25追記:埼玉県立文書館所蔵の「線路平面図」に記載されていた昭和48年時点の踏切番号については確定できた。
昭和23年
昭和36年(1961年)の空中写真(国土地理院撮影)を国土地理院Webサイトから見る。
右下の越戸川(こえどがわ)本流が和光市との市境にあたり、写真中央下を東西に流れているのは広沢の池を水源とする越戸川の支流である。
このあたりは東武東上線が築堤の上を走っており、道路は築堤の上まで上がって踏切で線路を超えていたようだ。
ちなみに写真左上の引込線はキャンプドレイク(旧陸軍被服廠)への貨物輸送線の跡。
このあたりの一帯は昭和61年(1986年)から平成18年(2006年)にかけて実施された広沢土地区画整理事業の領域にあたり、大幅に道路が改変されていて貨物輸送線の跡は残っていない。
越戸川
東上線が越戸川本流を越える場所にアンダーパスがある。(2013/1/16撮影)
踏切は、写真のアンダーパスよりも北側(写真右側)にあったようだ。連続立体化工事前に廃止されていたと思われる。
東68
西側から、かつて踏切があったであろう方向にアプローチする道路の跡と思われる場所を見る。(2013/9/7撮影)
線路平面図には架道橋が68号と名付けられており、この廃道を上ったところがかつての東上68号踏切跡と考えられる。線路の東側は複々線化工事で失われている。
東69?
東上線が越戸川支流を越える場所から南に向かって上り坂となっており、その頂上部分がかつては踏切だったようだ。ここも連続立体化前に廃止されていたようだ。(2013/1/26撮影)
線路平面図には記載がないが、ここを東上69号踏切跡と仮定しておく。線路の東側は複々線化工事で失われている。
越戸川(広沢支流)の隧道
越戸川の支流、広沢の池から来る流れが東上線をくぐっているあたりにある歩行者専用の隧道。(2013/9/7撮影)
ここはもともと踏切ではなく、隧道であったようだ。線路平面図には稲荷山C(コンクリート桁)と記載されている。
越戸隧道
掘割で東上線の下をくぐる越戸隧道。(2013/9/7撮影)
線路平面図によれば東上70号踏切は写真奥の方に道を上ったあたり、下板橋起点11K723Mにあった第3種踏切(警報機があるが遮断機のない踏切)であった。昭和48年の時点で隧道が完成しておりすでに廃止扱いとなっている。
原畑隧道
越戸隧道の北側で東上線をくぐる片道一車線の原畑隧道。(2013/9/7撮影)
東上71号踏切はここより少し北側、貨物輸送線が分岐していたあたりにあった。
東71
その場所がここ。(2013/9/7撮影)
なんということのない突き当り、左の白い壁付近が下板橋起点11K795Mにあった第4種踏切(警報機も遮断機もない)の東上71号踏切と考えられるが、昭和48年時点でこちらも廃止扱いとなっている。
昭和23年その2
再び国土地理院Webサイトから昭和23年(1948年)米軍撮影の空中写真。
朝霞駅の北側にある現在の朝霞陸橋の位置から北へ、陸橋までの間に踏切が5ヶ所あるように見える。
朝霞陸橋
朝霞駅北側にあるなんとも独特な形の朝霞陸橋。昭和56年(1981年)完成のこの跨線橋がU字型で線路を越えるのは、駅前で周りに直線の橋を作るスペースがなかったためだという。
朝霞陸橋の完成前は、その取り付け部分に踏切があった。
ここからの写真は2013/8/31撮影。
東72
朝霞駅東口と、朝霞陸橋の入り口。
ページの最初で書いたように、この場所にあった踏切が東上72号踏切であったことを示す資料が埼玉県立文書館に所蔵されていることが判明した。また線路平面図にも下板橋起点12K225Mに記載があるのでこの踏切を東上72号踏切と確定し、前後の踏切番号の推定を見直した。これにより昭和48年時点で現役だった踏切(72、73)と廃止されていた75号踏切の位置を確定できた。
踏切跡?
昭和22年の空中写真では踏切として認識できないが、昭和36年の空中写真では踏切があるように見えるのがここ。これを新たに東上73号踏切と仮定しよう。
線路平面図ではこの位置に踏切の記載はない。
この写真は2023/10/10撮影。
本町隧道
道路が野球盤の消える魔球(古)のように一気に線路の下をくぐる本町隧道。完成は連続立体化を前にした昭和58年(1983年)だったため、連続立体化で廃止された踏切にカウントされているものと思われる。
昭和48年(1973年)のゼンリン住宅地図には、ここが踏切として描かれており、線路平面図でもここに下板橋起点12K688Mに位置する東上73号踏切が記載されている。
ここからの写真は2013/8/31撮影。
東74?
上の写真左側の側道を進むと、東西に線路を跨ごうとしている道が線路で分断されている場所がある。
昭和48年(1973年)のゼンリン住宅地図ではすでにここは踏切ではなく、東西方向は行き止まりの道だったようだ。昭和23年の空中写真では踏切として見えることから、線路平面図に記載はないがここを東上74号踏切と仮定しておく。
岡跨線橋
本町隧道の北、東西から線路に向かって斜めに道路が進んできてクロスする場所にあるのが歩道橋の岡跨線橋。
線路平面図では跨線橋となっているが、ここが東上75号踏切であったと考えられる。連続立体化工事の時点ではすでに廃止されていた踏切にあたる。
踏切ではない?
岡跨線橋の北側に、地図上では一見線路を跨いでいるようにみえる場所がある。
実際に東側から行ってみると、道路は途中で農地のあぜ道になっており、線路の向こう側は駐車場で道路ではなかった。
現時点では前後の関係から、ここを東上76号踏切と仮定しておく。
ジャンプ台?
さらにその北側、今度は西側から線路に近づいていくと、掘割になっている線路に突き当たるところでいきなり道が途切れている場所に出くわす。
かつては複々線化された線路の南側に道路があり、西側にある陸橋(諏訪原跨線橋)につながっていたようで、踏切があったわけではないらしい。
このさきは、東武東上線を越える陸橋が3つ続き、いずれも踏切ではない。
77号探し
OpenStreetMapで朝霞橋近辺の地図を見る。
とりあえず東上77号踏切の推定位置を記載してみた。
謎の階段
3つの陸橋(諏訪原跨線橋、朝霞橋、中道跨線橋)の先で、東武東上線は黒目川を渡るため築堤に移行する。
その築堤になる部分で道路が一か所アンダーパスしているのだが、その南側に廃道化された道路と、築堤を駆け上がる謎の階段があった。階段の先は線路になってしまい、古くはここに踏切があったのではと思わせる景色ではある。線路の東側にも同様に線路脇の鉄道敷に階段が設けられている。
「明治前期・昭和前期 東京都市地図2(東京北部)」(柏書房、1996)の「志木 1932→1935) 1:25000」では、東側にある東圓寺から進んでくる道がここで線路を渡っているようにも見えるのだが、昭和23年の空中写真でもすでに東側の道路自体が見えず、確証は得られていないがここが東上77号踏切跡ではないだろうか。
この先は、東武東上線が黒目川を越える築堤が続き、しばらく踏切がない。
北朝霞近辺
北朝霞近辺の地図
線路平面図では東上73号踏切の次は83号踏切までないので、昭和48年時点ですでにその間の踏切は廃止されていたと思われる。
昭和4年
国土地理院Webサイトから昭和23年(1948年)米軍撮影の空中写真と、ロールオーバーで昭和50年(1975年)国土地理院撮影の空中写真を比較。
昭和49年(1974年)開業の朝霞台駅周辺は,、昭和48年(1973年)に武蔵野線が開通する前後に行われた北朝霞土地区画整理事業(昭和45年〜50年)で大幅に街路が変更されてしまっており、踏切があったころの面影をたどることは難しい。
踏切自体も、区画整理のころまでには写真左上端の東上8483号(仮定)以外は廃止されていたようだ。
2019/11/2追記:相澤様からの情報によると、東武東上線の踏切番号が決められたのは昭和35年(1960年)ということで、当時存在しなかった北朝霞陸橋には踏切番号はなかったということになる。したがって、北朝霞陸橋から志木方面の踏切番号は推定を見直していくことにする。(相澤様ありがとうございます)
2019/11/9追記:昭和36年(1961年)の空中写真を見たところ、北朝霞陸橋の部分には道路があり、踏切と思われる痕跡があった。一方、当初東上79、80号踏切と想定していた場所には踏切らしき道路が写っていなかった。したがって、再度番号の推定を見直すことにする。
東78?
朝霞台駅の上を越えている浜崎陸橋の池袋寄りにある突き当たって左に曲がっている道が、東上78号踏切跡と仮定される。
ここからの写真は2013/9/7撮影。
東79?
北西側から東上線と武蔵野線の立体交差付近を見る。
2019/11/9追記:当初このあたりに東上79号踏切があったと推定したのだが、踏切番号が付けられてすぐの昭和36年(1961年)の空中写真に踏切らしき道路は写っておらず、踏切番号はなかったようだ。
東80?
線路の向こうにスーパーマーケットを望むこのあたりに、昭和23年(1948年)の空中写真では踏切があるように見えるのだが、昭和36年(1961年)の空中写真に写っていないことから、踏切番号はなかったようだ。
ここも、痕跡らしきものは全く残っていない。
東81?
北朝霞陸橋の下に、斜めに走っていた古い道が東上79号踏切跡と仮定される。
この旧道は踏切の南側で黒目川までつながっていたが、現在はすぐに断ち切られてしまっており、黒目川から来る二本松通りとの分岐点も失われている。
東82?
写真左に見える北朝霞陸橋は、区画整理中の昭和47年(1972年)に完成しており、連続立体化のときには踏切はすでに廃止されていた。
陸橋の志木寄りにあるこの道が、かつての東上80号踏切跡と仮定しておく。
2019/11/9追記:昭和36年(1961年)国土地理院撮影の空中写真に立体交差化前の道路がきちんと写っており、踏切も隣の斜めの道とは別に存在しているのが見て取れることから、あらためてここを踏切として想定することにした。
馬頭観音
2019/11/10に改めて東上81号踏切を探しに行った。前回訪問時には気がつかなかったが、北朝霞陸橋の北側、上の写真左端の場所に馬頭観音の文字塔が置かれていた。
東81?
北朝霞陸橋のすぐ西側に、廃道となっている空間が残っており、空中写真で見るとどうやらここが踏切だった場所のようだ。
これを東上81号踏切と想定しておこう。
東83?
朝霞市朝志ヶ丘、かつてこのあたりには東上線を挟むように「ハケの山」と呼ばれた雑木林が広がっていた。
現在では東側が団地とマンションの敷地になってしまい面影はずいぶん失われているが、その東寄りで線路に向かっている細い路地が東上82号踏切跡と仮定される。
ここからの写真は2013/9/7撮影。
境界標
上の写真で奥に見える電柱の下に、「東武」の刻印がある境界標が埋め込まれていた。
東84?
そのすぐ志木寄りには、平地にいきなり穴を掘ったような隧道が東上線の下をくぐっている。
ここは連続立体化まで現役だった踏切で、線路平面図に下板橋起点15K042Mに位置する東上83号踏切跡として記載されている。
ハケの山
同じ場所から線路の方を見る。西側にはまだ雑木林が残っている。
写真左端に写っているのは、線路の南側に残されている雑木林。
OpenStreetMapで志木駅~柳瀬川駅間を見る。
志木周辺
国土地理院Webサイトから昭和36年(1961年)国土地理院撮影の空中写真
ハケの山西側から、志木駅を越えて現役の東上91号踏切までの区間。
2019/11/2追記:この地図にある踏切番号は、84から89までの位置がそれぞれずれていたと思われるので修正した。
2023/10/25追記:線路平面図には87から90までの記載はないため、それらは昭和48年にはすでに廃止されていたと考えられる。
東85?
現在では雑木林がなくなっているが、志木住宅公園東側にある行き止まりの道が東上84号踏切で、線路平面図にも下板橋起点15K375Mの第4種踏切として記載されている。
この踏切は昭和59年(1984年)の空中写真でも残っており、連続立体化工事まで現役だったと思われる。
境界標その2
上の写真で左側の擁壁に埋め込まれているのがやはり「東武」の刻印がある境界標。
地下通路
志木住宅公園西側には、志木陸橋の手前に東上線をくぐる地下通路がある。
左側から来ている道は、かつての野火止用水の東側流路にあたり、地下通路の位置で東上線をくぐっていた。したがって、ここは踏切ではなかったと思われる。
この写真は2013/8/14撮影。
志木陸橋
昭和49年(1974年)完成の志木陸橋あたりに、東上85号踏切跡があったと仮定される。
ただし、写真手前の左から来る路地は「明治前期・昭和前期 東京都市地図2(東京北部)」(柏書房、1996)の「志木 1932→1935) 1:25000」では線路の向こうに続いており、古くはこちらが踏切だった可能性もある。
ここからの写真は2013/9/7撮影。
構内踏切
志木駅の池袋方には現役で使われているらしい構内踏切があった。
東87?
志木駅西側にあるアンダーパスが連続立体化までは踏切だった。古くは、野火止用水の西側流路が線路を渡っていた場所にあたる。
2019/11/2追記:相澤様からの情報により、このアンダーバスが地元で「86号踏切」と呼ばれていることがわかった。(相澤様ありがとうございます)
また、志木市が発行している複数の公文書でも確認できた(現在でも志木市では「86号地下隧道」と呼ばれている)ので、これが東上86号踏切であったことは間違いないと思われる。
2023/10/25追記:線路平面図にも下板橋起点16K014Mに第1種乙踏切(始発から終発まで踏切の遮断を行うもの)として記載されているのを確認した。
86号地下隧道
というわけで2019/11/2に再調査に行ってみた。アンダーバスの脇には歩行者用通路があり、その北側にたしかに「86号踏切地下隧道」と書かれた銘板があった。
行き止まり
上の写真左側の側道に入ってみると、すぐに左へ分岐する道があって、その突き当りがかつては線路の北側へ続く道だった。
この道路は昭和36年(1961年)の空中写真ではすでに踏切ではなくなっていたようで、踏切番号はつけられていないようだ。
ここからの写真は2013/9/7撮影。
踏切
線路北側から見ると、なんと踏切が!
とはいえ、これは写真右側(柳瀬川寄り)にある引上げ線用の構内踏切で、一般の通行は出来ない。
東87?
2019/11/10に再訪。北側道路からの踏切は、昭和36年の空中写真では踏切は86号地下隧道脇の旧道方向へ向かうのではなく、西向きに斜めに線路を渡っていたように見える。南側には、対応する位置に行き止まりの路地があり、これがどうやら東上87号踏切だったということのようだ。
東89?
路地のある道路に向かわずそのまま北へ進むと、引上げ線にいる車両に阻まれて向こうが見えないが、いかにも踏切跡らしい行き止まりが現れる。
ここを東上88号踏切跡と仮定しておく。
ここからの写真は2013/9/7撮影。
北側
線路の北側に回ってみると、こちらにもいかにもそれらしい突き当りがある。
側道
2019/11/2に再訪。東上88号踏切跡と思われる行き止まりから西に向かって、線路脇の側道が続いていた。
89
側道が陸橋に突き当たったところで、陸橋の側道側から線路を見る。昭和38年(1963年)に埼玉県道113号川越・新座線、北側は志木大通り、通称「防衛道路」)の陸橋ができるまでは、ここに踏切があったということなので、これを東上89号踏切と想定しておくのが正しそうだ。
未成歩道
その防衛道路の陸橋に上ってみたが、東側に歩行者用の歩道が設置されているのに対して、西側には歩道がなく橋脚のあるところだけ微妙にはみ出した構造が作られている。歩道を作るつもりで放ってあるのか、道路拡張の準備なのかわからないが、謎の構造物だ。
旧道
一方、線路南側から東上90号踏切跡へ向かっていたはずの旧道を進むが、埼玉県道113号に阻まれてしまう。
県道の西側は区画整理されたらしく、痕跡は残っていない。
ここからの写真は2013/9/7撮影。
東90
北側からアプローチしてみると、児童公園の脇を抜ける路地の奥が行き止まりになっており、ここが東上90号踏切跡と考えられる。
ここはすぐ西側に現役の踏切があり、踏切番号は間違いないだろう。
東91
そしてここからは現役の踏切が残る東上91号踏切。
いきなり狭くなっているが、これでも車両通行止めではない(大型車は通行禁止)。
踏切名
いやあ。お久しぶり。
これで、連続立体化部分の廃踏切を辿る小さな旅も終わりとなる。
by Natrium