桃園川の水路敷群(高円寺橋〜阿佐ヶ谷駅)
OpenStreetMapで
桃園川緑道の高円寺橋から阿佐ヶ谷駅東側までを見る。
ここでも桃園川はほとんどすべての橋が残されているので、橋名を書き込んでみた。桃園川緑道として整備されているのは中央線ガードの手前まで、今回はそこまで進んでみる。
高円寺橋の西北にある曹洞宗宿鳳山高圓寺。弘治元年(1555年)創建と伝わり、徳川家光が鷹狩の際に休憩所として利用したことで有名になったという。
ここからの写真は2020/8/10撮影。
環状七号線西側の高円寺橋跡。欄干のようなモニュメントだけでなく、桃園川緑道の入り口にはアーチがかかっている。
桃園川緑道を西へ進んでいくと、最初に道路と交差するところが中島橋の跡。湿地帯の中にあった中洲の島が地名となったらしい。改修される以前の桃園川はこのあたりではもう少し南を流れていたが、旧流路の痕跡は見当たらない。
次の西山谷小橋は北側が突き当たりになっている。西山谷(にしさんや)はこの辺りの旧字名。
宿鳳山高圓寺近くの西山谷橋。欄干にはカッパが腰掛けていた。
西山谷上橋。西山谷橋から上流側では、水路敷の北側にインターロッキング舗装された道路が並走している。
橋名の由来になった氷川神社は氷川橋を北に進んだ高円寺駅の近くにある。境内には気象神社という珍しい名前の神社があり、現在は馬橋公学校と馬橋公園になっている場所にあった陸軍気象部に祀られていたものをここへ遷したという。
高円寺駅前から南へ降ってくる高南通りが桃園川を渡る宝下橋。
次の宝橋に向かう途中、緑道の南側に立派な壁画と彫刻が装飾されている壁があった。壁画部分は2018年に制作された新しいもので、彫刻はそれ以前からあったようだ。
北側の商店街から細道を見る。通り抜けできる水路敷のようにも思えるがどうだろう。
さらに西側、今度は南に向かって道路が伸びている。私道のようだが、南側の水路敷につながる谷筋にあたるようだ。
桃園川緑道南側の道路からさらに南へ向かって、水路敷と思われる道がある。
1ブロック南側で行き止まり。このさき左(東側)は坂の上になっているが、右(西側)には谷筋があり、古地図には水路があったとされているが痕跡は見当たらない。
桃園川緑道へ戻って、次の八反目橋。やはりこの辺りの字名に由来するという。
緑道を頬杖をついて眺めているカッパの後ろ姿。車止めのある場所は緑道を横断できる道になっているが、橋の跡ではないらしい。
橋の南側にある道路のあたりは古地図では水路であったという記述があるが、必ずしも道筋と水路跡が一致しているわけでもないようだ。
八反目上橋西側で緑道を見つめる動物の親子…、なのだが、これは犬?熊?鼠?モルモットか?。
八反目上橋西側には、北から合流してくる支流がある。少しこちらへ寄り道してみよう。
北側のエトアール通りから先は行き止まりになっていて通れない。
さらに北側の道路に回ってみる。車止めがなければただの藪だが、どうやら通れそうだ。
藪をかき分けて進んでいくと、再び突き当たりとなり通り抜けることができなくなる。
中央線ガード下まで行くと、そこから北へ向かって蓋暗渠が伸びていた。
高円寺駅北口から北西に伸びるセントラルロードまで来たところで、水路敷は袋小路になってしまい先へ進めなくなる。
そこから少し北側の路地に水路の痕跡と思われる排水口が残されていた。
さらに二つほど北へ向かった路地から、馬橋北第二公園に向かって北西向きに細い水路敷を見つけた。
馬橋北第二公園からさらに北へ水路敷は続いているが、その先の水路敷は封鎖されていて通れない。
反対側の空き地には、北に向かってコンクリート舗装された水路敷が残る。ブロック塀で塞がれているので進むことはできない。北側の道路に痕跡はなく、ここでこの支流は上流端とみてよいだろう。
ふたたび桃園川緑道へ戻って西へ。東(ひがし)橋には橋桁部分の跡がそのまま残っている。
東橋には南北から支流が流れ込んでいる。南側から来る支流は天保新堀用水と呼ばれ、水量の多い善福寺川から導水するために途中をトンネル(現存しない)で繋いだという。善福寺川に至る水路の跡は、
機会を改めて見ていくことにしよう。
北側には、前のページでたどった支流と並行してもう一つの支流が流れ込んできている。
北側のエトアール通りには、支流をまたぐ橋桁の跡がしっかり残っている。
さらにその北側、西北向きに車止めのある水路敷を進んでいく。
途中、北から細い水路敷が合流しているが、立ち入り禁止となっていて通ることはできない。
水路敷はふたたび北向きとなり、さらに北へ進んでいく。
次の道路と交差するところは、車止めが新しくなっていた。奥には中央線ガードが見える。
中央線ガード下。水路敷に沿って車止めがたくさん置かれているのは両側が駐車場になっているため。
ガード下には高架化される以前の擁壁の遺構らしきものが残されていた。
進んでいくと蓋暗渠は壁にぶつかって西に曲がっている。
蓋暗渠はすぐに道路にぶつかって終わっている。一応、ここが水路の上流端ということのようだが、谷筋はもう少し北に向かって遡ることもできるようだ。
東橋まで戻ってさらに上流へ進む。桃園川緑道の道端にある像は鮭を抱えた熊なのだろうか。
すぐに北向きの支流との合流があるが、支流自体は行き止まりになっているようだ。この支流は日大二高の南側から流れてきているものだが、機会を改めて見てみたい。
橋の部分だけ盛り上がっている馬橋。このあたりは古くは馬橋村であり、一つ前の内手は合併した杉並村時代の小名(字)だったそうだ(
馬橋稲荷神社サイトより)。
昭和37年(1962年)の住居表示で消えた馬橋の領域は早稲田通りから五日市街道まで広がっており、現在の梅里、高円寺北、高円寺南、阿佐ヶ谷南のそれぞれ一部となっている。かつて中央線の中野・荻窪間に馬橋駅を置こうという運動もあったという。
写真の橋を跨いで南北に走る道路は馬橋通りと呼ばれている。
桃園川に二つある宮下橋の二つ目。こちらの宮は桃園川の南側にある馬橋稲荷神社を指すものと思われる。宮下橋には南の馬橋稲荷神社を通る支流が合流してきていたので、そちらに寄り道してみよう。
宮下橋の南側、道路が急に広がっている部分は水路敷だったのではなかろうか。
前の写真で奥に写っているガレージショップのような店の右側から、馬橋稲荷神社に向かって蓋暗渠が残っている。
とりあえず馬橋稲荷神社に寄っていこう。鎌倉時代の創建と伝わる。境内はいたって普通の神社なのだが…
東側の入り口はアパートの真ん中を打ち抜くように鳥居と参道が作られている。
この写真は2020/8/15撮影。
さて、蓋暗渠は神社の西側でいったん西向きになり、その先にで再び南へ向かう。
ここからの写真は2020/8/10撮影。
舗装された水路敷を進んでいくと、その先は杉並区管理地という札の封鎖された空間となっていて進むことができないが、水路敷は続いているようだ。
大きく南側に回り込んでみたところ。水路敷はここまで続いているように見える。
南側を向いて上流端を見たところ。これ以上上流には辿れないようなので、桃園川緑道に戻ることにする。
宮下橋を過ぎると桃園川はS字カーブを描き、中央線に向かっていく。
途中、杉並区が設置した桃園川緑道の地図を見つける。旧橋名や旧水路が描かれているのだが、水路は現在では痕跡がない場所も多い。
亀の親子の像がある中央線ガードの手前の西原橋。西原という字名は杉並町時代の大字高円寺、馬橋、阿佐ヶ谷いずれにもあるが、場所としては馬橋の西原なのだろう。
中央線ガード手前で桃園川緑道はいったん途切れることとなる。
緑道入口脇に置かれた蛙の合唱をみながら、今回はここまで。