桃園川の水路敷群(新堀用水)その2
突き当たりからは弁天池に向かって幅の広い水路敷がゆらゆらと進んでいく。
ところでここで寄り道その1。先程の分岐点下流側には、西側に並行している袋小路に側溝のあとではないかと思われる微妙な通路が残っていた。
さらに寄り道その2。北から合流してくる支流があるので、こちらを進んでみよう。
ここからの写真は2021/5/22撮影。
一本北側の道路は、古地図によっては新堀用水の水路として描かれている二車線の道路だが、そこから北(左)へ向かって住宅の隙間に車止めのある水路敷が伸びている。
東田小学校へ流れていく支流とは別に、この道路を通ってここからトンネルになっていた可能性もある。
道路に出たところで、少しずれているが青梅街道に向かう水路敷も見える。
水路敷が青梅街道に出てきたところ。ここが上流端かというところだが、実はまだ道路の北側に続きとおぼしき細い道が残されている。
青梅街道の北側、杉並消防署の脇に細い道がある。どうやらこれが支流の上流端らしい。
ここからの写真は2020/12/26撮影。
さて、本題に戻って水路敷を須賀神社に向かっていこう。
前の写真右下に見えているのは、なぜか地面から飛び出している境界標。つまづく人もいたのだろう、カラーコーンを置いていたのだと思うがコーンの本体がなくなってしまっている。
須賀神社脇の交差点に出た。ここから上流は道路の一部になっているようだ。写真奥の方に見えるマンションの敷地にかつては弁天池があったという。
初詣の準備が進む境内。須賀神社は言い伝えでは天慶4年(941年)、平将門の乱を鎮圧したときに創建されたという話があるが、そうとう古い神社であることは間違いないだろう。
その須賀神社の西側に、こじんまりと祀られている成宗五色弁財天。ここにはもともと湧き水があり、新堀用水を通す際に用水の中継地として勢いをつけるために拡張した池が使われたという。掘り出した土で富士塚を作ったというが、現存していない。
弁財天を過ぎて上流へ向かう。都立杉並高校の前に沿って道路の左側だけにガードレール付きの歩道があり、かつてはここが側溝だったのではないかと思わせる。
杉並高校を通り過ぎたところで、善福寺川の方向に向かって車止めのついている脇道がある。
脇道は「遊び場24番」と名付けられた空間になっているが、奥は行き止まりになっていて善福寺川の方へつながっているわけではない。
正面、突き当たりのように見えるところでガードレールは左(南)に向きを変えているのだが、広場堰から直行してきたトンネルはまっすぐ進んだ先に出てきていたという。その痕跡は現在残っていない。
水路敷が曲がる場所の横断歩道に描かれたワニの「とまれ」標識。ここも水路敷の交差点、ということで描かれているのだろうか。
南へ向かう道路もやはり左側にガードレール付きの歩道がある。
途中でガードレールがなくなるあたり、右側は現在共立女子大学の寮があるが、丘になっている部分にはかつて成宗城があったという。城といってもいわゆる居館(やかた)で、城主は大橋氏とも中野氏とも言われていてはっきりしないようだ。
最初に掘られたトンネルはこのあたりで水路敷に合流していたらしい。
成宗城址をすぎたところ、住宅の塀の前に金太郎の車止めが残っている。ここから先は杉並区でもおそらく最も金太郎が密集している場所なのだが、とりあえずこの金太郎はあまり車止めとしての役にはたっていない気もする。
住宅を回り込んだところに、水路敷によくあるコンクリートブロックの脇に立つ金太郎の車止めがある。写真の中に4つの金太郎が写っている(手前に向かい合って2つ、奥にも同じく2つ)のだが、まだこれで終わりではない。
ここでは植え込みが歩道と車道の間にあるので、やはり車止めとしてはあまり役に立っていないような気もする。
一番手前の金太郎を南を向いているので上流側から撮影。残念ながら痛みが激しく、金太郎がほとんど見えない。
北を向いている方は若干マシだが、やはりかなり損傷してしまっている。
前のページで奥に写っていた金太郎の場所まで来てさらに上流を見たところ。さきほどは写っていなかった金太郎がさらに2つあるのがわかる。
南を向いている金太郎だが、痛みが激しく熊の一部しか残っていない。
こちらは比較的マシな金太郎。ところでこの二つの車止めは、個人宅の駐車場出入り口を挟むように設置されている。水路敷の幅が広く、車両が侵入しないように設置されているわけだが、個人宅の前に置かれているのは珍しいのではないだろうか。
ブロック付き水路敷の南端に置かれた金太郎。これも痛みが激しく、遊歩道の文字がようやく判別できるくらいの状態。
蓋暗渠は善福寺川緑地につきあたったところで大きく右(西)へ曲がっていく。
ここから先は善福寺川緑地の北側を崖下に沿って蓋暗渠が続いている。
しばらく蓋暗渠を進んでいくと、写真奥のところで蓋暗渠は途切れてしまう。
蓋暗渠は消えてしまうが、崖は続いており善福寺川に向かって張り出した丘を巡るように回り込んでいく。もっとも南まで来たこのあたりが、トンネルの入口だったという。
善福寺川緑地北側の出入口。新堀用水は写真奥の方から流れてきていたらしい。
最上流部へ向かう途中、西側の善福寺川から流れてきていたであろう細い支流を見つけた。
かつては蓋暗渠だったであろう舗装路は善福寺川から続いていたが、善福寺川の護岸工事のため川縁の河川敷には入ることができない。
北に進んでいったところで、左から天神橋公園、右から細い水路敷が合流する場所に出た。新堀用水は左の天神橋公園を流れていたとされる。右側は大田黒公園や杉並区立中央図書館など旧地名の高野ヶ谷戸(こやがいど)から流れてくる善福寺川の支流で、新堀用水はその支流も一部利用していたのだろう。支流の上流部は改めて記事にしたい。
天神橋公園は並木道と児童遊園をあわせ持った遊歩道になっている。
ここからの写真は2021/4/21撮影。
正面奥の善福寺川から分かれている最上流部。左奥にはアーチ状の植栽がある。
善福寺川との分岐点にあったのは天神橋ではなく大谷戸橋。かつてはこの辺りに広場堰という水門があり、善福寺川の豊富な水を新堀用水に向かって分けていた。成宗城址の方に向かう新しいトンネルも、この辺りから東へ向かって通されていたという。