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多摩川園1号~元住吉3号踏切
地図その1
OpenStreetMapで新丸子駅周辺を見る。
新丸子駅は多摩川右岸の砂利を採取していた砂利採取線が分岐していた場所で、現在の砂利採取線の跡地の一部は新丸子保線区として利用されている。
新丸子駅の北側には3ヶ所の踏切があったが、1986年に新丸子駅付近の立体交差化工事により廃止されている。踏切が廃止された当時は多摩川駅はまだ多摩川園駅であったため、踏切番号も当時の名称のままになっている。
このページの参考資料は以下の通り:
・鉄道ピクトリアル2015/12臨時増刊号「特集・東京急行電鉄」(電気車研究会, 2015)
・同2018/10別冊 アーカイブセレクション40「東京急行電鉄 1970」(電気車研究会, 2018)
・「東急の駅 今昔・昭和の面影」(宮田道一/JTBパブリッシング, 2008)
東急100年史(WEB版)
・川崎市立中原図書館所蔵
 -「三千分の一地形図 中原東南部」「同 住吉」「同 日吉西部」(内務省復興局, 1927)
 -「三千分の一地形図 上丸子」「同 木月」(川崎市土木部都市計画課, 1942)
 -「中原地区明細地図」(経済地図社, 1963)
・国土地理院Webサイト「昭和22年(1947年)空中写真」
今昔マップ on the web
多摩川園1号踏切
神奈川県道45号丸子中山茅ヶ崎線(中原街道)が東横線を渡っていた多摩川園1号踏切跡。
砂利採取線はこの辺りから本線の西側に分かれて行っていた。
ここからの写真は2026/4/28撮影。
踏切跡?
新丸子保線区北側の道路を西から見たところ。左側に見えるマンションの裏手あたりを砂利採取線が南北に通っていたのだが、ここに踏切はあったのだろうか。
水路敷
砂利採取線が道路と交差していた場所から多摩川に向かって線路脇に沿って流れていた水路の跡が残っていた。
砂利採取線は右側の住宅付近を通っていたと思われる。水路敷(地籍図では長狭物)は多摩川に向かって左にカーブしていく。
多摩沿線道路
多摩川堤防の下を通る多摩沿線道路から水路敷の出口を見たところ。
砂利採取線はその左側から多摩沿線道路に出てきていたと思われる。
堤防
多摩川の堤防に上って上流方向を見たところ。砂利採取線は左下を通る多摩沿線道路沿いに上流に向かって伸びていた。
砂利採取線としては等々力緑地の手前あたりまでで、そこから先はさらに上流に向かって久地付近まで砂利用軌道が続いていた。
多摩川園2号踏切
多摩川園1号踏切のすぐ南側に多摩川園2号踏切があった。
多摩川園3号踏切
新丸子駅北側にある多摩川園3号踏切の跡。
ここから武蔵小杉駅までの間は築堤になる前から踏切はなかった。
地図その2
OpenStreetMapで武蔵小杉駅南側を見る。
南武線・武蔵小杉〜武蔵中原で詳しく触れたが南武線の前身である南武鉄道が建設中だった大正15年(1926年)に、東京横浜電鉄が南武線の敷地を平面で跨ぐ形で東横線を開通させてしまったため、南武線開通後半年間は平面交差で運行されていたという。
築堤となった東横線には、昭和14年(1939年)府中街道南側に工業都市駅が設置されたが、武蔵小杉駅周辺に軍需工場が増えたことから昭和20年(1945年)に南武線の上に武蔵小杉駅(木造で仮設駅のような有様だったという)が開業。工業都市駅との駅間が400mしかなかったことから昭和28年(1953年)に武蔵小杉駅を現在の位置に移動して工業都市駅と統合した。
府中街道
武蔵小杉駅の南側を通る国道409号(府中通り)が東横線の下をくぐっている地点。築堤ができる前はここに踏切があったと思われるのだが、半年しか使われなかったこともありはっきりしたことはわからない。
昭和2年発行の三千分の一地形図「中原東南部」には、踏切があるように描かれている。
工業都市駅跡
府中街道から東横線を南向きに見たところ。府中街道すぐ南側の築堤上に工業都市駅があった。
昭和17年発行の三千分の一地形図「上丸子」には駅が描かれている。
市ノ坪神社
工業都市駅跡のすぐ脇、東横線の西側に市ノ坪神社がある。昭和47年(1972年)までは神明宮と称していたといい、昭和2年の地形図には線路の東側から鳥居に向かって参道が線路を渡っているように描かれているが、昭和17年の地形図には見られない。現在も線路東側にある東福寺の墓地脇に線路に突き当たる道路が残っており、そこに踏切があったようだ。
神明架道函渠
神社のすぐ南側には神明架道函渠があるが、参道の代わりとして造られたのかもしれない。
二ヶ領用水
東横線は二ヶ領用水を丸子川橋梁で越えている。ここから目黒線だけが地上に降りて高架の東横線と二層式の複々線になっている。
東住吉小向かい
線路越しに東住吉小学校を眺める突き当たりに踏切があったようだが、現在は小学校側の道路が失われてしまっている。
木月トンネル
二ヶ領用水の分水路である渋川の左岸側で目黒線の下をくぐる木月トンネル。写真右奥の橋脚脇に武蔵小杉1号踏切があった。
木月トンネルの車道部分は2024/3に開通したが、歩道が2024/6/27に供用開始となったことに伴って翌6/28に踏切が閉鎖されている。
地図その3
OpenStreetMapで元住吉駅付近を見る。
住吉村は明治22年(1889年)の合併で新しく付けられた名前で、大正14年(1925年)には大部分が中原村と合併して中原町(現在の川崎市中原区)となっている。
駅名はその住吉村があったあたりということで、「元」住吉と付けられたのだそうだ。したがって木月住吉町はあっても、元住吉という町名は存在しない。
駅南側には開業時から車庫があったが、数度の拡張を経て現在の形になっている。
斜め
元住吉駅北側、渋川右岸の住宅地に緩やかに蛇行する道があって線路に斜めに突き当たっているが、昭和2年地形図ではここに踏切が描かれている。
住吉神社
東横線の西側にある住吉神社。住吉村にある神社だから「住吉」で、大阪の住吉神社を勧請したものではないそうだ。明治42年(1909年)に村内にあった10社を合祀するまでは矢倉神社(矢倉明神社)と名乗っていた(矢倉は近辺の字名)。
当の矢倉神社は創建も祭神も明らかでないという。
昭和2年地形図では、現在の元住吉1号踏切付近から神社の鳥居に向かって斜めに参道があって、線路を渡る部分に踏切があったように描かれている。
鳥居前
鳥居の前から線路の方を見たところ。昭和17年地形図では参道がなくなってこの突き当たりに踏切が描かれている。
この写真は2026/4/30撮影。
元住吉1号踏切
元住吉駅の北側、武蔵小杉寄りにある元住吉1号踏切。
駅の手前なのに元住吉の名前が付けられているのは昭和36年(1961年)に駅が踏切北側に移されたためで、それ以前は現在の位置に駅があった。平成18年(2006年)に目黒線が延伸されたのに合わせて駅は再び踏切南側(高架上)に移設されている。
ここからの写真は2026/4/28撮影。
上り側
踏切から武蔵小杉駅方向を見たところ。高架化以前の元住吉駅はこのあたりにあった。
地上を走っていた目黒線は写真奥で再び高架に上っており、踏切に入ってくるのは元住吉検車区の出入庫列車だけになっている。
住吉神社付近にあった3つの踏切跡は、複々線化によっていずれも痕跡が残っていない。
元住吉検車区
踏切から南側に広がる元住吉検車区方向を見たところ。昭和36年以前はこのあたりに元住吉駅があった。
木月陸橋跡
検車区南側を通る神奈川県道14号尻手黒川線を西側から見たところ。ここには元住吉2号踏切があったが昭和42年(1967年)に県道側に木月陸橋が出来て立体交差になり廃止された。
その木月陸橋は複々線化に伴い平成18年(2006年)に東横線・目黒線と上下を入れ替えて廃止となっている。
旧踏切
ところで昭和17年地形図や昭和39年の中原地区明細地図を見ると、尻手黒川線のすぐ北側にもう一つ道路があって踏切が描かれている。
東急100年史の「鉄軌道事業 踏切数」という資料によれば昭和41年(1966年)に元住吉〜日吉間で詳細不明の踏切が一ヶ所廃止されており、位置関係から考えるとこの踏切であった可能性がありそうだ。
写真は拡張された元住吉検車区に突き当たる旧道の入口を東側から見たところ。
この写真は2026/4/30撮影。
もうひとつ
昭和2年と昭和17の地形図には、尻手黒川線の南側にもうひとつ踏切らしきものが描かれている。
東西の道路の様子は二つの地形図で大きく異なっているのだが、線路東側の京急ストア北にある路地(おそらく水路敷)が線路に突き当たっっているあたりが踏切だったのではないかと思われる。
ここからの写真は2026/4/28撮影。
地図その4
OpenStreetMapで日吉駅付近を見る。
矢上川の谷を挟んで元住吉3号踏切は日吉台の高台にあったが、昭和38年(1963年)にやや北側に地下道が造られて廃止されている。
矢上川
矢上川に架かる中吉橋から東急線を見たところ。ここは昔から線路の下を道路がくぐっていたので踏切はない。
かつての矢上川は九十九曲がりと言われるほど蛇行していて洪水も多かったというが、大正昭和に改修され真っ直ぐとした流れになっている。
日吉不動尊
日吉台から矢上川を望む崖上に建つ日吉不動尊。
川崎市と横浜市にまたがっていた日吉村の由来はここではなく日吉駅西側にある金蔵寺(こんぞうじ)の日吉権現だそうだが、金蔵寺にも不動明王が祀られていてややこしい。
元住吉3号踏切
昭和38年(1963年)に廃止された元住吉3号踏切は日吉駅の手前、日吉台から矢上川に下りていく坂道の途中にあった。西側から見ると写真手前で坂道と分かれて線路脇を進んでいく道があって、中央奥で擁壁から高架に切り替わるあたりに踏切があった。複々線化でそのあとは失われている。
ここからの写真は2026/4/30撮影。
東側
東側には踏切へ向かう道路の跡らしき残余地が残っている。
by Natrium