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玉川線の踏切(渋谷〜用賀)

OpenStreetMapで玉電渋谷から大橋付近までを見る。
玉電玉川線は現在地下を走っている東急田園都市線(2000までは新玉川線)の前身で、大半の区間が国道246号玉川通りの上を走る路面電車だった。
途中、専用軌道になっている場所もあり踏切があったので、そこを中心に沿線を見ていこう。
参考資料:
・国立公文書館所蔵「停留場廃止其ノ他ノ件」(東京急行電鉄, 1942)
・キャンブックス「玉電が走った街 今昔」(林順信/JTBパブリッシング, 1999)
・がんばれぼくらの世田谷線
玉電玉川線は現在地下を走っている東急田園都市線(2000までは新玉川線)の前身で、大半の区間が国道246号玉川通りの上を走る路面電車だった。
途中、専用軌道になっている場所もあり踏切があったので、そこを中心に沿線を見ていこう。
参考資料:
・国立公文書館所蔵「停留場廃止其ノ他ノ件」(東京急行電鉄, 1942)
・キャンブックス「玉電が走った街 今昔」(林順信/JTBパブリッシング, 1999)
・がんばれぼくらの世田谷線

渋谷駅のJR旧玉川改札(2020年に廃止)から井の頭線が発着するマークシティへの連絡通路にある岡本太郎の壁画「明日の神話」。玉電渋谷停留場は井の頭線と東京メトロ銀座線に挟まれたこのあたりにあった。
ここのページの写真はすべて2026/1/16撮影。
ここのページの写真はすべて2026/1/16撮影。

壁画の下からマークシティ方向を見たところ。玉電はエスカレーターと階段がある部分に通っていた。当時の位置関係を推定するのは難しいが、1994年のマークシティ着工まで旧玉電の跡にバスターミナルがあり玉電の設備がそのまま流用されていた。

道玄坂まで出てマークシティの駐車場と歩行者用入口側から見たところ。
現在駐車場の方は坂道を上っているが、元はここから玉電が歩道側の高さに向かって入っていっていた。
現在駐車場の方は坂道を上っているが、元はここから玉電が歩道側の高さに向かって入っていっていた。


そこからすぐ西側、坂道を少し上ったところにある道玄坂上バス停から坂下方向を見たところ。
1907年3月に玉電が開通した時から渋谷停留場に延伸された8月までは、このあたりにあった道玄坂上停留場が始発駅だった。1941年に休止となり、翌年廃止されている。
1907年3月に玉電が開通した時から渋谷停留場に延伸された8月までは、このあたりにあった道玄坂上停留場が始発駅だった。1941年に休止となり、翌年廃止されている。

道玄坂を上り切ったところに休止となった道玄坂上停留場の代わりに上通(かみどおり)停留場が設けられたのだが、それらしい跡は何も残っていない。

現在大坂上バス停があるあたりにも1941年まで大坂上停留場があった。道玄坂上との中間にある上通停留場に統合された形となり、翌年廃止されている。

OpenStreetMapで三軒茶屋から上馬までを見る。
現在も残っている世田谷線と玉川線は三軒茶屋交差点で分岐していて、それぞれに三軒茶屋停留場が設置されていた。
三軒茶屋から二子玉川方向に進んだところにあるサンタワーズ付近で旧大山街道が玉川通りから東へ逸れていくのだが、そこから上馬交差点の手前で旧大山街道が戻ってくるところまでが玉電の専用軌道区間であった。専用軌道には玉電中里停留場を挟んで3ヶ所踏切があったと思われる。
現在も残っている世田谷線と玉川線は三軒茶屋交差点で分岐していて、それぞれに三軒茶屋停留場が設置されていた。
三軒茶屋から二子玉川方向に進んだところにあるサンタワーズ付近で旧大山街道が玉川通りから東へ逸れていくのだが、そこから上馬交差点の手前で旧大山街道が戻ってくるところまでが玉電の専用軌道区間であった。専用軌道には玉電中里停留場を挟んで3ヶ所踏切があったと思われる。

三軒茶屋交差点から玉川通りの二子玉川方向を見たところ。世田谷線は写真右端で見切れているカラオケ店の右側へ分岐していた。
玉川線の三軒茶屋停留場はカラオケ店のビルの先にあったと思われるが、玉川通りが拡幅されてしまっているため痕跡はない。
玉川線の三軒茶屋停留場はカラオケ店のビルの先にあったと思われるが、玉川通りが拡幅されてしまっているため痕跡はない。

ここで少し世田谷線の方に寄り道してみよう。
地下にある田園都市線三軒茶屋駅の出入口になっている吹き抜け(三茶パティオ)の西側から三軒茶屋交差点方向を見たところ。写真奥の階段あたりに世田谷線の旧三軒茶屋停留場があった。1969年に玉川線が廃止となったあと、三軒茶屋・太子堂四丁目地区第一種市街地再開発事業に伴い1992年に三軒茶屋駅を180m西太子堂寄りの仮駅へ移動して廃止された。
地下にある田園都市線三軒茶屋駅の出入口になっている吹き抜け(三茶パティオ)の西側から三軒茶屋交差点方向を見たところ。写真奥の階段あたりに世田谷線の旧三軒茶屋停留場があった。1969年に玉川線が廃止となったあと、三軒茶屋・太子堂四丁目地区第一種市街地再開発事業に伴い1992年に三軒茶屋駅を180m西太子堂寄りの仮駅へ移動して廃止された。

その三茶パティオと現在の三軒茶屋駅があるキャロットタワーの間を南北に通る道路に、1992年に廃止となった旧三軒茶屋1号踏切があった。

三軒茶屋駅を出発して現在の三軒茶屋1号踏切に進入する301F。
1992年まではこの踏切が三軒茶屋2号踏切で、1996年に三軒茶屋駅が完成するまでは休止となっていた。
1992年まではこの踏切が三軒茶屋2号踏切で、1996年に三軒茶屋駅が完成するまでは休止となっていた。

少し西太子堂寄りに進んで教学院入口から三軒茶屋駅方向を見たところ。1992〜1996年の仮駅は三軒茶屋1号踏切手前にあった。

世田谷線北側にある教学院(天台宗最勝寺)は「目青不動」とも呼ばれ、目白、目黒とともに江戸五色不動の一つだが秘仏とされており拝観はできないそうだ。
なお、江戸五色不動とはいうものの江戸時代にはそうは呼ばれていなかったという説もある。
なお、江戸五色不動とはいうものの江戸時代にはそうは呼ばれていなかったという説もある。

旧大山街道分岐の反対側、写真奥に見える横断歩道あたりから専用軌道が始まっていたらしい。おおよそ、現在の玉川通り上り線の位置にあったようだ。

北側から道路が落書きがひどい陸橋の側壁に突き当たるところに最初の踏切があった。名前は記録に残っていないが、ここが玉川線の三軒茶屋1号踏切ということになる。

世田谷警察署前交差点に二番目の踏切があった。

さらに二子玉川方向へ進んで次の交差点手前に玉電中里停留場があり、交差点に三番目の踏切があった。

上馬バス停のやや渋谷寄りで東側から旧大山街道が玉川通りに合流しており、写真中央の高架橋脚あたりまでが専用軌道だった。

OpenStreetMapで用賀から瀬田までを見る。
玉川線は新町一丁目交差点で玉川通りと分かれて北側を通る旧大山街道へ移るが、用賀駅近辺ではさらに旧大山街道をショートカットする形で専用軌道区間があった。用賀停留場の前後に4つの踏切があったので見ていこう、
玉川線は新町一丁目交差点で玉川通りと分かれて北側を通る旧大山街道へ移るが、用賀駅近辺ではさらに旧大山街道をショートカットする形で専用軌道区間があった。用賀停留場の前後に4つの踏切があったので見ていこう、

桜新町から用賀に向かって坂道を下るところに旧大山街道と旧専用軌道(現在は補助212号線)の分岐点がある。ここでは昭和55年(1980年)から延々道路整備工事が行われており、以前は手前に向かって一方通行だった(坂を下る方は旧大山街道が使われていた)坂が2010年台に相互通行となり、その後も歩道の整備などが進んでいる。現在の工事では補助212号からまっすぐ行けた旧大山街道の入口が閉鎖されて、右折して入る形に変更されている、

坂の途中、左(南)側にある用賀神社。明治41年(1908年)までは天祖神社と称しており、宇佐神社などを合祀して用賀神社としたという。
(参考:国立国会図書館デジタルコレクション所蔵「玉川沿革誌:附・名所旧蹟案内」田中博, 1934)
(参考:国立国会図書館デジタルコレクション所蔵「玉川沿革誌:附・名所旧蹟案内」田中博, 1934)

その用賀神社の前から専用軌道跡に出たところの交差点に踏切があった。ここも名前は記録に見当たらないが、場所から考えると桜新町1号踏切ということになる。

交差点を北へ進み、旧大山街道に突き当たって左に曲がると水道みちと旧大山街道が交わる大山道追分に出る。
写真中央に石碑があるのだが、ゴミ集積所になってしまっている。かつては庚申塔があったが若林にある世田谷区立郷土資料館に移設されているそうだ。
水道みちについては砧線の踏切で紹介しているのでそちらを参照していただきたい。
写真中央に石碑があるのだが、ゴミ集積所になってしまっている。かつては庚申塔があったが若林にある世田谷区立郷土資料館に移設されているそうだ。
水道みちについては砧線の踏切で紹介しているのでそちらを参照していただきたい。

用賀中町通りが軌道跡と交差する用賀駅入口交差点にも踏切があった。写真は南側から見たところ。

そのすぐ西側、用賀駅寄りに北から斜めに線路を横断する踏切があった。

南側から踏切跡を見たところ。歩道脇に幅広いスペースがあるが、ここが線路脇の側道だった。

一つ西側の交差点脇に「玉電用賀駅跡」の石碑が立っている。現在の田園都市線用賀駅よりも1ブロック東側に玉電の停留場があった。
ところで、玉川村の大字だった用賀(ようが)という地名だが、国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の「世田谷城名残常盤記:世田谷風土記」(鈴木堅次郎, 1961)によれば鎌倉時代初期に当地に真言密教の瑜伽(ゆが)道場が開設されたことによるといい、サンスクリット語のヨーガが語源であるという。
もっともこの説は昭和になってから鈴木氏が唱えたもので、先に挙げた「玉川沿革誌」では開発の始めを永禄・文亀の頃としている。永禄は室町時代の1558〜1570年、文亀は1051〜1504年なのでこの年号は元亀(1570〜1573年)の間違いではないかと思うがいずれにせよ室町時代以前には遡れなさそうではある。
ところで、玉川村の大字だった用賀(ようが)という地名だが、国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の「世田谷城名残常盤記:世田谷風土記」(鈴木堅次郎, 1961)によれば鎌倉時代初期に当地に真言密教の瑜伽(ゆが)道場が開設されたことによるといい、サンスクリット語のヨーガが語源であるという。
もっともこの説は昭和になってから鈴木氏が唱えたもので、先に挙げた「玉川沿革誌」では開発の始めを永禄・文亀の頃としている。永禄は室町時代の1558〜1570年、文亀は1051〜1504年なのでこの年号は元亀(1570〜1573年)の間違いではないかと思うがいずれにせよ室町時代以前には遡れなさそうではある。

玉電用賀停留場の西側、田園都市線用賀駅の入口がある交差点に4つめの踏切があった。
交差点左手前側から旧大山街道が合流し、専用軌道は終わっていた。
交差点左手前側から旧大山街道が合流し、専用軌道は終わっていた。

用賀駅北側にはバスターミナルがあるが、こちらに向かって玉電の引込線が伸びていた。現在世田谷ビジネススクエアが建っているあたりに玉電の車庫を作る計画があったが、大橋車庫で事足りてしまったようで実現していない。
玉電玉川線の方はそのまま旧大山街道を進んで環状八号線の瀬田交差点を渡り、二子玉川へ向かっていた、
瀬田から二子玉川までの間にある踏切跡については砧線の踏切で紹介しているので、今回はここまで。
玉電玉川線の方はそのまま旧大山街道を進んで環状八号線の瀬田交差点を渡り、二子玉川へ向かっていた、
瀬田から二子玉川までの間にある踏切跡については砧線の踏切で紹介しているので、今回はここまで。