神田川周辺の水路敷群(ひまわり橋〜八幡橋)
OpenStreetMapで
ひまわり橋から八幡橋までを見る。
今回は神田川の右岸側、玉川上水との間を流れていた水路跡を見ていこう。
永福町駅から都道427号瀬田貫井線(永福通り)を南へ進んで神田川を渡る永福橋のひとつ下流側にある歩道橋ひまわり橋。そこから下流方向を見ると、右岸側に排水口が見える。
上流の下高井戸八幡神社の脇からここまで、神田川右岸に水路跡がある。
ここからの写真は2024/9/23撮影。
右岸側へ渡って排水口の上、河川敷からひとつ上った道路から南へ向かう車止めのある道路を見たところ。
全国Q地図の
東京都3千分の1地図(1959〜1960年)。
左岸側にある養魚場(現在は住宅地)の対岸に南から合流している支流がある。支流は直接神田川に合流するのではなく、現在の永福学園敷地内で和泉二丁目方向へ向かう支流の方に合流していたようだ。
永福体育館西側の入口から伸びている道路はおおむね川筋の跡にある。
永福通りに向かって、ひまわり公園の前を進んでいく道路は水路跡らしいくねり方をしている。
道路から南側のひまわり公園を見る。公園の奥に崖があり、道路を中心に付近が谷筋になっていることがわかる。
永福通りの西側へ。永福通り付近は高台になっていて上流に向かって道路が下り坂になっている。空中写真の映像などから永福通りを跨いで東西に水路がつながっていたと考えていたのだが、実際には東西の流れは別々なのかもしれない。
坂を下りたところで東京都立中央ろう学校のグラウンドに突き当たって道路が左(南)へ。グラウンドから先は低地に広がっており、ここから西側にはかつて農地が広がっていた。
道路南側はかなり高低差のある崖地になっている。かつて神田川の蛇行により出来上がった斜面に盛り土をして宅地化したように見える。
ろう学校の西側には、上流方向に向かって道路の神田川寄りに車止めのある水路敷が残っていた。
水路敷の終点から神田川方向を見たところ。調整池の工事で通行止めになっているが、神田川に向かう水路があったように見える。
水路敷の方を上流へ進んでいくと、途中から調整池工事のため半分フェンスで封鎖されているが通り抜けることはできるようだ。
水路敷から神田川方向(北)を見る。写真奥に見えるのは左岸側の永福南公園。手前の右岸側では神田川洪水対策となる下高井戸調整池工事が進んでいる。
工事現場の先、車止めを挟んで水路敷は住宅地の間を抜けていく。
調整池の西側に広がる下高井戸おおぞら公園が見えてきた。公園は今後調整池の上に作られた人工地盤の方へ拡張される予定となっている。
水路敷は公園の南側を通っている。昭和30年代前半までは神田川とこの水路敷の間に農地が広がっていた。
公園西側で再び住宅地へ。写真奥に東京都道428号高円寺砧浄水場線(豊玉水道道路)が見える。
水道道路手前、南へ向かって伸びる蓋暗渠を見つけた。
蓋暗渠を南側道路から見たところ。東側(写真右)には下高井戸公園がある。
戻って支流の水路敷を荒玉水道道路へ。道路の東西でなぜか車止めの形が異なっている。
ここでいったん水道道路を北へ神田橋方向に向かう。途中おおぞら公園側から出てくる蓋暗渠があった。写真奥で北から曲がってきているように見える。
蓋暗渠の西側は向陽中学校に突き当たる道路になっている。幅が広く、側溝があった可能性はあるだろう。
おおぞら公園の西側出口付近から南へ向かう蓋暗渠を探す。写真ではわかりにくいが、正面の黒いフェンスの向こうに蓋暗渠が残っている。
そこから神田川寄りに水路跡は残っていないが、すぐ北側にある工事用通路は神田川の蛇行跡にあるので、ここに合流していたのだろう。
神田橋南詰の水道道路西側、工事用通路の向かい側にあるフェンスの向こうが蛇行跡。
蛇行跡は神田橋のすぐ上流で神田川から分かれている。河川敷の植え込みから覗き込んでみると、アスファルト舗装された水路敷になっていた。
再び支流の水路敷に戻って、荒玉水道道路の西側へ向かう。すぐ先で水路敷は神田川の流れに合わせて北向きとなる。
意地でもオートバイの通行は許すまじとばかりに車止めが柵のように置かれている。
向陽中学校の北側で、左(西)から玉川上水の
下高井戸分水が合流してくる。
まっすぐ支流の方を進んでいくとすぐに道路に出る。道路の左側に大きく広がった空間があり、そこが水路敷だったようだ。
上流側で再び道路と別れ水路敷に。こちらの車止めはかなり古びてしまっている。
擁壁を眺めながら水路敷は徐々に西向きになり、神田川南を東西に通る道路に出る。
道路南側の崖下に水路敷が通る。歩道というにはちょっと凸凹しすぎでは…
道路側から水路敷を見たところ。崖上の住宅を造成したときに車庫に入れるように凹んだ部分を作ったようだが、手前側の擁壁には車庫がない。
Googleストリートマップでは2018年まで車庫があったことがわかる。
すぐに道路と別れた水路敷は道路の南側、崖下を通っていく。
水路は八幡橋のたもとで神田川と別れていたと思われる。
最後に八幡橋の由来となった下高井戸八幡神社へ。長禄元年(1457年)太田道灌が勧請したとされ、周辺には縄文時代から古墳時代の土器類が出土するなど古くから居住に適した場所にあった。
この写真は2023/9/15撮影。