白子川周辺の水路敷群(矢島川とその支流)
OepnStreetMapで
矢島川とその支流群を見る。
矢島川という名前はあまり知られていないと思うが、旧上新倉村と旧下新倉村の境界線を流れていた川で、現在は暗渠化されている。
和光市が平成16年(2004年)に住居表示を実施した際にも、新倉と下新倉の境界線として名前があげられており、和光市認定路線網図にもその名前が御滝川、下里(さがり)川とともに記載されている。
新河岸川に注ぐ矢島川の出口を南側の新倉橋から見る。欄干越しに見えるコンクリートの構造物が矢島川の出口。越戸川と白子川の中間にある、独立した新河岸川の支流であることがわかる。
ただし、この出口は近辺の水路を集めて新河岸川に流すための排水路のようで、元々の矢島川は新倉橋の南側で合流していたようだ。
ここからの写真は2018/4/28撮影。
北側から流れてくる現役の水路。矢島川の流路の西側にあり、写真奥に見える県立和光高校からまっすぐ流れてくる。
矢島川流路をたどる道路から新河岸川方向を見る。この先はフェンスで封鎖されていて入ることが出来ない。
振り返って和光市清掃センターと複合老人福祉施設の間の道を南へ向かって進んでいこう。
清掃センターの前で道路が二股に分かれている。このあたりは区画整理されていて道路は基本的にまっすぐ敷かれているのだが、矢島川を境に東西でその角度が異なる。
そのあたりにも、ここが境界線となっていることが見て取れる。
くねくねと矢島川の跡を遡っていく。現在でもここが新倉と下新倉の境になっていて、かつては西側(右)を上新倉、東側(左)を下新倉と呼んでいた。
矢島川の西側、現役水路との間に打ち捨てられた廃水路を発見。かつては一帯が全て耕作地だったが、工業化や水道普及の影響もあるのだろうし、大半の水路がこのように放置された状態になっている。
矢島川の東側から合流してくる廃水路もある。この水路敷は水道道路の向こうにも続いているのだが、たどるのは後回しにしておこう。
いったん西側に寄り道。大きなビニールハウスの脇では、細いが現役の水路になっていた。
さて、再び矢島川。水道道路に出る手前でくねくねしていた道路がまっすぐになる。新倉と下新倉の境は左の直線道路なのだが、かつての矢島川は右側の私道のような方から流れて来ていたらしい。
上の写真で奥に見えるフェンスが和光高校のグラウンド。水道道路を越えて高校グラウンドの脇に水路敷が残されていた。
和光高校前を通る埼玉県道88号(水道道路)から北側に流れる開渠を見たところ。ここではいきなり道路の脇から水路が始まっているように見える。
水道道路の南側。歩道と呼べるほどの路肩がなく歩いていくには苦労するが足元を見ると境界標が北側の水路にあたる部分だけ「水道用地」と書かれたものになっていた。現在和光高校になっている場所には昭和25年(1950年)ごろまで湧水が出ていた溜池があり、そこから矢島川に向かって水が引かれていたらしい。
この写真は2024/3/18撮影。
水路敷に入れないので東側から町境に沿って南側へ回り込んでみたところ。工場の脇に蓋暗渠が残っていた。
ここからの写真は2018/4/28撮影。
なんてことのない十字路だが、ここで矢島川は西側の金泉禅師の前を通って、坂下湧水公園からの流れと、前方妙典寺から来る流れが合流している。
どちらが本流なのかよく分からないが、町境は坂下湧水公園の方に向かっているので、西の方を本流としてみる。
さて、本流と見立てた西側の流れから上流へたどってみよう。道路脇にある歩道がどうやらかつての水路(側溝)のようだ。
東側に広がる広大な駐車場。実は、その向こうの木立が見えるところにひとつ東側の支流が流れている。そちらにも後で行ってみることにする。
その駐車場の所有者でもある臨済宗建長寺派の金泉禅寺。鎌倉時代末期から南北朝、室町時代に生きた禅僧、夢窓疎石が開山したとされる古い寺院だ。
古代の新座(新羅)郡衙があったとも言われる牛王山(ごぼうやま)の裾野に敷地が広がっている。
昭和通りの交差点まで来たところ。新倉と下新倉の境界線はいったん昭和通りに沿って右奥へ向かっていくが、水路敷は正面の道路に入っていき、その先の蕎麦屋の脇で行き止まりになっている。
ぐるっと南側に回り込んでみる。坂下庭球場の西側に向かって、蓋暗渠が入っていくのがわかる。どうやらこちら側から下流に進んでいくことができそうだ。
庭球場の北側へ蓋暗渠は回り込んでいく。そのまま正面に見える蕎麦屋の方へ流れていくかと思いきや…
いったん水路敷は南へ回り込んだ上で下流へ進んでいるようだ。ここから先に入ることは難しそうだが、気になるのは水路の配置。写真右側は下流のはずなのに、右側から流れて来る側溝の水が左の蓋暗渠に流れ込むように作られているような謎の構造になっている。
すでに上流から流れて来る一連の水路としての役割は無くなっていて、庭球場南側を走る下水道に向かって逆向きに水を流しているのかもしれない。
それでは、改めて庭球場から上流を目指していこう。西に向かう道路の右側にかつては側溝が流れていたのだろう。
すぐ先で並行している道路がある。水路は左側の道路を流れていたようだ。
左側の道路を進んで行ったところで、道路左側に見つけた隙間。ちょっと覗かせてもらうと、水が流れていたらしき溝の向こうには壹鑑寺が見えるようだ。
水路の南側にある曹洞宗壹鑑寺(いっかんじ)。慶長3年(1650年)川越に開山されたのち、領主であった酒井壱岐守忠重の転封に伴い寛永年間に当地へ移転したという。
酒井忠重という人物は同時代に二人いたようで、徳川四天王と称される酒井忠次の孫で、忠次の養子となった出羽白岩領主の長門守忠重(左衛門尉酒井家)ではなく、雅楽頭酒井家の川越藩主備後守忠利の三男の方らしい。徳川家光、家綱時代に老中、大老を務めた若狭小浜藩主酒井忠勝の弟にあたる。忠勝が加増されて川越から小浜に移る時期に当地の領主として入って来たと思われる。
水路の方はそのまま道路を進んでいくと、坂下湧水公園に行き当たる。ここが本流の水源となっている様子。
湧水公園の中では、湧水が小川として整備されている。
湧水公園の中にある湧水。ここから矢島川は流れ出ている。
湧水公園の西側にはまだ谷が広がっており、谷頭は天神ヶ谷戸公園になっている。
ここからの写真は2018/8/5撮影。
続いて、さきほどの合流点からひとつ東側の支流をたどってみる。行き止まりの道に沿って蓋暗渠を進んでいく。
ここからの写真は2018/4/28撮影。
車道が行き止まりとなったところで、西に向かって小道が続いていた。
その先は再び蓋暗渠になる。前のページで本流から見えた駐車場の反対側を通り抜けていく。
昭和通りの南側にも蓋暗渠は続いているが、その先で行き止まりになっている。マンションの駐車場にぶつかるところで、西からくる流れと、マンションの駐車場を越えて南側から流れて来る流れが合流していたらしい。
まずは西側に回り込んでみる。畑の北側ある隙間が下流に向かう水路敷らしい。
畑から南を見る。青面金剛庚申塔のある交差点から、南へ向かう弥太郎坂通りに水路敷がある。
川跡らしいクネクネとした道を上っていく。徐々に上り坂になっていく。
そのまま坂道を上っていくと酒井浄水場にたどり着いてしまった。ここは和光市に二ヶ所ある浄水場のひとつで、湧水ではなく深井戸からの地下水を水源としている。ほとんど坂を上り切った場所にあり、矢島川の水源というには無理がある。
実は、少し手前に戻って坂道の途中に東へ向かう隙間があったのだ。どうやらこちらが本来の上流部分であるようだ。
隙間から奥の方を覗いてみる。入っていくのは難しそうだが、蓋暗渠になっていた。
というわけで坂を少し上って路地を東へ向かう。すぐに、金網で封鎖されている水路敷が見つかった。
金網の上から下流方向を眺める。こちらは蓋暗渠かどうかよくわからない。
金網から東に向けて水路跡と思われる側溝が伸びている一方、南側にも続きがあるようだ。
東へ向かう側溝は、崖上に分譲住宅が並んだ一角で側溝は途切れている。かつては崖のあたりに湧き水が出ていたのだろうか。とりあえずこのあたりが支流の上流端ということになるだろう。
南の水路敷はすぐに民家の裏に回り込んで東側の道路に戻ってくる。
ここからの写真は2018/8/5撮影。
もともとは畑の中を水路が流れていたようだが、現在は道路脇の側溝となって坂道を上っていく。
畑の南側に、むき出しになった側溝からボックスカルバートのようなものが伸びている。先端は再び南へ曲がっているので、まだ上流があるようだ。
西側の道路から南へ回り込んで見る。ビニールハウスのある農園の南側に水路敷が続いており、そこから不自然な空き地の向こうに隙間があるのが見える。
住宅地の擁壁と空き地の擁壁の間に水路敷の草叢が伸びている。
Google Mapの空中写真を見ると、もとは農地だったらしい空き地の南側で水路敷は再び住宅の間に飲み込まれる。
水路敷は尾根筋の道まで続いていた。ここが矢島川の最上流端と言ってもいいだろう。
上流端のすぐそばには、下新倉氷川八幡神社がある。寛治5年(1091年)に創建されたと伝わる古い神社で、元は宇佐八幡宮からの勧請、文禄3年(1594年)に武蔵一宮の氷川神社を勧請したという。新倉(上新倉)氷川八幡神社と並んで現在でも地元の鎮守社として大事にされているようだ。
二つの氷川八幡神社を結ぶ尾根道は古道のようで、西に向かうと途中に庚申塔が並んで建っていた(西側から撮影)。
今度は昭和通り南側の合流点から南へ回り込んでみる。マンション東脇に蓋暗渠が伸びて来ていた。写真は下流方向を見た所。
ここからの写真は2018/4/28撮影。
振り返ると南へ向かう道路の左に水路が側溝として続いていた。
南へ進んで交差点から振り返って下流側を見る。路面に書いてあるペイントは見づらいが、どうやら「危い」と書いてあるらしい。見通しの悪い交差点でもあり、谷底でもあるので出会い頭の事故があるのだろう。
「な」がない「危い」というペイントはどうやら埼玉県特有のもので、埼玉県が決めたものではなく埼玉県内の各自治体や警察が独自に採用しているものだという。高速道路でも同様の表記は見られるようだ。
(参考)
くるまのニュース、2021/1/9など
交差点を越えて南へ進むと、道路は蛇行しながら上っていき妙典寺の竹藪行き当たる。水路はその竹藪の西側から出て来ている。
妙典寺には、日蓮聖人が文永8年(1271年)に佐渡へ配流となる際、この地で難産に苦しむ地頭の妻に祈祷し、地頭が湧水を妻に飲ませたところ無事出産したという伝説が伝わる子安の池があり、そこが水源なのかもしれない。
妙典寺はそのときの地頭である墨田五郎時光がのちに出家して自らの館を寺としたという。ただし、日蓮一行は厚木から鎌倉街道を北上し、久米川を通って新潟に向かっているので、大きく東に逸れて新倉に寄ったという後世の伝記に疑問を挟む向きもあることを付記しておく。
さて、いったん和光市の北側を東西に貫く水道道路まで戻ってきた。
水道道路から、矢島川の最も東側の支流を下流方向に見る。
その1で見た廃水路はここまでは立ち入ることができない。
振り返って南側。コンビニの駐車場とバス停の脇に蓋暗渠というか側溝がある。この部分、実はしばらく見ていると結構人通りがあった。写真奥の病院脇からバス停に向かって通路になっているらしい。
病院側から下流方向を見る。こちらからは一見歩道に見える。
ここからの写真は2018/4/30撮影。
南側へ回り込んで見た。こちらからは入れそうだが、途中で行き止まりになっているようだ。
ここから南へ向かっては歩道として使われているようで入っていける。
すぐに水路敷は道路に行き当たり、ここではそのまま道路脇の歩道として続いていく。
その歩道もすぐに終了。しかし、どうやらかつては道路右側の斜めになっている塀の方から水路がきていたようにも見える。
水源と思しき場所には、小さな祠があった。すぐ南には昭和通りがあり、別の水源地を持つ
下里(さがり)川が流れている。下里川との間は微妙に盛り上がりがあるので、この流れた下里川から分かれていると解釈するのも微妙ではある。