南に向きを変えた稲付川の水路跡は西が丘三ツ和公園の脇を抜けてゆるゆるとくねりながら進んでいく。
敷物店が見えてきたところで、水路跡は再び西へ。
道路が二又になっているが、行き止まりの標識がある左の方が水路跡。
左の道へ進むと、さらに行き止まりの標識があった。見た目は普通の道路なので、間違って入ってきてしまう車があるのだろう。
徐々に道幅が狭くなっていき、道路というより水路敷らしくなっていく。
環七通りの姥ヶ橋陸橋が見えてきたところで、河川としての稲付川(北耕地川)は上流端を迎える。
上流端の階段を上っていくと環七通りの姥ヶ橋陸橋が空を覆っていた。姥ヶ橋は稲付川の上流に開削された根村用水を渡る橋の名前だったようで、現在でも交差点の名前として残っている。
環七の反対側にあるのが姥ヶ橋延命地蔵尊。毎年8/24には縁日がひらかれているのだそうだ。
さて、ここで梅木(うめのき)小学校の西側にある支流の谷を最後に見ていこう。陸軍射撃場の造成で川筋は断ち切られてしまっているが、梅木小学校の西側から、西が丘サッカー場(味の素フィールド西が丘)の方向に谷筋が残っている。
梅木小学校西側の道路には、なんと「陸軍用地」と掘られた境界標が今も残っていた。
この写真は2021/2/27撮影。
その境界標の向かい側に支流の水路敷が残されている。ここから上流へ向かってみよう。
ここからの写真は2021/2/23撮影。
西側の道路に出てきたところで、北に向かって道路脇にある歩道が水路敷の跡と思われる。西が丘は旧町名の稲付西町の西を残して命名されたという地名で、一体は昭和の初めごろに区画整理されているため、やや西に傾いた形で南北に縦長な区画が並んでいる。
次の交差点で水路敷は西向きになり、すぐに歩道が終わっている部分で住宅の間を北へ進路を変えている。
水路敷の間に細い蓋暗渠が続いている。
途中で西に曲がった水路敷を出ると、今度は道路の東側に水路敷の跡らしき幅の広い部分がある。
次の交差点でまたもや西へ向かい、すぐに住宅の間を北へ向かう。区画整理の前には直線的に川が流れていたのが古地図でわかるのだが、区画整理された時にジグザグに水路敷を整備したらしい。
お好み焼店の脇を水路敷が北へ向かう。
ここでも途中で水路敷は西に曲がっている。
西が丘交番から南向き一方通行となっている道路に出た。このあたりから上流部分の水路はよくわからないが、谷筋は北の交番方向と、西のサッカー場方向に向かっているようだ。
一本西側の道路は建設中の赤羽北桜高校の敷地に突き当たる。ここから西が丘サッカー場のあたりは戦前の陸軍兵器補給廠(古地図では「兵器庫」とある)が置かれていたところで、戦後に米軍に接収されたのち、国立競技場として払い下げられた。
古地図をみると、どうやらここから上流の谷筋は兵器庫の建設で埋め立てられてしまったようだ。
交番に向かう道を進んだ北側には、高校に向かう細い路地がある。ここが水路敷だったのかどうかはよくわからない。