桃園川周辺の水路敷群(谷戸川)
OpenStreetMapで
谷戸川または天神川周辺を見る。
中野駅前から桃園川の小淀橋まで上流側は桃園川の支流、下流側は桃園川の旧流路の一部だったようだが、今回は小淀橋から上流に向かって進んでみる。さらに下流、神田川に向かって水路敷があるが、そちらは機会を改めて見ていくことにする。
桃園川に架かる小淀橋から北向きに谷戸川の水路跡を見る。中野区史・下巻(1954年、中野区役所編)には谷戸川に架かる橋名に関する記事があり、このページでは谷戸川として紹介していくが、天神川とも呼ばれていたらしい。
ここからの写真は2022/7/14撮影。
水路跡は桃園川の北側を並走する大久保通りを越えていく。
水路跡は区検通りに出るところで、右(東)へ向かう神田川への流れと別れている。
区検通りの西側に続いている水路跡の脇に立つ水津電気商会。昔懐かしい東芝の文字があるが、電器店というよりはたばこ店として営業しているような気がしないでもない。
前の写真奥を曲がった先、写真奥の木立は氷川神社の参道入口になっている。氷川神社については
桃園川(末広橋〜三味線橋)その1で紹介しているのでそちらを参照してほしい。
山手通りの西側に谷戸川の水路跡が続いている。道路南側だけ路肩が広いあたり、水路が流れていたのではと想像させるが定かではない。
ここからの写真は2021/8/9撮影。
途中、民家の敷地に置かれていたロープウェイのゴンドラらしきもの。数字のデザインが海外っぽいが、なぜこんなところにあるのかは謎。
写真奥に谷戸小学校の敷地が写っているが、谷戸川はそちらではなく写真右側の道路の方から流れてきていた。古地図ではここから西に向かって桃園川の旧流路があったことが見て取れるのだが、まったく痕跡は残っていない。
途中、ふと右(東)側の路地を見たら、民家の塀が道路上に倒壊していた。
民家の敷地に食い込むように建っている豊川稲荷神社。鳥居の前には大きな木が立っていて、なんとも窮屈な感じだがきれいに祀られている。一見直進が水路敷のように見えるのだが、古地図を参考にすると左側の道が谷戸川の流路だったようだ。
城山本通りを渡って水路跡はまた細い路地になっている。
写真左手前の擁壁はすっかり苔に覆われており、古くからあるものだと推定できる。少し道幅が広がっている写真奥は真新しいブロック塀になっている。
中央線ガードの北側。東京工科専門学校の敷地あたりを谷戸川が流れていたはずだが、このあたりでは水路跡は失われている。古地図ではこのあたりで南北に並走する水路が合流していたように描かれているが、南側の水路は住宅地の中を抜けており、しばらくたどることは出来ない。
専門学校の北側に大きく道路が膨らんだ部分があり、ここが北側の水路跡と思われる。
写真奥の三叉路の手前、空き地のところから南側水路の分岐が北側水路に合流していたらしい。北側水路は三叉路を左に向かっていく。
三叉路を右に曲がっていくと、天神川の名前の由来となったであろう打越天神北野神社がある。新編武蔵風土記稿に記述があることから江戸末期にはすでにあったことになる。打越はこのあたりの小名。
三叉路左の北側水路を西に進んでいくと、南北の水路の間に天神湯という名前の銭湯があった。昭和5年(1930年)創業というからもう90年を過ぎているということか。
天神湯の南側に、東西に向かって南側水路の水路敷が残っていた。こちらは下流側(東)の水路敷。入っていくのは難しそうだ。
こちらは上流側(西)の水路敷。封鎖されていて入ることは出来ない。
天神湯の南側。写真奥の大きな煙突は途中で切断されているように見えるが、手前に小さな煙突があるのでそちらが現役なのだろうか。
とりあえずいったん天神湯北側の水路跡を進んでいってみよう。
曲がり切って少し西へ向かったところで行き止まり?いや、北向きに曲がっていた。
北に曲がってすぐにまた西へ。少し進んだところで中野駅北口の商店街にぶつかって上流端ということになる。
改めて、天神湯南側の道を進んでいく。写真左に、南側水路との分岐点が見える。
未舗装部分が水路敷と推定されるが、奥は民家に巻き込まれており入っていくのは難しい。
写真奥の住宅で道路が左右に分かれているが、水路は直進していたと思われこの先で追えなくなる。
商店街までたどり着いた。南側の水路はここで上流端になるのではなく、もう少し続きがある。
西向きにアーケードを通り抜け、写真奥の中野サンモールへ。
サンモールから中野通りへ抜けている車止めのある裏路地がおそらくは谷戸川の最上流端と推測される。
上流端から中野サンプラザを見上げて今回の探索は終了。
1973年(昭和48年)に全国勤労青少年会館としてオープンした中野サンプラザだが、駅前再開発に伴い2023年7月に閉館し、解体されることが決定している。