桃園川の水路敷群(新堀用水)その1
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桃園川から青梅街道までの地図を見る。
「杉並区立郷土博物館研究紀要別冊・杉並の川と橋」(杉並区立郷土博物館、2009)に「新堀用水」として記載されているこの水路は「天保新堀用水」とも呼ばれ、水量の少ない桃園川に、水量が豊富な善福寺川から引水するために天保11年(1840年)から天保12年(1841年)にかけて作られた用水路で、途中の青梅街道の尾根の下を手掘りのトンネルで抜けるという大工事の末完成したもの。
まずは、自然河川を転用したと思われる桃園川寄りの水路敷から善福寺川に向かって進んでみたい。
桃園川に架かる東橋から南を見たところ。ここに新堀用水が合流していた。
この写真は2020/8/10撮影。
車道を1ブロック進んだところで、突き当たりの先に細い水路敷が続いている。
ここからの写真は2020/12/19撮影。
官舎向かい側の住宅の間に支流が合流してくる水路敷があった。天保新堀用水の水路は諸説あり、ここは西側ルートが合流するポイントだったのかもしれない。
「杉並の川と橋」では今回たどる中央のルートを新堀用水ができる前からあった石橋用水を転用したものとしており、天保時代に新たに作られた東側のルートは東橋のひとつ下流側にある八反目上橋から上流へ向かうが、水路敷は残っておらず通れる道路としても途切れ途切れになっている。
官舎の脇を抜けると水路敷はややジグザグに進んでいく。
水路敷の車止めはゴミ集積所として利用されていることが多いが、ここでは道路を挟んでどちらの側も集積所になっているようだ。
交差点の左(東)側には、コインランドリーの看板が目立つが弁天湯という銭湯がある(銭湯の入り口は写真右奥)。
一方交差点の右(西)側には、馬橋庚申堂がある。一番古いもので享保元年(1716年)造立というので、新堀用水よりも古くからあるということだ。
ここからの写真は2020/8/23撮影。
庚申堂の向かい側には、「此地者約三百年前庚申奉祭之遺跡也」と彫られた石碑があった。元はこちらの方に庚申塔が立っていたのかもしれない。
水路敷にもどって上流へ進もう。水路敷はこのあたりで右にカーブして西向きに進むことになる。
ここからの写真は2020/12/19撮影。
馬橋通りとの交差点は坂道の底で車側が速度が出ていることもあるのか、派手なオレンジ色に舗装されている。
阿佐谷にしはら公園にでたところで、下流側を向いた金太郎の車止めをみつける。
残念ながら痛みが激しく落書きもされていて肝心の金太郎はよくわからなくなってしまっている。
公園の脇を歩道で抜けた水路敷は、いったん遊歩道として整備された場所に出る。
しかしすぐに車止めさえなければなんということのない舗装路に戻ってしまった。
4つ並んだ車止めの向こうは、馬橋児童遊園として整備されている。
ここからの写真は2020/12/12撮影。
児童遊園といっても、一人分のブランコが置かれているだけだったり。
奥の方にあるピンク色の柱の車止めはどうやら金太郎のようだ。
なぜは若干斜めに植っている金太郎の車止め。ここで合流する支流側に向けられている。
金太郎の向こう、青梅街道から流れてくる支流があるので、いったんこちらに寄り道してみよう。
青梅街道が見えてきた。ここから先は自動車通行可能なようだ。「杉並の川と橋」によれば、新堀用水が通る以前から青梅街道の向こう側にある湧水を水源とした用水路(石橋用水)が桃園川に向かって流れていたという。だとってきた水路敷はそのまま新堀用水に転用されたらしい。
梅里中央公園入口バス停脇にある「電話屋さん」。もちろん営業していないが、電話店という商売が成り立っていたのは何時ごろまでだろう。
いまでも電話加入権という権利自体は残っているそうだが、かつては電話のインフラ整備の費用負担という意味合いもあって、新たに電話を引く(そう、電話回線を物理的に引っ張ってくるので「引く」と言っていた)ためには電話加入権を購入しなければならなかった。したがって、この店で売買していたのは電話機ではなく、加入権だったはずだ。
さて、新堀用水に戻って進んでいこう。馬橋児童遊園はまだ続いており、同じ形のブランコが奥に置かれているのが見える。
途中、結構しっかりとした石垣のある家が並んでいた。
南阿佐谷すずらん通り商店街になっている旧鎌倉街道に向かって、急に水路敷が上り始めた。天保新堀用水は胎内掘りと呼ばれる素掘り(手掘り)のトンネルでこのあたりに出てきていたという。トンネルは埋め戻されてしまったため現在では確認することができないらしい。
すずらん通りに着いたところで、前半部分は終了となる。
ここで少し桃園川の方に戻って、左右の推定水路を探してみよう。まず西側、高井戸南公園から馬橋庚申堂へ向かってへ少し進んだ場所。道路の右側(西側)の方が高くなっているのがわかる。古道だったのか、水路だったのかはよくわからない。
続いて東側。八反目上橋から南へ向かっていくと、道路は高井戸保険センターにぶつかってなくなっているのだが、南側に大きく回り込んだところに所在なげに建っている扉があり、地図上ではこの先が道路扱いされている。どうやらここが残された新堀用水の水路跡ということらしい。
そこから東側の推定水路跡を上流へ向かうが、弁天湯の通りで再び道路は途切れてしまい、馬橋通りまでは水路敷としては残っていないようだ。空中写真では水路跡と思われる緩やかなカーブが見られ、南側にはかつては池があったという。
さらに上流方向に水路跡を探しにいくと、阿佐谷にしはら公園の南側にそれっぽい道路が伸びている。さきほどの西側と同様に、道路の左(東)の方が高くなっているのがわかる。
そのまま道路を進んでいくと、突き当たりが見えてくる。古地図では突き当たりの右側でさきほどたどった水路敷から水路が分かれているように描かれている。
おまけで新堀用水から馬橋通りを青梅街道方向に南下する途中にある猿田彦神社。境内には太道教本部があり、そちらと同じ宗教法人が管理しているようだ。
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新堀用水南部を見る。
新堀用水は、善福寺川を現在の天神橋公園がある水路敷の北端(広場堰)で分け、善福寺川が大きく南に迂回している田端神社の南側を回って成宗須賀神社の西側、成宗五色弁財天にあった弁天池まで水を運び、そこでいったん溜めて青梅街道の北へ向かって流していたという。
当初は善福寺川緑地から成宗城址(現在の共立女子大学研修センター杉並寮)あたりまでと、弁天池東側から青梅街道の下をすずらん通りまで2箇所の胎内堀りでトンネルを通したが、南側はカワウソと長雨の被害があって水漏れするため、新たに広場堰から東へ直行する新しいトンネルを掘ったという。これだけの大工事を天保10年(1839年)と天保11年(1840年)のわずか2年で完成させたというから水不足への切実な思いが察せられる。
※参考資料:「杉並区立郷土博物館研究紀要別冊・杉並の川と橋」(杉並区立郷土博物館、2009)、「武蔵国多摩郡馬橋村史」(武蔵国多摩郡馬橋村史編纂委員会、1969)
新堀用水へ向かう前に、青梅街道に向かうトンネルへ流れていた水路の水を善福寺川へ戻していたらしい水路敷を見てみる。
まずは五日市街道旧道に安置されている石塔群。写真右から元禄11年(1698年)造立の地蔵尊、宝暦10年(1760年)の馬頭観音、宝暦3年(1753年)の地蔵尊とある。
ここからの写真は2021/5/16撮影。
石塔群の北側、東田中学校の脇に水路敷が善福寺川に合流するポイントがある。
やや幅の広い道路を進んでいくと、荻窪税務署の前を通る。
さらに北へ進んでいく。成宗さくら公園の北側で道路は西へ逸れていき、水路敷だけが直進していく。
ここからの写真は2020/12/26撮影。
新堀用水との分岐点に着いた。新堀用水は写真奥の突き当たりを右(東)に向かってトンネルになっていたとされるが、トンネルは埋め戻されてしまい残っていないそうだ。