前谷津川周辺の谷戸と水路敷(蓮根川・坂下の水路敷)
OpenStreetMapで
新河岸川に注ぐ蓮根川の下流域を見る。
蓮根川は中山道付近で3つの流れが合わさって新河岸川に注いでいるが、北側から順に水路の跡を見ていこう。
ちなみに蓮根(はすね)という地名は古来のものではなく、上蓮沼村と根葉(ねっぱ)村が1889年(明治22年)に志村(「志」という名称の村であった)との合併したあと、1900年(明治33年)に大字の合併で「蓮」と「根」を取って大字蓮根としたことによるという。蓮沼という地名は、都営三田線の蓮根駅から三田駅方面へ3つ目の駅名「本蓮沼(もとはすぬま)」として残っている。
新河岸川に架かる新河岸橋から北方向、蓮根川の水門を見る。ここが探索のスタートになる。
ここからの写真は2020/1/1撮影。
陸側から水門(高潮防潮扉)を見たところ。蓮根川は暗渠になっているので、地面から構造物が生えている感じになる。
水門から上流方向はかなりゆったりとした遊歩道になっていて、元の川幅が広かったことを思わせる。
中山道の手前で北から来る水路と、西から来る水路が合流している。いずれも蓮根川緑道という名称で整備されているが、直進方向は環八高速下交差点へ向かい、環八沿いを若木に向かって登っていく流れ、右方向は前谷津川から分かれて西台駅を経由する流れ(古くはこの流れも前谷津川と呼ばれていたらしい)だが、まずは北(右)から遡ってみよう。
北側の水路敷は砂利舗装の遊歩道となっていて、最下流域ほどではないがまだ結構な幅がある。
児童遊園の先で水路敷は西に向きを変え、中山道へ向かっていく。
振り返って下流側を見ると、「蓮根川緑道」という看板と銅像があった。さきほども書いたように、北側の流路は蓮根地区を流れているのに実は蓮根川ではなく、前谷津川だったらしいのだが、そもそも蓮根川という名前も水路がきちんと整備されてから名付けられたようで、古地図で見ると大正時代に新河岸川が開削される前は南側の流路は現在と全く違う場所を流れている部分があったようだ。
中山道の西側では、水路敷とだいぶ段差があり、こちら側は嵩上げされていないようだ。
道路を一本越えた先で、水路敷はまた合流している。左側が西台駅から、右側は都営地下鉄志村車庫の西側から流れてきていたが、いずれも前谷津川の水を分けていた用水路であったように思われる。まずはさらに北側の流れから遡ってみよう。
北側の水路敷は坂下三丁目第二自動遊園の先で道路脇の歩道になって、左(西)へカーブしていく。歩道の幅の方が車道より広いのが水路敷らしいところと言えよう。
カーブし切ったところで道路を跨ぎ、その先は道路と別れて遊歩道となっている。が、その入り口の地面に気になる構造物が…
半分地面に埋れているそれは、どうやら橋の親柱を移設したものらしい。うっすらと「やちよはし」、「昭和31年3月完成」と読める。おそらくは八千代橋という橋名だったのだろう。2004年ごろに撮影された写真では欄干も残っていたようだが、2009年のGoogleストリートビューではすでにこの状態になっている。
曲がり切ったところで、大きな木が2本立っている部分だけいきなり水路敷の幅が広くなっている。
再び水路敷の幅が狭くなった先で、道路にぶつかって水路敷は終わっている。古地図では正面の道路方向に水路が続いていたが、現在は歩道付きの片側一車線道路として整備されており、水路の面影はなくなっている。
続いて合流点まで戻って西台駅へ向かっていこう。相変わらず幅の広い水路敷は自動遊園として使われている。
自動遊園を抜けると大きな木が水路敷の両脇に並んでいる場所に出た。
団地の間に広がる巨大な歩道。おそらく水路敷は歩道右側の部分だけだと思うのだが、それでもかなりの幅がある。
都営三田線が見えてきたところで自動遊園となっている水路敷に巨大な蛇と思われるオブジェが。
西台駅の手前で水路敷は都営三田線の下を南へくぐっていく。
川跡を渡る鉄橋。向こうにショッピングセンターが見えてくる。
ショッピングセンターは最近あまり見かけなくなったダイエーの西台店。なんと水路敷はこのショッピングセンターの中央を通り抜けているのだ。ただしくは、水路敷の両岸にビルを建ててショッピングセンターにしたというべきだが。
ダイエーを抜けて、水路敷は高島通りへ向かって右(西)へ曲がっていく。
西台駅前交差点に出たところで水路敷は終了となる。かつては正面方向に水路があり、前谷津川から水を引いてきていたようだが、高島平地区の区画整理で失われてしまっている。
西台駅交差点の少し東側にある蓮根馬頭観音。両脇に庚申塔文字塔と青面金剛庚申塔を従え、馬頭観音像は立派な祠に納められている。
ガラス越しに馬頭観音像を見る。あちらこちらと修復の跡があるが、大事にされているようだ。頭が馬になっているのではなく、頭上に馬頭をいただく形の像になっている。元禄11年(1696年)の開基という説明書きがあり、かつて徳丸ヶ原、志村ヶ原などと呼ばれた広大な低湿地が耕作地として整備されていく過程で、農耕に使われる牛馬の守護として祀られたのだろう。
高島通りを蓮根川の河口まで戻る途中で見つけた稲荷氷川神社。このあたりに人が住み始めた頃からあった稲荷神社に氷川神社が移転してきたものという。
続いて、最初の合流点まで戻って蓮根川本流を見ていこう。
環八沿いを若木から相生町、坂下、東坂下と流れてくるのが元々の蓮根川ということになるようだが、この流れも農地の整備によって何度か付け替えられているようで、オリジナルの流路はよく分からなくなっている。
東坂下の合流点から直進方向を見たところ。まっすぐ並木道の遊歩道が続いている。
ここからの写真は2020/1/5撮影。
中山道から下流方向を振り返ったところ。ここにも蓮根川緑道の看板と銅像がある。
中山道を渡る歩道橋から西側の水路敷を見る。この部分には「はんの木児童遊園」という名前が付けられているが、榛の木(ハンノキ)というのは低湿地に自生する落葉高木で、田んぼの畦道に植えて稲を干すのに使っていたというので、この辺りには昔は結構植えられていたのだろう。公園に植えられている木が「はんの木」なのかどうかはよくわからない。
マンションの間を幅の広い水路敷が児童遊園となって抜けていく。
稲荷氷川神社の東側で高島通りを越えると、南側は「えのき橋児童遊園」に変わる。この先しばらく同じ名前なので、実際のえのき橋がどこにあったのかよくわからない。
遊具が置かれていない児童遊園は西友蓮根坂下店の裏を抜け、志村五中の北側にあるマンション建設地でいったん流路を失っている。
正月で工事をしていないので、工事現場を覗かせてもらうと水路敷部分が敷地内に残ってはいるようだ。志村五中の方に向かって未舗装の敷地が伸びている。
マンション建設地の西側に回ってみた。こちら側は水路敷部分が通路としてきれいに整備されるようだ。
御成塚通りで南側から水路敷との交差部分を見る。マンション手前にある水路敷よりも奥の方が下っているように見えるが、水路に架かる橋に向かって嵩上げされた道路の名残なのかもしれない。
御成塚通りの西側には、犬を入れても良いというノボリが立っていた。次の道路までがえのき橋児童遊園ということで、その先は坂下二丁目児童遊園に名前が変わる。
だいぶくたびれているが、坂下二丁目児童遊園の文字が読み取れる。ちなみにこの裏側の道路に面している方の看板はきれいに整備されているのだが…
曲がった先の道路(志村坂下通り)を渡ったところからは、むつみ橋児童遊園に名前が変わる。都営三田線を越えるあたりまで同じ名前なので、やはりどこがむつみ橋だったのかはよくわからない。
細長い児童遊園だが、久しぶりに児童遊園らしい設備があった。
蓮根川緑道は脇から道路が合流してくる場所がほとんどないのだが、このあたりだけ左右から合流してくる細い道がある。
むつみ橋児童遊園の途中、公園の植え込みの脇にある謎の突起物を発見。
近づいてみると何やら目盛りが書いてある。これはもしかして水位計?
現役で機能しているのかどうかはわからないが、暗渠化された蓮根川の水位を示しているのだろうか。
水位計らしきものが設置されている先で、むつみ橋自動遊園は西に向かって曲がっていく。このあたりで、出井川へ向かう水路が分離していたらしいのだが、痕跡は残っていない。
水路敷のむつみ橋児童遊園の隣に、もうひとつ児童遊園がある。
西向きになったむつみ橋児童遊園は都営地下鉄三田線の高架下へ向かう。高架を潜った先の道路(蓮根駅前通り)向かいは坂下小学校の敷地になっており、いったん水路敷は途切れている。
坂下小学校の前にあるバス停は坂下小学校前ではなく相生橋という名前になっているので、おそらくはこの場所に相生橋があったのだろう。坂下小学校から首都高速5号線までの間は、住所としても相生町となっている。相生という名前は昭和38年(1963年)の住居表示実施の際に中台町から分離して付けられたもので、歴史的な由来はないらしい。
坂下小学校の敷地内を水路敷はまっすぐ抜け、坂下小学校の西側から相盛橋児童遊園として再び現れる。
相盛橋児童遊園から下流方向、坂下小学校を見る。水路敷部分だけ少し道路に盛り上がりがあり、側溝のブロックが途切れているので、このあたりに橋がかかっていたということだろう。
1ブロック先は児童遊園ではなく並木道になっている。
途中、北から細道が合流してくる。古い空中写真を見る限りは、水路敷ではなく畑の畦道が取り残されたもののように見える。
首都高速5号線が見えてきたところで、水路敷は道路と並走しながら南へ向きを変えていく。
高架下の道路に突き当たって水路敷は終わっている。ここから上流の蓮根川は環状8号線の下に埋れてしまったが、支流や上流部分で一部の流路が取り残されている。そちらは
すでに散策済みだ。