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烏山川上流の水路敷群(門九郎堀)
地図その1
OpenStreetMapで芦花公園駅付近を見る。
芦花公園駅と千歳烏山駅の間に向かって玉川上水から大きくは3つの水路が伸びているが、今回は一番西側を流れる古烏山川(門九郎堀)を遡ってみる。(下流側は別ページ
門九郎掘は古烏山川という名前が示すように自然河川であった烏山川の流れを元にした水路で、もっとも大きな水源は北烏山にある高源院の鴨池(弁天池、大亀出井、亀の子出井とも)にある。実際には高源院の上流にも玉川上水から分水したと思われる水路が残っているので、そこも合わせて見ていこう。
団地
芦花公園団地の西側を流れている門九郎堀を北に向かって遡っていく。団地内では水路跡は遊歩道になっている。
ここからの写真は2024/8/12撮影。
行き止まり
遊歩道は京王線にぶつかって行き止まりとなっている。
入れない
線路北側に回り込んで下流側を見たところ。こちら側は解放されていないが、はっきりとした水路敷が残っている。
駐車場
上流側は駐車場脇を流れている。その先も入っていくことはできない。
旧甲州街道
北へ進んで旧甲州街道に出る。烏山下宿バス停の西側、ホテルの脇に水路敷の入り口がある。
地図その2
OpenStreetMapで京王線北側の水路群を見る。
大橋場
ホテルの裏口が水路敷を跨いでいるのだが、その脇には下山地蔵尊と呼ばれる石塔や庚申塔、「大橋場の跡」と彫られた柱などがある。
国会図書館所蔵の「関東大震災の治安回顧(特別審査局資料;第1輯)」(吉河光貞、法務府特別審査局、1949)によれば、関東大震災が発生した翌日の大正12年(1923年)9月2日、風評(流言、デマ)に基づいて地元住民が組織した自警団が千歳村大字烏山通称下田甫(同所蔵「烏山:甲州街道間の宿の民俗 世田谷区民俗調査第2次報告」によれば現在の新旧烏山川に挟まれた旧甲州街道南側)の橋付近において、偶然通りかかった貨物自動車に乗っていた朝鮮人労働者を襲撃した事件があった。
「1923関東大震災報告書 第2編」(中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会、内閣府、2009)によれば検挙15名、被害者17名(うち死亡1名)であったという。
世田谷区立烏山図書館など所蔵の「武州烏山村史跡 大橋場の跡石柱碑建立記念の栞」では発生を9/3としているが、大橋場の石橋が落下した部分に車輪が挟まってしまったトラックの荷台にいた12名が被害にあったとしている。
車止め
さて、旧甲州街道から上流側も見ていこう。世田谷区ではよく見かける車止めの向こうに門九郎堀の水路敷が続いており、ここからは通れるようになっている。
南烏山三角公園
水路敷は徐々に西に向かってカーブしていき、南烏山三角公園に出る。この三角公園は水路跡に造られたもので、門九郎堀は写真右側(北)から流れてきているのだが、写真奥からは出井(でい)天然水という支流が合流している。こちらについては改めて見ることにしよう。
また、出井天然水の南側に2つの水路敷らしきものがあるのだが、こちらも出井天然水で合わせて紹介したい。
甲州街道へ
南烏山三角公園を右(北)に曲がって甲州街道へ向かう。甲州街道の北側、矢印の部分に気になるものが…
欄干
甲州街道を渡って東側(新宿寄り)から見たところ。取り残された橋の欄干のようなものが残っている。親柱はなく、橋名はわからない。
水路跡
裏側に回って烏山松葉通り住宅から甲州街道方向を見ると、団地の間に水路敷が残っていた。
小道
水路敷はそのまま団地の中を北にある烏山北住宅へ向かって伸びていく。
木立
木立の間を進んでいく砂利舗装の水路敷。
ここからの写真は2024/8/17撮影。
水門?
烏山松葉通り住宅の北端、欄干から飛び出していたのは水門のスピンドル?
舗装路
その北側は烏山北住宅で、住宅の西端を水路敷がアスファルト舗装で抜けていく。
間
左に住宅を見ながらさらに進む。この写真ではわかりにくいが、右側のフェンスにソーラーライトが取り付けられている場所がある。世田谷区の水路敷は区が設置した照明がついている場合が多いのだが、この水路敷はそれがないため地域住民が自主的に設置したのかもしれない。
境界標
水路敷脇にあった境界標。このマークは東京都住宅供給公社が1992年まで使用していたものだ。中層住宅をイメージしたデザインだというが、たしかに下から見上げた形に見える気もする。
橋
途中、水路敷は左(西)向きにカーブしていき、写真奥で道路と交差するところには橋の欄干が見える。
駐車場
欄干は西側にしか残っていないのだが、そこから先は駐車場として使用されている。駐車場の地面には川跡に沿って舗装の切れ目が残っているのがわかる。
古欄干
川跡の先の方を駐車場の南側から見てみると、古い形の欄干が残っていた。水路はその北側に向かって続いているようだが、こちら側からは入っていくことができない。
北側
北側に回り込んで下流方向を見たところ。こちらにも同じタイプの欄干がある。
ガードレール
そこから水路は道路脇を西へ進み、写真奥の道路手前で北へ曲がる。
草むら
北向きに上流方向を見たところ。駐車場として使われている部分の右側にある草むらが水路敷と思われる。
給水塔
昭和の団地によくある給水塔と番号付きの中層住宅。
烏山北住宅は昭和39年(1964年)に建設が始まり、入居が完了したのは昭和42年(1967年)と完成から50年以上経っており南側の烏山松葉通り住宅と合わせて団地の建て替えや地区計画が検討されている。
フェンス
水路敷を渡る道路には水路敷の部分にだけフェンスがあるが、水路敷そのものはきっちり封鎖されているわけではない。
いつもの
松葉通りとつながるどうろには、北側からみるとまた同じタイプの欄干が登場。
木の公園
上流側、「木の公園」西側を水路敷が通っているが封鎖されていて入れない。
反対側
公園中央を横切る道路から下流方向を見たところ。ここまでが通れない水路敷。
広場
木の公園北半分の広場脇は、水路敷を通ることができる。
砂利舗装
公園の北側ではフェンスに挟まれた砂利舗装の水路敷となっていた。
中央自動車道
中央自動車道が烏山北住宅を通り抜ける手前で、古烏山川は大きく西側に流路を変えている。
廃道と現道
フェンスの向こうを覗き込むと、手前には廃道になっている橋の欄干、奥には現道の欄干が見える。
開渠
現道側に回り込んで廃道の方向を見ると、澱んで入るが水が流れている開渠が残されていた。
現道
現道側の欄干から上流方向を見たところ。道路左(西)にも欄干が残っており、古烏山川はここから道路左側を通っていく。もとは緩やかに蛇行しながら流れていたが、烏山北住宅建設時に付け替えられた。
ニキシー管
ここでちょっと西側の松葉山公園に寄り道。公園東側の高速下支柱にニキシー管式のCO濃度・騒音計が付けられている。現在では該当で数字を表示するパネルは液晶やLEDが主流だが、中央自動車道が開通した1970年代まではまだニキシー管も使われていた。
それにしても、おそらく設置から50年くらい経っているのではと思われるこの装置、非常に見づらいがまだきちんと現役で稼働しているようだ。
この写真は2024/8/19撮影。
水路敷と道路
戻って道路脇の水路敷を進んでいく。歩道が右側にあるためこちら側はあまり使用されている様子がなく、雑草が生えてきている。
ここからの写真は2024/8/17撮影。
途切れる
道路左側の水路敷は古烏山川が西側から流れてくるところで終わる。ここで本流は直角に曲がっているが、これも烏山北住宅建設時の付け替えで、古い地図ではもう少し西側をカーブしながら流れていた。
この場所は東側と北側を流れる新烏山川と接続する水路との交差点でもあるので、先にそちらの水路を見ておこう。
地図その3
OpenStreetMapで中央自動車道から高源院付近を見る。
接続水路
新烏山川でも取り上げた新烏山川の高速道路北側に古烏山川から出てくる水路跡。
ここからの写真は2024/8/10撮影。
北烏山二丁目児童遊園
水路敷は北烏山二丁目児童遊園の北側を通っている。
交差点
さきほどの交差点に出る。古烏山川本流は写真奥から流れてくるが、車止めのある広い道路ではなくガードレールの方向から考えてその右側が水路敷と思われる。
蓋暗渠
一方、交差点へ北側の下本宿通りから流れてくる水路は、道路を離れ東側のフェンス内側で蓋暗渠になっている。写真左奥には一対の欄干が残る。
ここからの写真は2024/8/17撮影。
一対
欄干はもう一対あり、その先が下本宿通りとなっている。
玄照寺
さて、古烏山川本流を高源院へ向かう。右(北)にコーシャハイム久我山、左(南)に都営烏山アパートを見ながらガードレールの右側を歩いていくと、松葉通りに出る。突き当たりに見える日蓮宗玄照寺の境内にも湧水があったというが、水路敷は寺の北側を流れている。
この玄照寺やこれから向かう高源院など26の仏教寺院が集まるこの辺りは烏山寺町と呼ばれており、関東大震災の翌年である大正13年(1924年)から昭和24年(1949年)にかけて旧東京市内の各所から移転してきた。
ここからの写真は2024/8/10撮影。
遊歩道
玄照寺北側の遊歩道が古烏山川の流路にあたる。
木立のトンネル
木立のトンネルになっている遊歩道を抜けていく。
道路
途中で遊歩道は道路になる。
通行止め
道路となっていた川跡は高源院の敷地に入る手前で通行止めになっていた。
上流側
高源院敷地東側で新旧烏山川は分岐しているが、東側の道路からフェンスで封鎖された分岐する前の水路敷入り口をみることができる。
開渠
そのすぐ北側に、高源院から流れ出てくる開渠を見ることができる。
高源院
禅宗(臨済宗大徳寺派)の高源院は烏山寺町の26寺院では比較的遅く昭和14年(1939年)に品川から移転してきた寺院で、境内にある弁天池(烏山の鴨池、大亀出井、亀の子出井)が烏山川本流の水源とされる。
ここからの写真は2024/8/19撮影。
弁天堂
池の中心部にある弁天堂を見る。池の周囲は烏山弁天池特別保護区として公開されている。
地図上では弁天池の北東側を水路が流れているのだが、確認することはできなかった。
ここからは高源院より北側、三鷹市から流れてくる水路を見ていこう。
全国Q地図の東京都3千分の1地図で1961〜1962年(左)と1963〜1964年(右)の比較。
高源院北側から流れてくる水路が、高源院の方へ流れていたのが、東側に流れを変えているのがわかる。
西側
寺町通りの高源院正門北側にも地図に描かれた水路敷が残っている。おそらくは寺町通り側にも牟礼から流れてきた水路の末端があったのではと思われるが、その痕跡は残っていない。
新流路
一方、高源院東側の開渠脇から北向き上流方向に見たところ。1963〜1964年ごろの新しい水路はこの歩道を流れていたと思われる。
クランク
突き当たりをクランク状に曲がっていく。
駐車場
前の写真奥に写っていた駐車場の隅に弁天池の方に流れていく水路の跡が残っている。
ここからの写真は2024/8/10撮影。
歩道
そこから上流、北に向かって道路脇の歩道として水路敷が下本宿通りまで続いている。
地図その4
OpenStreeMapで下本宿通りから玉川上水までを見る。
大半の部分で道路がなく水路敷そのものを見ることは難しいところが多いが、途中開渠が何箇所かあるので見ていこう。
三鷹市
下本宿通りから上流側は三鷹市牟礼に入る。下本宿通りからやや西向きに伸びる水路敷は開渠で残っていた。
流れ
覗き込んでみるとそこそこの水流があった。
また開渠
ゴルフ練習場と学校の敷地を西側に回って下流方向を見たところ。空中写真で見ると途中の流路は失われているのだが、道路に出るところでは開渠が復活している。
上流
上流側も開渠だが、このあたりでは水は枯れているようだ。
ガードレール
大きく西側に回って行き止まりの路地突き当たり手前で開渠が道路に合流しているが、こちらは梯子型ではない。
道路脇
そこから道路脇の開渠をみると、わずかだが水が流れていた。
暗渠
西側で道路を渡る部分には蓋暗渠が残っている。
地下
上流方向は写真奥で老人ホームの敷地の下から出てきている。
東八道路
東八道路から下流方向を見たところ。水路がいったん老人ホームの地下に吸い込まれていて、そこで直角に左折して東へ向かっているようだ。
暗渠
東八道路の北側には、人見街道に向かって通れる暗渠があった。
ジグザグ
ジグザグに曲がる水路敷を進んでいく。
並走
いったん西向きに人見街道と並走する形になる。
人見街道
水路敷は人見街道に出たところで上流端となる。すぐ先(民家敷地の奥)には玉川上水があり、どこかから分水していたのではないかと思われるのだが、分水口の位置を示す資料は今のところ発見できていない。
by Natrium