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烏山川上流の水路敷群(新烏山川)
地図その1
OpenStreetMapで芦花公園駅付近を見る。
芦花公園駅と千歳烏山駅の間に向かって玉川上水から大きくは3つの水路が伸びているが、今回は中央を流れる新烏山川(烏山用水)を遡ってみる。(下流側は別ページ
新烏山川は東八道路の岩崎橋下流側で玉川上水から分水した用水路で、自然河川を元にした古烏山川(門九郎堀)の東側を並走している。
新烏山川は用水路としては烏山用水と呼ばれているが、別名を「孫さん川」といい万治2年(1659年)に玉川上水から分水した際に孫右衛門という人物が開削に関わったことからと伝わっている。
団地
写真右に芦花公園プレスティージュ、左に芦花公園団地、手前には烏山南住宅団地というマンション群の間を抜ける烏山川遊歩道を北へ向かって遡っていくことにする。ちなみに路上には世田谷区の境界標があり、遊歩道は区有地になっているようだ。
ここからの写真は2024/8/12撮影。
北側
団地北側を東西に抜ける道路が見えてきた。
行き止まり
道路を渡った北側は京王線の線路にぶつかって行き止まりになっている。
京王線
京王線の北側に回って下流方向を見たところ。京王線の下を抜けていたはずの水路は連続立体化工事で仮囲いに覆われ見えないが、延長線上にある歩道部分がそのまま水路敷といって良さそうだ。
上流へ
振り返って上流方向。写真奥で歩道が突き当たりにぶつかっているのが見えるが、新烏山川は左側から、右側の道路からは平太夫堀の西側分流である水車用水(泉水用水)が合流してきている。
合流点
合流点から左へ曲がって新烏山川の上流を目指す。比較的幅の広い水路敷が残っている。
地図その2
OpenStreetMapで3つの水路が並走する京王線と中央自動車道の間を見る。新烏山川は平太夫堀がある千駄山の高台と古烏山川が流れる低地を分ける位置を流れている。
水路敷
すぐに右(北)へ曲がって旧甲州街道へ向かう。
旧甲州街道
旧甲州街道を烏山下宿バス停脇で渡る。芦花公園から千歳烏山の間は江戸時代の烏山宿で、千歳烏山駅寄りから上宿、中宿、烏山川の谷を挟んで芦花公園駅寄りが下宿と呼ばれていた。
街頭
旧甲州街道の北側、世田谷区の水路敷によくある街頭が並んだ水路敷は写真奥で封鎖されている。
草むら
フェンスの先にも水路敷は続いているのだが、草むらになっていて通り抜けることはできない。
脇道
一方、フェンスの右側に東からくる別の水路敷がある。
グレーチング
そちらを進んでいくと突き当たりで右へ転進しているのだが、その先は中央にグレーチングのある水路で通り抜けるのは避けた方がよさそうだ。
通行止め
北側に回ってクランクになっている水路を下流方向に見たところ。こちらには烏山土木管理事務所のバリケードが置かれていた。
上流側
振り返って上流方向を見る。この水路跡は古地図などでは確認できないのだが、平太夫堀から別れた水路だったのかもしれない。
本流
さて、新烏山川本流の方はグローリオ蘆花公園の東側を抜ける水路敷として続いているが通ることはできないので、甲州街道まで回ってきた。甲州街道南側から水路敷の入口を見ることができる。
烏山松葉通り住宅
甲州街道の北側は、烏山松葉通り住宅東側の道路となっている。
欄干
烏山松葉通り住宅の北東端から上流は水路敷は道路東側を流れており、写真手前で道路に合流する場所に橋の欄干が残されていた。
ここから先、水路敷の西側は新旧烏山川に挟まれた烏山北住宅という大きな団地になっている。
烏山北住宅
烏山北住宅の東側入口にあたる道路北側にも欄干が残る。烏山北住宅は東京都住宅供給公社が昭和42年(1967年)に完成(入居完了)させたという古い団地(世田谷区の資料によれば建設は1964〜1966年)で、敷地は南北900mに渡るという。現在、南側の烏山松葉通り住宅(こちらは1959〜1964年の建設)と合わせて再開発が計画されている。
フェンス越し
フェンス越しに水路敷を眺める。
道路を渡る
烏山北住宅を東西に横断する道路を渡って水路敷はさらに続いていく。
住宅地図
烏山北住宅内にあった地図(北が右)には、住宅の両脇を流れる新旧烏山川の流路が描かれている。
歩道
地図の上では水路敷は住宅北端まで独立しているように見えるが、実際には烏山北保育園付近から北側は歩道になっている。
木立
3本並んでいる道の中央が水路敷であった歩道となっている。
中央自動車道
進んでいく烏山北住宅を東西に貫く中央自動車道が見えてくる。住宅内の高速道路は「烏山シェルター」と呼ばれるトンネル上の構造物になっており、建設当時の騒音・粉塵対策が行われている。当初の計画では高速の下に側道(補助219号線)が建設される予定であったが、これも住宅内では建設が中止されている。
雑木林
高速道路の北側では、水路敷は再び歩道と別れ東側のマンションとの間に通っているのだが、雑木林になっていてこの位置からではよくわからない。
ここからの写真は2024/8/10撮影。
高源院付近
OpenStreetMapで岩崎橋・高源院近辺を見る。
新烏山川は岩崎橋下流川の分水口から別れた流れと、高源院の鴨池(弁天池、亀の子出井、大亀出井とも)からの流れを合わせていたと考えられる。岩崎橋の分水口は明治4年になって移築されたもので、万治2年の分水口はもっと下流側にあったという。
古烏山川へ
烏山北住宅の中を西へ向かう水路敷。この先は古烏山川を見ていくときに改めて確認しよう。
通路?
東側のマンション敷地に向かってフェンスの隙間が通路のようになっていた。しかし、水路敷部分のフェンスは空いておらず足場のようなものが…
水路敷
烏山北住宅の北側出口付近から下流方向を見ると、マンションとの間に水路敷が残っているのが確認できた。
ここからの写真は2024/8/12撮影。
下本宿通り
烏山北住宅を出て下本宿通りを西向きに見たところ。写真手前側には平太夫堀に向かって下本宿通りが伸びている。ここから分水口へ向かって進んでいく。地図によれば道路右の歩道ではなく、左(南側)に水路があったらしい。
分岐
途中、烏山北住宅とコーシャハイム久我山の間を流れていく分岐があった。ここも古烏山川を進む時に改めて見ることにしよう。
石塔
通りの右(北)側に庚申塔などが並んでいる。
分水口へ
そのまま下本宿通りを進んでいくと、マンションと学生会館の間にある空間がかつての分水口から来た水路の跡。
公園
マンション北側に回ってみる。分水口があったあたりは玉川上水緑道公園として整備されている。東八道路拡張により分水口付近の水路は失われている。
看板
岩崎橋脇にある玉川上水の看板。橋のたもとに明治4年(1871年)※に移設された烏山用水の分水口が見えるそうなのだが、真夏に来てしまったため生い茂った草木に阻まれて見えなかった。
※千歳村史では明治3年としている。
高源院へ
さて、ここでいったん下本宿通りを戻って庚申塔の少し西側に、南へ向かって進んでいく水路敷がある。ここに古烏山川の水源である高源院からの流れが合流していたのでそちらを見ていこう。新旧の烏山川はここだけでなく途中何ヶ所かで接続されているが、両方の水位を均衡させて水田に給水できるようにしたものという(参考:「武州烏山村史跡 大橋場の跡 石柱碑建立記念の栞」下山照夫編、岩田書院、1987)。
ここからの写真は2024/8/17撮影。
コーシャハイム
水路敷は道路に出て、コーシャハイム久我山と住宅地の間を右(西)へカーブしていく。
久我山病院裏
道路右側が水路跡と思われるが、写真奥の久我山病院裏で左(南)に曲がる。
南へ
コーシャハイム久我山を左に見ながら南へ進むが、すぐに道路が右(西)へカーブしていく。このあたりでは左右どちらの歩道が水路跡だったのかは見た目ではよくわからないが右側だったらしい。
ここからの写真は2024/8/12撮影。
松葉通りへ
カーブの先で水路は松葉通りと交差する。
フェンス
松葉通りの西側では、水路敷は大妻久我山寮の北側を通っているのだが、フェンスに阻まれて通ることはできない。
西側
水路敷の北側から西に回っていくと、旧烏山川とつながる道路に水路敷が出てくる。
ここからの写真は2024/8/10撮影。
上流
上流側もフェンスで封鎖されている。Google Mapでは開渠として表記されている部分だがアスファルト舗装された暗渠になっている。
空き地
そこから水路敷北側の道路に戻って西へ進んだところに空き地がある。空き地奥の住宅との間に水路敷があるはずだが、草むらに隠れていてよくわからない。
全国Q地図
全国Q地図の東京都3千分の1地図(1961〜1962年)を見ると、新烏山川に向かう流れは、高源院にある鴨池の東側で古烏山川の流れと分かれているように描かれている。分岐点は表からは見えない場所にあるので直接は確認できないが、国土地理院Webサイトの昭和22年空中写真(米軍撮影)で確認することができる。
隙間
最後に高源院北側の三叉路突き当たり側から烏山川に向かって伸びる隙間があったので一応記録しておく。高源院まわりについては古烏山川を見ていくときに紹介するとしよう。
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