和泉川の水路敷群(和泉川本流)
OpenStreetMapで
和泉川下流部を見る。
和泉川は1960年代後半に暗渠化された神田川の支流(笹塚支流とも呼ばれる)だが、正式に付けられた名称はなく中野区史の記載をもとに和泉川と呼ばれているらしい。
名もなき支流にしては非常に流域が長く、本流の北側に支流が並走しているのでまずは本流側を見ていこう。
神田川の相生橋上流にある和泉川の巨大な排水口。上に道路が通っているが、川に蓋をしただけという状態なのかもしれない。
ここからの写真は2023/7/28撮影。
和泉川の上に行ってみる。河川敷部分は実質的には橋で、そこから暗渠が上流へ向かっている。
背景に高層ビルを眺めながら南へ進み最初の橋を渡る。この橋には長者二号橋という名前がついているそうだが、銘はなく確認することはできない。
ちなみに「長者」とはこの付近の開拓や商いで財を成し中野長者と呼ばれた鈴木九郎のことで、
十二社の熊野神社など近辺にはいくつか遺構も残っている。
写真手前、次の長者一号橋は欄干の一部が残っており、かろうじて「第一號橋」「十三年三月竣功」と刻まれているのが読み取れるが、上部は補修されているため読み取れない。
奥の羽衣橋も欄干の一部が残っており、こちらは橋名と竣功日(昭和三十二年三月三十一日竣功)が読み取れるが、年号は微妙だ。
羽衣橋を東側から見たところ。橋を渡る道路はやたらと幅が広いが、この道路が水路だったという記録は見当たらない。
写真奥の左(南)側は崖になっており、明治大正期の和泉川は崖の手前にある羽衣湯の前を流れていたらしいが神田川方向には痕跡は残っていない。
羽衣湯の方から見たところ。奥の盛り上がった部分が羽衣橋で、手前に見える一方通行の出口から斜め手前に旧流路があった。
東側から見た柳橋の親柱には「昭和七年九月落成」と刻まれており、すでに90年を超えてここにある。
明治大正期の和泉川は
今昔マップでみる限り写真手前から正面右の一方通行路へ向かって道路の右(北)脇を流れていたようだ。左に向かう一方通行路は付近の旧地名を冠した二軒家道(GoogleMapで「二軒屋道」となっているのは誤り)で、和泉川の北側を並走している。
反対側から柳橋を見る。都庁を背景に昭和の商店街のコントラスト。写真左手前にはかつて柳の木と、ここが「はっぴいえんど」の1stアルバム(通称「ゆでめん」)のジャケットに使われている「ゆでめん風間商店」があった場所という看板があったことが
Googleストリートビュー(2017/10〜2022/10)で確認できるのだが、現在はどちらも残っていない。
ここからの写真は2023/12/6撮影。
和泉川旧流路を進んでいったところにある淀橋庚申堂。「この先行き止まり」と書かれた小道がかつての旧流路跡ではないかと思われるが、現在の和泉川に辿り着く前に行き止まりになっている。
和泉川に戻ってさらに南の榎橋を西側から見たところ。榎橋は大正13年(1924年)の架橋だそうで、100年にならんとする強者だ。
次の交和橋は都道432号の拡幅により失われている。都道から北側の遊歩道を下流方向に見たところ。
都道の南側で和泉川はビルの裏に回り込んでいるが、そこは都営地下鉄西新宿五丁目駅の自転車駐車場として利用されている。写真左手(南側)からは崖が迫ってきており、和泉川は西側から流れてきて都道で北へ向きを変える形になっている。
すぐに水路敷は都道に最後合流。歩道南側にゆるやかなカーブを描く空間があり、そこが川跡と思われる。
川跡は清水橋交差点手前ですぐにまた都道から分かれていく。手前の道路あたりに大関橋があった。
大関橋から上流については渋谷区中央図書館所蔵の「渋谷の橋」(斎藤政雄編、渋谷区教育委員会発行, 1996)の記載に沿って見ていくことにする。大関橋の名前はここにあったコンクリート製の護岸大関に由来するという。
清水橋交差点の南側にあった清水橋は平成15年(2003年)に行われた山手通りの拡幅で失われているが、跡には橋の欄干を模したモニュメントが作られている。
山手通りを渡ってからすぐは遊歩道になっているが、一つ西側の丁字路から先は地図上では二軒家小径と名付けられた道になっている。写真手前の丁字路部分が杢右衛門橋の跡で、杢右衛門は江戸時代の地元の年寄(名主の補佐をする村役人)の名前だという。
写真中央の蓋暗渠のようなコンクリート舗装部分が水路なのかと思いきや、どうやら右側の赤い舗装部分が水路敷らしい。
赤い舗装の出発点に描かれた「0M」の文字。ここから上流に向かって50mおきに表示がある。
二軒家小径の出発点から80mくらいのところにある二軒家橋。慶長年間(1600年ごろ)にこのあたりに二軒の家があったことから地名になったという話が残っていたそうだ。現在でも周辺には二軒家を関する公園などが残っている。
Googleストリートビューの2009/12を見ると、架け替えられる前の古い二軒家橋(大正13年製とのこと)が見られる。どうやら当時は現在よりも水路敷の幅が広く、さきほどのコンクリート舗装部分まで水路敷だったようだ。
二軒家橋から上流側は護岸を模した柵がなくなり、植え込みで境界を作っている。赤い舗装の右がわにも空間があるが道路として扱われているようではないので、そこまでが水路敷ということだろう
150m地点にある弁天橋。南の都道431号線(水道道路)付近にあった市寸島(いつくしま)神社、すなわち弁天神社へ向かう道があったためその名があるというが、現在ここから水道道路へ直接向かう道はない。東京時層地図を見ると文明開化期の地図では弁天橋近辺から南へ向かう道筋があったように見えるので、ここを通って神社へ向かっていたのかもしれない。
この弁天神社は現在水道道路となっている玉川上水の新水路が造られた際に笹塚駅西側に移設されたというが、移設に伴う逸話はそちらで改めて紹介するとしよう。
200m地点にある村木橋は、昭和30年(1955年)に造られた橋がそのままの形で残っている。村木橋から上流は道路と別れ水路敷のみの遊歩道となる。
300m地点にある本村橋。この辺りは古くは代々幡村大字幡ヶ谷字幡ヶ谷本村であった。橋自体は後からモニュメントとして作り直されたもののようだ。
次の新橋で赤い舗装の遊歩道は終わっており、350mの表示はなさそうだ。画面では行き止まりのように見えるがフェンスは車止めとして設置されていて間に歩行者が通れる程度の隙間がある。
新橋は遊歩道と高低差があるため中央部にスロープをつけて通れるようにしてあるが、橋自体は昭和15年(1940年)に架け替えられたものという。
新橋から上流はコンクリート舗装が剥き出しの遊歩道となっている。写真奥に見えるのは名前のない橋で、渋谷区立の小中一貫校である渋谷本町学園の第二グラウンドに渡る橋となっている。構造は新橋とほとんど同じなので、同じ頃に架けられたのではないだろうか。
次は親柱と土台しか残っていない地蔵橋を南側から見たところ。橋を渡る道路はGoogle Mapでは国府道と名付けられており、地図上では新宿区の青梅街道にある成子坂下バス停付近から方南町駅付近までつながっているのだが、文献で確認できる情報がない。
写真右(北)から支流が合流しているところにあたり、写真左枠外のたもとには酒呑地蔵堂があったことが
Googleストリートビューの2009/12で確認できるが、その後更地になってしまっている。酒呑地蔵は水道道路と中野通りの交差点にある清岸寺に移設されたそうだ。
酒呑地蔵については、宝永5年(1708年)正月に酒を飲んだ帰りに川に落ちて亡くなった中村瀬平という若者が村人の夢枕に現れ、地蔵尊を祀るよう伝えたことに由来するという。
支流は機会を改めるとして、引き続き本流を遡っていく。地蔵橋の上流側では、遊歩道の中央に植え込みが置かれている。
植え込みを活かしながら欄干風のモニュメントが置かれている柳橋。
柳橋の上流側から再び赤い舗装が復活。川筋が南へ曲がった先にあるのガードレールが氷川橋の跡。
橋名の由来になった幡ヶ谷氷川神社は和泉川の本流と支流の北側にある。創建は不明ながら、永禄年間(1558年〜1570年)の小田原北条家文書に記載されているという古い神社だ。
氷川橋から中幡小学校付近を見る。氷川橋に向かって南側から2つの支流が合流してくるのだが、こちらは機会を分けて紹介していくとして、さらに本流を上流に向かっていこう。
赤い舗装を進んでいくと、マンションの狭間に本町桜橋が現れる。欄干の一部を残して虎縞模様の車止めを付けた形は、「渋谷の橋」では氷川橋や柳橋、地蔵橋も同じデザインだったようなのだが、残っているのはここだけになっている。
写真奥に見える幡ヶ谷新道公園の手前、六号通りが渡る新道橋。六号通りの名前は水道道路(玉川上水新水路)にかかっていた六号橋に由来するもので、南は幡ヶ谷駅へつながっており商店街が連なっている。
新道公園の脇を抜けていく水路敷。新道橋の欄干は平成2年(1990年)から3年(1991年)にかけて暗渠になっていた橋の架け替え工事が行われた際に付け替えられたものだという。
赤い舗装の遊歩道は中幡小学校の温水プール前に出たところで終わっている。ここにはもともと橋はなく、小学校と道ができたときに和泉川は小学校脇だけ暗渠化されていたようだ。全国Q地図の
東京都3千分の1地図(1961〜1962年)では中幡小学校沿いだけ水路がないのが見て取れる。
中幡小学校西側の七号通りとの交差点にあったのが中幡橋。この辺りの旧地名は中幡ヶ谷で、小学校と橋の名前はそこから取られている。
ここから上流側は、写真右側の歩道を水路が流れていたようだ。中幡橋から先は道路になっていて橋の跡は残っていないが、橋名だけは記録に残っている。
ここからの写真は2023/8/2撮影。
写真手前の交差点の橋名は残っていないが、写真奥の横断歩道付近には山下橋があった。
道路を進んでいくと、左(南)側に中幡庚申塔がある。この前に庚申橋があった。立派な御堂の中にある庚申塔は明治5年(1872年)造立の比較的新しいものという。
庚申橋の西側で、道路西側から来る和泉川本流と、南から道路脇を流れてくる笹塚の支流が合流していた。ここでも本流側へ進んでいくことにしよう。
いわゆる環状6.5号線こと東京都道420号鮫洲大山線が渡る場所にはGoogle Mapで笹幡橋という名前がついているが、「渋谷の橋」には記載がない。
都道420号を渡って道路を進む。突き当たって水路敷が現れるところにあったのが北笹塚橋。「渋谷の橋」では地図に北笹塚橋、本文では北笹幡橋と描かれているのだが、どちらが正しいかを確認する資料は見つけられていない。
左に嵩上げされた笹塚中学校の敷地を眺める位置にある明治橋。明治時代に造られたわけではなく、笹塚中学校ができる以前、明治5年(1872年)から同地にあった明治薬学校に由来するという。
十号坂の商店街が渡る一之字橋の先で、水路敷は富士見丘中学高等学校の敷地となってしまい通ることができなくなる。
富士見丘中高西側に回って新十一号橋跡から上流方向を見たところ。高校敷地手前に倉庫があって、水路敷はそこから復活している。
振り返って上流方向。水路敷側に向いたガードレールに沿って水路敷は徐々に水道道路の脇へ近づいていく。
左(南)川の築堤上に水道道路が見えてきた。玉川上水新水路は明治25年(1892年)の淀橋浄水場(現在の新宿中央公園など)建設に伴って明大前駅近くの東京都水道局和泉水圧調整所となっている場所から造られたもので、ほとんどの場所で盛り土をして築堤を作って一直線に新宿へ向かっている。したがって、元の地面の高さは水路敷のある部分ということになる。
ただし、水道道路と呼ばれはしているが昭和12年(1937年)に甲州街道の方に水路が移されたため、現在は道路の下に現役の水路はないそうだ。
写真左枠外の水道道路にあった十二号橋から築堤脇を降りてきて、写真奥で和泉川を渡るところにあったのが新十二号橋。
新十二号橋跡から上流方向を見たところ。写真左の建物は入口を水道道路側にするため嵩上げされている。
水道道路を挟んで広がる十三号通り公園の崖下で水路敷は若干北側に迂回している。
公園の西側、片側だけ欄干が残る堺橋を上流側から見たところ。和泉川本流では名前のわかっている橋としてはもっとも上流にあるものだ。
水路敷が再び水道道路の築堤下に出たところ、写真奥のビルに突き当たるあたりが上流端となる。谷筋は水道道路の南側に移って和泉水圧調整所近くまで入っていくが、笹塚駅西側から玉川上水を分水した逆川も含め、機会を分けて紹介していきたい。今回はここで終了となる。