田柄川(下流域)その2
川越街道まで戻って再び田柄川を上流へ向かって行こう。しばらくは普通の道路になってしまっている。
ここからの写真は2019/9/14撮影。
車道は突き当たりになるが、その先は車止めのある水路敷が続いている。
すぐにまた車止めが現れ、車道に戻る。むしろなぜここだけ車道になっていないのかが不思議な感じだ。
再び車止めが現れて直進側は車が入れない水路敷となる。
三叉路を石神井川から見たところ。古地図ではここが田柄川と石神井川の合流点として描かれているものもある。
ここから下流は用水路として開削されたのかもしれないし、石神井川の旧流路だったのかもしれない。
水路敷が道路に合流するところには茶面不動尊が建っている。かつてこの辺りが茶畑だったことからこの名前になったともいう。
茶面不動尊から西へ向かう道路は北側に歩道が作られていて、かつてはここが水路敷だったのではないかと想像させる。
上の根橋北交差点で再び環七に出会う。田柄川はそのまま環七を越えるが、写真正面の道路ではなく、建物右側に斜めに食い込んでいく道の方から来ていたようだ。
写真左側にある石神井川の橋名は、上板橋村の字名であった上之根から取られているらしい。
交差点を越えて上流へ向かう。こちらも道路脇に歩道があるが、水路敷ということだろうか。
東新町氷川神社前交差点から先は二車線道路になる。ここでも北側にはガードレール付きの歩道が続いている。水路敷はこのまま直進していくが、交差点名になっている氷川神社はひとつ北側の道路に面しているので、少し寄り道して行こう。
この日はちょうど氷川神社の例大祭が行われており、屋台も出ていた。
明治35年(1902年)に旧拝殿を改築したという神楽殿では、神楽舞が奉納されているところだった。
氷川神社前の道と、水路敷の道路が合流する場所から振り返って氷川神社の森を見る。
交差点の南側には上板橋村役場跡の門柱が残されている。上板橋村は江戸時代の川越街道にあった上板橋宿がそのまま村となった地域で、昭和2年(1927年)から昭和7年(1932年)までの間、ここに村役場があったという。
水路はというと、交差点を越えて安養院の敷地内から流れてきていたらしい。安養院の垣根から覗き込んでみたが、境内のやや窪んだ流路跡のようなものが残されていた。
安養院は正嘉元年(1257年)に執権北条時頼が創建(一説には再興)したと伝わる古い真言宗豊山派の寺院で、豊島八十八ヵ所霊場の発番礼所、すなわち1番目にあたる。板橋七福神の弁財天も祀られている。
境内には、水路が残されているのが空中写真から見るとわかる。
安養院の西側、桜川小学校の正門前あたりで水路敷は道路から境内の方へ流れていっていたようだ。
この道路(あいさつ通り)も、かつては田柄川(この辺りでは桜川)を石神井川に合流させる水路として機能していた時期があったらしい。
桜川小学校の北側であいさつ通りは突き当たりを西に曲がっており、やたらと幅広い歩道部分は水路敷だったのかもしれない。
桜川小、桜川中、城北中高と城北中央公園が集まる桜川小前交差点で、水路敷は桜川緑道と分岐していたようだ。
ここで今回の探索は終わりということになる。