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黒目川とその支流(出水川)

OpenStreesMapで出水(でみず)川を見る。
出水川は黒目川と空堀川の間を流れる黒目川の支流で、その上流端は西武新宿線の西側にある大上窪(おおかみくぼ)とされる。今回は下流と最上流部の暗渠と、中流の開渠を見ていく。
出水川は黒目川と空堀川の間を流れる黒目川の支流で、その上流端は西武新宿線の西側にある大上窪(おおかみくぼ)とされる。今回は下流と最上流部の暗渠と、中流の開渠を見ていく。

出水川の合流点よりもやや下流にある降馬橋のたもとから黒目川を上流方向に見たところ。右岸側の「しもさとふれあい公園」は黒目川の古い蛇行跡と思われる地形に沿って造られている。
ここからの写真は2025/1/20撮影。
ここからの写真は2025/1/20撮影。

公園の上流側では左岸側に黒目川の蛇行跡が残る。崖の上には旧石器時代から奈良・平安期に渡る下里本邑遺跡がある。

崖上に回って下里本邑遺跡跡に建つ遺跡館を見る。周辺の下村第二住宅建設時の昭和53年(1978年)、同56年(1981年)に発掘調査が行われた遺跡は黒目川左岸の舌状台地にひろがり、旧石器時代、縄文、弥生、奈良、平安と断続的に居住者がいた跡が見つかっており、遺跡館には縄文時代の生活跡(復元)や土器などが展示されている。
写真後ろに広がる丘は下里本邑遺跡公園として整備されている。
写真後ろに広がる丘は下里本邑遺跡公園として整備されている。

上流へ進んで本邑橋と平成橋の間には、右岸側から下里雨水幹線の吐口がある。

平成橋の上流側、左岸側から出水川が黒目川に合流してくる。大きな排水口があるが、水は出てきていないようだ。
ここから出水川を遡っていく。
ここから出水川を遡っていく。

出水川の下流部分は川の形そのままで大きな蓋暗渠になっており、暗渠上には植え込みがそこかしこに造られている。

道路を渡って西に向きを変え、出水川広場の脇を抜けていく。

蓋に描かれた「足元注意」のペイント。蓋の段差に足を引っ掛ける人がいるのかもしれない。

蓋暗渠は左右の土地よりもやや低いところを通っている。
ところで、写真の車止めは右側にしか道(といっても踏み跡)がなく、左に通り抜けることはできない。蓋暗渠を渡るためのものではなく、車両などが蓋暗渠に侵入しないように置かれているようだ。
ところで、写真の車止めは右側にしか道(といっても踏み跡)がなく、左に通り抜けることはできない。蓋暗渠を渡るためのものではなく、車両などが蓋暗渠に侵入しないように置かれているようだ。

徐々に両脇との高低差が出てくるが、右岸(写真左)側は盛り土されているようで、蓋暗渠ギリギリまで擁壁が張り出してきている。

久留米下里住宅の南を進んでいく。途中橋があったであろう場所は遊歩道が嵩上げされている。

久留米下里住宅を抜けて西へ。

所沢街道と交差する蓋暗渠。

所沢街道西側では、ふたたび植え込みが設けられているが時期なのか何も植っていなかった。

住宅と農地が混在するエリアを抜けていく。写真左側にはこじんまりとした下里第二緑地がある。

農地を抜けたところにある交差点は、車止めに「新宮橋」と書かれていた。「しんみやばし」と読むようで、そこから先は2019年ごろまでは梯子型開渠だったが、2020年ごろに暗渠化されている。橋の脇には小さな祠もある。

アスファルト舗装の暗渠は上流方向に向かって上り坂になっているが、水路が高度を上げていたのではなく上った先にある東久留米卸売市場とケーズデンキの駐車場に高さを合わせるために嵩上げしていると思われる。

右にケーズデンキ、左に卸売市場が見える位置まで上ってきた。水路敷は両方の間を抜けているが、駐車場の通路として使用されているようだ。

出水川右岸側にある東久留米卸売市場。2014年にリニューアルした建物で、それ以前は左岸側に建物があった。中には一般消費者も利用できる店舗や食堂などがある。

リニューアルまでは開渠になっていた出水川は駐車場の間に暗渠として通っており、西側の新所沢街道寄りは車両が通行できないようになっている(歩行者は入っても問題はないようだ)。

新所沢街道側は駐車場出入口になっているが、橋の欄干はそのまま残されており出水川がどこを流れていたかはよくわかる。

新所沢街道に出たところで振り返って下流方向。

新所沢街道から上流は開渠になる。

上流側の梯子型開渠は地面からだいぶ下がった場所にある。この先出水川は清瀬市、東久留米市、西東京市の廃棄物処理を担当する一部事業組合である柳泉園組合の処理場敷地内を流れているため

西側の道路まで回ってきた。処理場に隣接して柳泉園が運営するプールと公衆浴場が併設されている。

西側の道を進んでいくと坂を下り柳泉橋に出る。谷底のS字カーブで道幅も狭くなっているため、通り抜ける車はスピードを落として通過していく。

柳泉橋からテニスコートに挟まれた上流は梯子のない普通の川になっている。
写真奥に見えるテニスコート内の橋の下あたりに水が出ており、そこから上流は枯れているようだ。
写真奥に見えるテニスコート内の橋の下あたりに水が出ており、そこから上流は枯れているようだ。

柳泉園テニスコートの西側に抜けたところにある第二公園橋。やはりこのあたりでは水は枯れているようだ。

運動公園が斜めに出水川を渡る公園橋。写真左奥の橋の下からは、写真では見づらいが水が流れ出ている排水口があるのだが、出てきた水は川底に吸い込まれてしまっている。
公園橋の名前は写真右に行ったところにある東村山市立運動公園に由来している。
公園橋の名前は写真右に行ったところにある東村山市立運動公園に由来している。

次の橋から右岸側にある大岱(おんた)公園を眺める。
このあたりの現地名は「東村山市恩多町(おんたちょう)」だが、以前は「入間郡大岱(おんた)村」であった。読み方が難しいことから昭和39年(1964年)の市政施行時に改名したという。
このあたりの現地名は「東村山市恩多町(おんたちょう)」だが、以前は「入間郡大岱(おんた)村」であった。読み方が難しいことから昭和39年(1964年)の市政施行時に改名したという。

大岱は大沼田とも呼ばれた(大岱村と境を接する小平市に大岱村が開発した大沼田新田=おおぬまたしんでん=があった。現在は大沼町などになっている)が地名にはややこしい由来があるという説があり、
「新編武蔵風土記稿 巻之157 入間郡巻2」および「同 巻之121 多磨郡巻33」などによれば現在の恩多町は多磨郡日比田(ひびだ)村と称していたのが幕府へ届け出る際に「昆田(こんた)」と書き間違えてしまい、名前が似ていた入間郡大岱村(現在は所沢市日比田)と入れ替わり恩多町の方が入間郡の飛地大岱村に、元の入間郡大岱村が日比田村として多摩郡の飛地になってしまったという。
(「所沢市史」などには、日比田の由来には墾田=はりた=が昆田、日比田となったという説も記録されている。大岱も大怒田=オヌタ=の転化であるという説もある)
実際明治になっても互いに郡の飛地となっていたが、「神奈川県史料 第9巻(附録部2)」および「埼玉県治一斑 明治32年」などによれば、明治13年(1880年)に神奈川県北多摩郡と埼玉県入間郡で両村の所属交換が行われ飛地を解消している。
日比田(元は大岱)はその後柳瀬村大字日比田、所沢市大字日比田に、大岱(元は日比田)はその後東村山市恩多町となった。
(参考資料はいずれも国立国会図書館デジタルアーカイブ所蔵)
(「所沢市史」などには、日比田の由来には墾田=はりた=が昆田、日比田となったという説も記録されている。大岱も大怒田=オヌタ=の転化であるという説もある)
実際明治になっても互いに郡の飛地となっていたが、「神奈川県史料 第9巻(附録部2)」および「埼玉県治一斑 明治32年」などによれば、明治13年(1880年)に神奈川県北多摩郡と埼玉県入間郡で両村の所属交換が行われ飛地を解消している。
日比田(元は大岱)はその後柳瀬村大字日比田、所沢市大字日比田に、大岱(元は日比田)はその後東村山市恩多町となった。
(参考資料はいずれも国立国会図書館デジタルアーカイブ所蔵)

大岱公園を過ぎて次の道端久保橋を南側から見たところ。大岱村の小字としては上中下に分かれている道端久保は出水川に沿って水路としての上流端があった久米川駅東住宅付近まで続いている。

次の橋は南側では私道にだけつながっているように見える(写真は北側から見たところ)。

変形六叉路になっている交差点の南側を通る出水川。写真左(下流側)が出水川橋。右側の橋に名前はない。

出水川橋から上流方向を見る。隣の橋の下から水が出ているのが見えるが、これも出水川橋の下流で川底に吸い込まれていく。

南側の道路が出水川の脇に出てきたところで下流方向を見る。このあたりでは水が流れているというよりもところどころ水たまりがあるという感じ。

そこから出水川南側に沿って上流へ向かっていくと、左岸側からわずかに水がでている排水口と水路敷らしき空間を見つけた。左岸側はすぐに道路になっていて、どこから水が流れてきているのかはよくわからない。

右岸側にはかなり高い位置に土管が川に向かって突き出している場所が何ヶ所かあるが、いずれも水は出ていないようだ。かつては生活排水を流していたのかもしれない。
写真奥の右岸側には、やはりわずかに水が出ている排水口と水路敷がある。
写真奥の右岸側には、やはりわずかに水が出ている排水口と水路敷がある。

右岸側の川縁に突き出す汚水路のマンホール。写真から少し外れてしまっているが、やや上流側の右岸には水が出ていない排水口と水路敷があった。

出水川は左右に蛇行しながら新青梅街道へ向かっていく。

クリーニング店脇に架かる出水橋から新青梅街道の下から出てくる出水川開渠の上流端を眺める。

廃踏切を探せ:西武新宿線・小平1号~6号踏切でも取り上げたが、出水川は新青梅街道から上流は暗渠になっているものの上流端が西武新宿線の東側なのか西側なのかという問題があった。
全国Q地図の東京都3千分の1地図(1963〜1964年)に大岱村の旧字名を書き足してみると、上道端久保の西側は西道端久保向台という小字になっており、地名からも高台だったことが伺える。
水路としての出水川は西道端久保向台の東端、東村山市立東萩山小学校の脇から出ており西側の高台に水路はなかったものと思われる。
全国Q地図の東京都3千分の1地図(1963〜1964年)に大岱村の旧字名を書き足してみると、上道端久保の西側は西道端久保向台という小字になっており、地名からも高台だったことが伺える。
水路としての出水川は西道端久保向台の東端、東村山市立東萩山小学校の脇から出ており西側の高台に水路はなかったものと思われる。

全国Q地図で色別標高図を作ってみたが、東萩山小学校付近が高台で、西武新宿線の西側に広がる萩山町四丁目にはスリバチ状の窪地が広がっているのがわかる。そのあたりは大上窪と呼ばれ、大雨の後などは窪地に湧水が溜まって地下に吸い込まれ、東萩山小学校脇から水路として流れ出していたようだ。

新青梅街道を渡って西側、写真右には久米川駅東住宅、左には小平霊園を眺めながらその間にある水路跡の道路(写真左寄り)を進む。
ここからの写真は2024/12/7撮影。
ここからの写真は2024/12/7撮影。

久米川駅東住宅の西側、写真右の東萩山小学校あたりに元の上流端があった。写真奥に見える西武新宿線に向かって通っている道路は盛り上がった地面を掘り下げて造ったように見え、そこに水路はなかったと思われる。

東萩山小学校脇の道路を北向きに見たところ。写真左のイチョウが立っているあたりが元の上流端と思われる。

西武新宿線の架道橋。古い地図ではここに架道橋はなく、昭和30年代半ばに線路西側にある萩山小学校と第三中学校の開校に伴って通学路として作られた。
それまでは線路の土手が大上窪の湧水を堰き止めて住宅地に溢れることがあったという。
(参考:東村山市中央図書館所蔵「郷土研だより」No.101, 102掲載の「オオカミクボ物語」)
それまでは線路の土手が大上窪の湧水を堰き止めて住宅地に溢れることがあったという。
(参考:東村山市中央図書館所蔵「郷土研だより」No.101, 102掲載の「オオカミクボ物語」)

架道橋の少し久米川寄りには土手を貫く形で土管が設置されていた。
「オオカミクボ物語」によれば西側に溜まった水を排水するために線路したに土管を通したとあり、それの跡なのかもしれない。
「オオカミクボ物語」によれば西側に溜まった水を排水するために線路したに土管を通したとあり、それの跡なのかもしれない。

西武池袋線西側の大上窪と呼ばれていた萩山4丁目の窪地の地下にはJR武蔵野線が南北に通っている。
窪地の西端よりにある「萩山町立坑」が武蔵野線地下トンネルを建設した際に造られた立坑の一つで、トンネルを列車が通過するときには微かに風切音が聞こえていた。
窪地の西端よりにある「萩山町立坑」が武蔵野線地下トンネルを建設した際に造られた立坑の一つで、トンネルを列車が通過するときには微かに風切音が聞こえていた。

萩山通りで南側から大上窪を眺める。かなり大きな窪地が広がっている様子がわかる。

大上窪の窪地は住宅地として開発分譲されたこともあり水路らしきものは見当たらないが、窪地の西側を南北に通る萩山通りから西武多摩湖線脇の萩山式の森公園に向かってマンションの横に細い水路敷らしき歩道があった。

歩道はマンションの横で階段を上り、萩山四季の森公園前の道路までつながっている。

民設である萩山四季の森公園の西側に東村山市立萩山公園(現在は工事中)があるが、そこに向かって出てきている水路敷らしき行き止まりの空間があった。反対側は住宅になっていて直接道路などにはつながっていない。

工事中の萩山公園。公園部分は窪地で、大雨のあとにはこのあたりから出水していたのではないかと思われる。