黒目川とその支流(東久留米の廃減水路)
OpenStreetMapで
黒目川の門前大橋を中心としたエリアを見る。
東久留米市中央図書館に所蔵されている「東久留米市水路・河川網図(1:6000)」(以下では「河川網図」とする)という地図があり、1980、1995、2001年の各版があるのだが、そこに市内の河川だけでなく用水路なども描かれている。
今回は河川網図を参考とし、西武池袋線東西に渡る黒目川両岸の水路を探していきたい。なお、東久留米市では現役の用水路を「現用水路」、廃止された用水路を「廃減水路」と表記しているので、今回はその表記に従う。ちなみに他の自治体では「廃滅水路」という記載の方がやや多いのではと思う。
埼玉県道24号練馬所沢線が北側の崖から降りてきて、黒目川左岸沿いの神山通りを左折して東へ向かう交差点をそのまままっすぐ進むと歩行者専用の平和橋がある。
ここからの写真は2023/10/17撮影。
河川網図に特に記載はないが、平和橋北側には現役の排水口がある。
平和橋を渡って右岸川を上流へ。国家公務員宿舎第二住宅西側の道路は、河川網図では現用水路として描かれているが、特に水路らしき構造は見えない。
神山厳島神社は上流にある南沢氷川神社の管理で社務所もない小さな祠だが、扁額には辨財天と彫られており黒目川の湧き水を祀ったものであろうと推測される。
右岸側、門前大橋の手前に河川網図で廃減水路として描かれている道路がある。河川網図では南側の道路脇にも廃減水路があったように描かれているのだが、道路整備に伴って痕跡はなくなっているようだ。
扁額には「大橋」とだけあるが、写真右側の歩道橋には「門前大橋歩道橋」と書かれており、写真奥の交差点名も「門前大橋」となっている。門前というのはこの辺りの古い村名で、位置的には
浄牧院の門前ということだろうか。
門前という地名は現在も残っており、東久留米駅東口の近くには門前稲荷神社がある。浄牧院の鬼門の位置にあった末寺である覚宗寺(現在は廃寺)の境内にあったと伝わり、稲荷権現と習合している吒枳尼(だきに)天を祀っているという。
門前大橋から北へ進む門前大橋通りの崖上にある氷川神社も門前氷川神社と呼ばれている。さきほどの神山厳島神社はここの末社とされている。現在はここも南沢氷川神社が管理している。
氷川神社のすぐそば、Y字路の分岐点に立つ庚申塔と猿田彦文字塔。庚申塔は享保19年(1734年)造立という。
黒目川に戻ってくる途中、パチンコ店とスーパーの間にある気になる隙間。特に立ち入り禁止にもなっておらず、入っていくと写真奥で北向きに曲がって駐車場敷地に突き当たって終わっている。河川網図にも記載はなく、水路敷なのかどうかはわからない。
門前大橋の右岸上流側に残る黒目川の蛇行跡を下流方向に見たところ。この蛇行跡、入口側は水路敷として残っているのだが、黒目川に戻る出口側は住宅地になってしまっていて、途中で水路敷が途切れている。
門前大橋の北側、スーパーマーケットの南側に西へ向かう廃減水路がある。写真奥で突き当たりになっていてその奥は学校の敷地内となっている。
途中、スーパーの駐車場西側を北から流れてくる廃減水路があるが、こちらも普通に道路として使われており水路らしさはない。
稲荷橋から学校東側の小道を見る。河川網図には記載がないが、全国Q地図の
東京都3千分の1地図(1961〜1962年)では水路があるようにも見える。写真右側(東)はスポーツクラブの敷地になっており、かつてあったであろう水路の跡は残っていない。
さらに上流の弁天堀橋手前、右岸川にやや河川敷が広がった部分があり、全国Q地図の川筋ではこのあたりで黒目川がやや南に寄っていたように見えることから、ここも蛇行跡なのだろう。ここの上流側には東京都建設局の事務所が河川敷内に建てられている。
西武池袋線に沿って氷川台通りが黒目川を渡る弁天堀橋。左岸側に丸い排水口が見えるが、河川網図では道路西側に沿って現用水路があると描かれている。水路は学校敷地の中にあるようだ。
OpenStreesMapで
楊柳川下流部を見る。
楊柳川そのものは別の機会に見ていくとして、今回は地図右側に集中している廃減水路を見ていこう。
弁天橋から氷川台通りを北へ登っていくと、廃減水路を道路がまたぐ部分に橋が残っている。
この写真は2023/8/28撮影。
西武池袋線の西側、崖の上にあるのが小山台遺跡公園。縄文時代中期(約5千年前)の住居跡が大部分だけ復元されているが、遺跡としては旧石器時代(約2万年前)から生活していた痕跡があるという。
ここからの写真は2023/6/7撮影。
公園の崖下、擁壁沿いに水路敷があるが、さきほどの橋とは北寄りに位置がずれている。
この水路敷は河川網図には記載がない。
そこからすぐ南側、分譲住宅地の中に現用水路として先ほどの橋の上流部分があるが現在は住宅地の道路となっている。突き当たりが元は線路の東側に抜ける水路だったらしい。写真は下流方向に見たところ。
築堤をくぐっていた部分を南側から見たところ。現在は地域のゴミステーションとして利用されているようで、擁壁の下に水路があるかどうかは見てもよくわからない。
また、手前の側溝も河川網図では現用水路として描かれているが、地図にある山川の水路は残っていないように見える。川の方にも側溝はあるが、排水口は見当たらない。
ここからの写真は2023/10/17撮影。
地元自治会の街路図が新大橋近くに掲示されているのだが、線路のところに「ガード 階段」と書かれている。
(地図には各戸の苗字が記載されているが、読めないようにモザイク加工した)
全国Q地図の
東京都3千分の1地図(1969〜1970年)でも線路の築堤の下に道があるように描かれているものの、道路だったのか、水路だったのかはよくわからない。かつては水路の上か脇を通れたのかもしれない。
さて、上流へ向かっていくと、途中で北側の崖から流れてくる蓋暗渠が道路東側に残っていた。河川網図でも現用水路として記載がある。
突き当たりの崖上には子ノ(ねの)神社がある。
ここからの写真は2023/6/7撮影。
突き当たりは通り抜けることができないので、西側から回り込んでみると草むらになっており、この日は雨上がりだったこともあって大きな水溜りができていた。
崖上の子ノ神社。文禄元年(1592年)、当時この辺りの小山村の領主だった矢部藤九郎が地蔵尊を勧請したことに始まると伝わる。元は根神神社と称していたが、カマド神としても崇められた大黒天の使いであるネズミとのつながりから十二支の「子」を充てたとされている。大黒天は音が同じ大国様こと大国主命(おおくにぬしのみこと)とも習合しており、子ノ神社も祭神は大国主命としている。
根神神社の元となった根神大権現もまた大国主命の「根の国(根之堅洲国=ねのかたすのくに)」神話と結びついている。
写真奥に子ノ神社の鳥居が見えるこの道路。写真手前の交差点あたりで、子ノ神社から流れてきた湧き水と、黒目川の新大橋あたりから別れた水路が合流していたようだ。
鳥居の少し手前、西側に三角形の農地が残っている。写真手前の溝のあたりは河川網図では現用水路として記載されている水路のようだ。
ここからの写真は2023/10/17撮影。
一度黒目川に戻って、弁天堀橋からひとつ上流の下田橋西側の「しもだ広場」を見る。河川敷に合流してくる右の道路も河川網図では廃減水路として描かれている。下田はこのあたりの旧字名で、自治会の名称にもなっている。
さらに上流の新大橋北側。奥に見える大圓寺の手前に子ノ神社からの流れが黒目川に出てくるところと思われる水路敷が残っている。
前の写真奥にあるのが天台宗普門山大圓寺。天長年間(824〜834年)に天台宗第三代座主の慈覚大師円仁(えんにん)によって創建されたと伝わる古刹だ。
ここからの写真は2023/6/4撮影。
つづいて右岸側に回って新大橋の少し上流にある水路敷。黒目川の蛇行跡は新大橋の下流側にあるので、ここは廃減水路の出口だったようだ。
その先で水路敷は道路となり、新大橋を渡る大圓寺通りを跨いで南へ向かう。
ここからの写真は2023/6/7撮影。
すぐに右折、写真奥に郵政宿舎がある幅の広い直線道路が廃減水路の跡だ。東久留米市資料によれば、突き当たりでは写真左にあった別の廃減水路から分かれていたように。
新大橋のたもと、右岸側から黒目川旧流路の排水口を見る。楊柳川の水はここではなく上流側に流されているようなのだが、下流川のこちらもかなりの水量が出てきている。
この写真は2023/6/4撮影。
黒目川はこのあたりでは現在よりも南へ蛇行していた。蛇行跡は地図上では小山れんげ公園となっているのだが、入り口に立っている標識には「いなりやま緑地」と書かれていた。稲荷山はこの辺り(蛇行跡の左岸側)の旧字名だ。
ここからの写真は2023/6/7撮影。
公園南側の蛇行跡を進んでいくと、すぐに南側から別の水路敷が合流してくる。楊柳川最下流部で分かれてここまで流れてきている廃減水路で、崖下を曲がりくねりながら進んでくるところをみると、むしろこちらが古い楊柳川の流れだったのではないかとも思える。まずは、この廃減水路を見ていこう。
廃減水路は道路として使われており、写真奥で新大橋東側に流れていく廃減水路と交差し、さらに南へ向かう。
細くなった道路は曲がりくねりながらやや西寄りに向きを変えていく。
その先南西に向かう道路は写真左奥のフェンスあたりにある、ほんちょう広場の前に向かって道路の半分が舗装されていない砂利路になっているのだがここが廃減水路の位置と思われる。この部分だけ道路化されずに残っているようだ。
上流側は石垣のある家の下を通っていくこの辺りでは崖がかなり迫ってきているのだろう。
道路は突き当たって終わっており、その先は私有地として使用されているように見える。地形としては、ここから崖下を進んで楊柳川との分岐点までかつては水路があったようで、河川網図には現用水路として描かれている。
さて、ここでいったん小山れんげ公園に戻って蛇行跡を上流へ進んでいく。公園の先で蛇行跡はさらに南寄りになり、現在の本流との間には農地やマンションが建っている。
この写真は2023/6/4撮影。
途中、北から合流してくる道路がある。ここも河川網図では廃減水路として描かれており、写真奥にはほんちょう広場が見える。
この写真は2023/10/17撮影。
ほんちょう広場は本町二丁目の崖下に広がる芝生の広場で、写真手前の道路との間が廃減水路の砂利路になっている。写真奥は都道234号前沢保谷線に向かって崖があり、おそらくは広場の奥あたりが古い黒目川の蛇行跡なのだろう。
この写真は2023/6/7撮影。
最後に崖上に上って都道234号を渡り、イトーヨーカドーの駐車場側から本町ふれあい通りを北に見たところ。突き当たりの奥、崖下にほんちょう広場があるがこの先、対岸の大圓寺西側を通り崖上の小山テニスコートのあたりに向けて
東村山都市計画道路3・4・13号練馬東村山線の事業計画があるが、まだ用地買収などは進んでいないようだ。
この写真は2023/10/17撮影。
もうひとつおまけで、前の写真突き当たりの裏の道に回り込んだところにあった石敢當(いしがんとう、またはせきかんとう)。
石敢當は主に沖縄から奄美諸島あたりの民間信仰で、丁字路の突き当たりに置かれる魔除けの石碑だそうだ。たしかにこの石敢當も写真手前から見て突き当たりの位置にある。
この写真は2023/6/7撮影。