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野川下流の水路敷群(吉沢橋〜鎌田橋)

OpenStreetMapで吉沢橋から鎌田橋までを見る。
西側では区画整理によって水路の跡は大半が失われているが、東側には結構な範囲で水路跡が残る。
中央を斜めに渡っているのは地図左下枠外にある砧下浄水場から右上枠外にある駒沢給水塔を経由して三軒茶屋へ向かう大正12年(1923年)竣工の「渋谷町水道みち」で、多摩川から取水した水道水を渋谷方面に運んでいた。途中の岡本では岡本隧道というトンネルを造って抜けている。
今回は大蔵通りから上流側を見ていこう。
なお、地籍図は東京都主税局が公開している地籍図公開(23区)およびMapExpert.netの地籍マップ(β版)を参考としているが、両者の記載には違いがある。主に正確さに疑問がある公図(地図に準ずる図面)による不整合が理由で、前者は「地番の配置を表示したものであり、実際の土地の形状や寸法を再現しているものではありません。」という注意書きがあるので図面上の正確な位置は示していないし、後者は不整合のある境界線は公図の図面ごとに記載をそのまま掲載しているため連続性がない。したがって、現地でも図面上の記載がどの位置にあたるのか正確なことはわからないという点はあらかじめご了解いただきたい。
西側では区画整理によって水路の跡は大半が失われているが、東側には結構な範囲で水路跡が残る。
中央を斜めに渡っているのは地図左下枠外にある砧下浄水場から右上枠外にある駒沢給水塔を経由して三軒茶屋へ向かう大正12年(1923年)竣工の「渋谷町水道みち」で、多摩川から取水した水道水を渋谷方面に運んでいた。途中の岡本では岡本隧道というトンネルを造って抜けている。
今回は大蔵通りから上流側を見ていこう。
なお、地籍図は東京都主税局が公開している地籍図公開(23区)およびMapExpert.netの地籍マップ(β版)を参考としているが、両者の記載には違いがある。主に正確さに疑問がある公図(地図に準ずる図面)による不整合が理由で、前者は「地番の配置を表示したものであり、実際の土地の形状や寸法を再現しているものではありません。」という注意書きがあるので図面上の正確な位置は示していないし、後者は不整合のある境界線は公図の図面ごとに記載をそのまま掲載しているため連続性がない。したがって、現地でも図面上の記載がどの位置にあたるのか正確なことはわからないという点はあらかじめご了解いただきたい。

まずは大蔵通り北側の水路跡。左右に通っているのが谷川緑道の上流になる水路跡で、そこに北から合流していた。
ここからの写真は2025/10/5撮影。
ここからの写真は2025/10/5撮影。

大蔵通りが丸子川を渡る下山橋から南に通りを見たところ。地籍図では道路右(西)に水路敷が描かれており、幅の広い路肩がそれっぽいところだ。

一歩、谷川緑道から上ってきた水路跡に南から斜めに合流する水路敷(地籍図では長狭物)が大蔵通りを渡るところ。この水路跡は区画整理された地域の中央を東西に、世田谷総合高校の南側を通っている。かつては砧村の大字大蔵(旧大蔵村)と大字岡本(旧岡本村)の境をなしており蛇行しながら流れていたが、区画整理で直線的に回収されたものの周辺の区画割に沿っているとも言えない感じに見える。
ここからの写真は2025/2/14撮影。
ここからの写真は2025/2/14撮影。

上流方向、西へ向かって進んでいくとマンションの脇で北から合流してくる水路敷がある。

大蔵通り西側を並走する形になる水路敷を北にある丸子川方向に見たところ。歩行者専用道路に接続しているため、この場所には車止めは設置されていない。

北に進んでひとつ北側の道路(東西に走る水路敷)との交差点。南北に通る歩行者に注意を促すためと思われるが、交差点部分に赤い舗装が施されていて橋のように見える。

東側から交差点を見たところ。道路左(南)の歩道が水路敷と思われるが、写真手前(東)へ向かうとさきほどの南側の水路敷と合流する形になる。
写真奥は都立世田谷総合高校の敷地になっていて突き当たりとなり、水路敷は失われている。
写真奥は都立世田谷総合高校の敷地になっていて突き当たりとなり、水路敷は失われている。

再び南北に通る水路敷を再び北へ進むと、途中でアスファルト舗装が蓋暗渠に変わる。

次の交差点から北側は通行止めとなっているが、蓋暗渠はそのまま丸子川方向へ続いている。写真奥で水路敷が閉塞しているように見えるのだが…

北側の丸子川沿いまで回ってみると、民家脇に蓋暗渠があるのが見える。写真手前では蓋暗渠は失われているが、水路敷としては丸子川とつながっているようだ。

ここで大蔵通りを南へ戻って吉沢橋から通りを渡って北に向かう水路の跡を探してみる。大蔵通りから真北へ向かう道路が西に折れるところ。水路の跡がまっすぐ北に続いていたが、すぐ先で封鎖されていて通ることはできない。

そこから西を見たところ。こちらも西側から水路が流れてきていた跡と思われる。西側は後で見ていこう。
この写真は2025/10/5撮影。
この写真は2025/10/5撮影。

さきほどの封鎖されていた水路跡の北側は世田谷総合高校南側を東西に通る水路敷から分かれているが、その分岐部分は私有地になっており痕跡らしきものはない。
ここからの写真は2025/2/14撮影。
ここからの写真は2025/2/14撮影。

そこから西へ進むと水路敷は道路脇の歩道に出る。
ここではややこしいが写真右側の道路(車道)には、丸子川から世田谷総合高校の東側を通る地籍図上の水路敷があり、写真奥の駐車場手前を左(南)へ向かう水路跡もある。南へ向かう水路敷はあとで多摩堤通り方向から順番に見てくるとしよう。
ここではややこしいが写真右側の道路(車道)には、丸子川から世田谷総合高校の東側を通る地籍図上の水路敷があり、写真奥の駐車場手前を左(南)へ向かう水路跡もある。南へ向かう水路敷はあとで多摩堤通り方向から順番に見てくるとしよう。

水路敷が車道に出たところで北を見る。世田谷総合高校の東脇を南北に通る道路左(西)側にも地籍図に水路敷が描かれている。
ここからの写真は2025/10/5撮影。
ここからの写真は2025/10/5撮影。

北に向かうと途中で道幅が狭くなっている。

狭くなった道を丸子川に向かっていくと、高校敷地の北側に怪しいフェンスを発見。

フェンスの中を覗き込んでみると、行き止まりの狭い空間に水が溜まっているのが見えた。
ここは地籍図では水路敷となっていないが、独立した地番が振られており水路跡か農地の畦道の跡が残余地として残ってしまっているものではないかと思われる。
ここは地籍図では水路敷となっていないが、独立した地番が振られており水路跡か農地の畦道の跡が残余地として残ってしまっているものではないかと思われる。

丸子川まで出て振り返って南を見たところ。川の南側に沿って通る道路よりもやや低い位置に南北の道路があるのがわかる。

ここでいったん吉沢橋交差点南側へ移動し、さきほどの駐車場に向かう水路のあとを探してみよう。
写真は吉沢橋交差点から南の野川を渡る吉沢橋に向かう途中、西側にある水路敷の出口。
ここからの写真は2025/2/14撮影。
写真は吉沢橋交差点から南の野川を渡る吉沢橋に向かう途中、西側にある水路敷の出口。
ここからの写真は2025/2/14撮影。

フェンス越しに覗き込んでみると蓋暗渠が西へ向かっていた。

蓋暗渠は多摩堤通りにある吉沢バス停付近で通りのすぐ南側に現れる(写真左寄り)が、すぐにまた通りと分かれていく(写真右)。

吉沢バス停から住宅の間を抜ける蓋暗渠を下流方向に見たところ。

西側の上流方向を見ると、途中まで開渠になっている。
この水路は仙川と野川が合流する鎌田橋付近で分かれているのだが、そちらはまた後で見ていく。
この水路は仙川と野川が合流する鎌田橋付近で分かれているのだが、そちらはまた後で見ていく。

吉沢バス停から多摩堤通り越しに北側を見たところ。北から駐車場のフェンス沿いあたりに水路があったようなのだが、現在痕跡はなく、地籍図でも確認はできない。

北側に回って総合高校南側の水路跡から南に向かう水路跡を見たところ。
こちらからでははっきりとは見えないが写真奥に見えるレストラン駐車場の北側、写真右奥に見える果樹園との間にも西から出てくる水路跡と思われる行き止まりの凹んだ空間がある。
この写真は2025/2/14撮影。
こちらからでははっきりとは見えないが写真奥に見えるレストラン駐車場の北側、写真右奥に見える果樹園との間にも西から出てくる水路跡と思われる行き止まりの凹んだ空間がある。
この写真は2025/2/14撮影。

国土地理院Webサイトから昭和22年空中写真(米軍撮影)を見る。
オレンジ色の点線は現在通行ができない水路跡で、吉沢バス停向かいのレストランがある場所を囲むように農地の水路があった名残なのだろう。
オレンジ色の点線は現在通行ができない水路跡で、吉沢バス停向かいのレストランがある場所を囲むように農地の水路があった名残なのだろう。

南側の水路跡を西に向かって谷川公園の手前。前の空中写真左上で水路が分岐しているあたりに谷川公園があり、地籍図では道路が右に曲がっていくところをまっすぐ水路跡と思われる区画が西に伸びている(公園内で終わっている)。
この写真は2025/10/5撮影。
この写真は2025/10/5撮影。

一方、谷川公園(写真左端)手前から世田谷総合高校南側を通る北側の水路跡へ戻って上流を目指す。このあたりでかつてはかなり蛇行した流れだったものが、区画整理で綺麗に直線化されてしまっている。
世田谷総合高校は平成20年(2008年)に玉川高校と砧工業高校が合併し旧砧工業高校の敷地に開校した比較的新しい学校だ。高校の敷地内には南北に流れる3本の水路があったことが昭和22年の空中写真などからわかるが、東西に通る水路とともに現在痕跡は残っていない。 ここからの写真は2025/2/14撮影。
世田谷総合高校は平成20年(2008年)に玉川高校と砧工業高校が合併し旧砧工業高校の敷地に開校した比較的新しい学校だ。高校の敷地内には南北に流れる3本の水路があったことが昭和22年の空中写真などからわかるが、東西に通る水路とともに現在痕跡は残っていない。 ここからの写真は2025/2/14撮影。

丸子川から見ると3本の水路はそれぞれ途中まで水路敷として残っている。写真は西側の水路敷。水は枯れているが開渠が見える。
右の道路はすぐに行き止まりになるが、水路敷は左のマンション敷地に沿って高校との境まで続いているようだ。
右の道路はすぐに行き止まりになるが、水路敷は左のマンション敷地に沿って高校との境まで続いているようだ。

中央の水路跡は道路として使用されており、高校グラウンドに突き当たって道路は右(西)に曲がるが、水路としてはそのままグラウンドを突っ切って南に流れていたと思われる。
この写真は2025/10/5撮影。
この写真は2025/10/5撮影。

東側の水路敷は高校のグラウンドに向かって通行可能な蓋暗渠になっている。
ここからの写真は2025/2/14撮影。
ここからの写真は2025/2/14撮影。

高校南側の水路敷を上流へ向かう。高校西側の交差点を過ぎると右にマンションが並ぶエリアになる。

水路は交差点西側に進んだ鎌田前耕地公園のところで公園内から道路に出てくる形になっていた。耕地公園西側にある水道みち付近で北を並走している水路と分岐していたはずだが、区画整理によって痕跡はなくなってしまっている。

さきほどの交差点から高校西側の道路を北向きに見たところ。地籍図では道路の左右に水路敷が丸子川から続いている。

北側の水路跡上流の方を高校西側の道路から見たところ。

そのまま進んで鎌田前耕地公園の北側から西を見たところ。写真奥には「水道みち」があるが、水路跡はその向こうから水道みちを超えて流れてきていたが、水道みちの向こうで南側の水路と分かれていた。
水道みちの西側は昭和57年(1982年)から平成14年(2002年)にかけて世田谷総合高校から西側で行われた鎌田前耕地土地区画整理事業のため水路跡が失われている。
ここからの写真は2025/10/5撮影。
水道みちの西側は昭和57年(1982年)から平成14年(2002年)にかけて世田谷総合高校から西側で行われた鎌田前耕地土地区画整理事業のため水路跡が失われている。
ここからの写真は2025/10/5撮影。

ここでいったん水道みちから北に向かって岡本公園民家園に寄り道してみよう。「渋谷町水道みち」については最初に紹介したが、このあたりでは「鎌田前耕地緑道」として整備されている。

緑地は丸子川に突き当たって終わりとなり、その先水道みちは世田谷区立岡本公園(写真左)と岡本公園民家園(写真右から奥)の間を抜けている。
ここからの写真は2025/2/14撮影。
ここからの写真は2025/2/14撮影。

岡本公園は国分寺崖線の下に東側から瀬田四丁目旧小坂緑地、岡本静嘉堂緑地、岡本公園とつながる一連の緑地帯で一番西側の公園部分には写真の池など散策路がある。

公園東側の岡本公園民家園は昭和55年(1980年)開設で、世田谷区の有形文化財第1号に指定されている旧長崎家住宅主屋(写真の茅葺き屋根の住居)など昭和初期の農家家屋が移築復原されている。
長崎家主屋ではいったん屋根を解体して葺き直す作業が行われており、撮影した翌日には棟上げ儀礼の再現が予定されていた。
長崎家主屋ではいったん屋根を解体して葺き直す作業が行われており、撮影した翌日には棟上げ儀礼の再現が予定されていた。

水道みちが国分寺崖線の崖に突き当たるところにある岡本隧道。

隧道の入り口はなかば落ち葉に埋もれてしまっているが、およそ100年前、大正12年(1923年)の様子がそのまま保存されている。

崖上には旧岡本村の鎮守であった岡本八幡神社がある。創建は不明だが江戸時代の文化文政期(1804〜29年)に編纂された新編武蔵風土記稿 巻之一百二十七多磨郡之三十九 岡本村の項に記載がある古い神社だ。

水道みちの西側では、区画整理によって大きく街区が変更されているため水路跡がほとんど残っていない。水路敷とは言い難いが、断片的に旧水路の位置に残っている道路を見てみる。
まずは丸子川にかかる堂ヶ谷戸(どうがやと)橋の一つ東側で南へ向かう道路。水路はまっすぐ写真奥(南)へ向かっていたが、そこには住宅が立っていて水路跡は失われている。
堂ヶ谷戸橋の北側には堂ヶ谷戸坂という古くからの坂道があるが、堂ヶ谷戸というのがどの谷筋を指しているのかはわからないのだそうだ。
ここからの写真は2025/10/8撮影。
まずは丸子川にかかる堂ヶ谷戸(どうがやと)橋の一つ東側で南へ向かう道路。水路はまっすぐ写真奥(南)へ向かっていたが、そこには住宅が立っていて水路跡は失われている。
堂ヶ谷戸橋の北側には堂ヶ谷戸坂という古くからの坂道があるが、堂ヶ谷戸というのがどの谷筋を指しているのかはわからないのだそうだ。
ここからの写真は2025/10/8撮影。

続いて堂ヶ谷戸橋の一つ西側で南へ向かう道路。写真奥に見えるのは堂ヶ谷戸公園で、水路はそのまま公園を突っ切って南へ向かい公園を東西に流れていた水路に合流していた。

堂ヶ谷戸公園の南側から西へ向かって仙川を渡る田中之森橋から西を見たところ。
写真奥右側にある砧南小学校の脇(仙川旧流路に保存されている水門がある)から道路右側を進んで、写真手前左側にある砧南中学校の校庭を通り、丸子川の南側を並走していた水路への流れがあった。
写真奥右側にある砧南小学校の脇(仙川旧流路に保存されている水門がある)から道路右側を進んで、写真手前左側にある砧南中学校の校庭を通り、丸子川の南側を並走していた水路への流れがあった。

最後に多摩堤通り南側を野川と並走する開渠の水路周辺を見ていこう。吉沢バス停に西から流れてきていた水路はしばらく住宅の間を流れているが、上流の鎌田つつみ広場脇(多摩堤通りの世田谷総合高校前交差点の南)で道路と交差する石橋がある。
ここからの写真は2025/2/14撮影。
ここからの写真は2025/2/14撮影。

鎌田つつみ広場の前にあるフェンスから水路を覗いてみたところ。家並みの裏側を細い水路が流れている。

石橋から北を見たところ。ここから世田谷総合高校前交差点で多摩堤通りを渡り、総合高校西側と水路がつながっていたことが世田谷デジタルミュージアム所蔵の東京府北多摩郡砧村全図に見えるが、多摩堤通りを境に北側は下っているようで高校南側を流れる水路跡に向かって流れていたのだろう。この水路は地籍図には残っていない。
ここからの写真は2025/10/8撮影。
ここからの写真は2025/10/8撮影。

多摩堤通りを渡ってすぐ、西に向かう道路。

一方石橋から鎌田つつみ広場脇の道を西へ行くとすぐに川と分かれて北に曲がっている。北へ向かうと多摩堤通りに出る前のところで、西に向かう水路敷を見つけた。
ここからの写真は2025/2/14撮影。
ここからの写真は2025/2/14撮影。

路地裏を水路敷が抜けていく。

車止めを通ったところで振り返ると。多摩堤通りの方から合流してくる水路敷もあった。

そちらを多摩堤通りへ進んでみる。

多摩堤通りに出たところから北側を見る。この道路も砧村全図では水路として描かれているが、写真奥では道はみだりに曲がっていてまっすぐ進んでいた水路の跡は失われている。
この写真は2025/10/8撮影。
この写真は2025/10/8撮影。

路地裏の水路敷に戻って西へ。突然南側にマンションの駐車場が現れるが、写真手前に南側の野川から自動車が入って来られるように道路が拡張されている。
ここからの写真は2025/2/14撮影。
ここからの写真は2025/2/14撮影。

水路敷を進んでいくと車止めポールの先で左に曲がっているが、よくみると突き当たりにも隙間があるような。

これは水路敷だろうか?。地籍図でも空間としては確認できるが確証はない。

左に曲がったところ、野川の手前に水路を渡る小さな石橋があった。

いったん野川に出て、西側にあるカーブしている道路が石橋で水路を渡るところを見る。砧村全図をみるとここにも水路があった。

石橋から下流方向を見たところ。奥には民家入口になっている橋が見える。手前では鉄パイプが水路を跨いで擁壁を支えている。

水路と水道みちが交差する場所を野川方向(南)に見たところ。

交差する場所から上流方向を見たところ。

水道みちを北向きに見たところ。多摩堤通りを越えて水道みちはまっすぐ北へ向かう。
ところで、写真右側にも気になる隙間が。
ここからの写真は2025/10/5撮影。
ところで、写真右側にも気になる隙間が。
ここからの写真は2025/10/5撮影。

こちらの隙間は砧村全図で水路になっていた。写真奥はよくわからないが、少し右に曲がってさきほどの水路に合流しているようだ。

多摩堤通りに出て西側を見る。道路左側にある砧南中学校前バス停付近に写真奥から手前に向かって水路があった。下流側は通りの北側にあったが区画整理で失われている。

前の写真奥に仙川から斜めに出てくる道路があるが、古くは仙川の西側を流れていた旧流路から分かれてきていた水路だったようだ。

野川に戻って鎌田橋方向へ進んでいくと、途中に北側の水路に向かう水路跡のフェンスがある。
その脇には石造りの土台のようなものがあるのが見えるが、かつてここには馬頭観音が祀られていたという。Google Mapでは2014/4まで馬頭観音文字塔があるのが写っている。
ここからの写真は2025/2/14撮影。
その脇には石造りの土台のようなものがあるのが見えるが、かつてここには馬頭観音が祀られていたという。Google Mapでは2014/4まで馬頭観音文字塔があるのが写っている。
ここからの写真は2025/2/14撮影。

フェンスからの向こうには水は流れていないものの梯子型開渠が残っていた。

多摩堤通りの鎌田橋東側から水路の入口をみたところ。周辺ではほとんどの水路が道路化されるか区画整理で消えているが、ここだけはほとんど全線に渡って開渠が残っている。

開渠の入口から工事中の鎌田橋方向を見たところ。道路脇の蓋暗渠が最上流部分ということになる。

鎌田橋手前、野川方向へ道路脇に深い溝があった。これも水路の跡であろうか。