田柄用水(笹目通り〜石神井一里塚)その1
OpenStreetMapで
田柄用水の中流部、土支田近辺を見る。
田柄用水(たがらようすい)は、西東京市で田無用水を分水して富士街道沿いに東進、石神井公園駅付近から北上して関越自動車道練馬ICを過ぎ、土支田町内を蛇行しながら光が丘へ向かう用水路で、光が丘の先は自然河川の田柄川へとつながっている。
現在では、田柄川を含めすべてが暗渠化されている水路の一部を下流側からたどってみる。
笹目通り、土支田交差点のやや南。中古バイクショップ(その後移転)の横に唐突に始まる水路敷が旅の始まり。
田柄用水は、笹目通りの東側にも続いており、東側の水路敷はここから南に向かった豊渓歩道橋脇から光が丘へ向かっている。そちらもいずれたどってみたい。
写真は断りがなければ2012/5/4撮影。方向は書いていなければ上流に向かって撮影している。
マンション横を抜けて最初の道と交差すると、その先に練馬区ではおなじみの水色の舗装が現れる。
このあたりは、練馬わがまち資料館の「
田柄用水の開発」によると、田柄川上流部にあった枯れ川(雨のあとだけ水が流れる谷間)を利用して明治4年に開削されたそうだ。
さらに進むといったん道路と並走する形となる。
もともと土支田近辺は高台で水源がないため、農業用水として開発されたらしい。
路地状の水路敷を進むと、アポロ公園に出会ったところで南へ90°向きを変える。
(この写真は2012/5/6撮影)
かつての枯れ川は直進方向らしいが、用水路として付け替えられたようだ。直進方向は住宅街になってしまい、川の痕跡は残っていない。
アポロ公園脇を抜け、水路は道路の東側に張り付くように続く。
右に豊渓小学校を見る交差点から、水路は西側に移動する。
一方、水路敷のやや西より、豊渓小学校北東には大きな畑地があり、写真ではわかりにくいが右側(畑地の東端)の住宅に沿ってわずかに地形にくぼみがある。
(この写真は2012/5/6撮影)
おそらくは、そのあたりを枯れ川が流れていたのではないだろうか。
たわらくぼ児童遊園を超えたところで水路敷は西向きに90°ターン。
俵久保はこのあたり(下土支田村)の字名。クボという地名が窪地を連想させ、枯れ川が流れていたことを示すのかもしれない。
進むと豊渓小学校の南に出る。水路敷は写真左の小道だが、北へ向かう道がすぐ先(消防団詰所の手前)でわずかにへこんでおり、枯れ川はそちら側を流れていた可能性がある。
小学校の南側を水路はくねくねと西へ進む。
写真中央のあたりで、右へ向かう枯れ川と別れていたような感じの地形になっている。
このあたりは、水路敷両側の土地とかなりの段差がある。
(この写真は2012/5/6撮影)
水路敷は、五十嵐第11駐車場のところで土支田中央土地区画整理事業による区画整理地域にぶつかって痕跡を消してしまう。
建設中の補助230号線の脇にいきなり復活する水路敷。
豊渓小学校方向を振り返ってみる。視線の先に前のページの駐車場があり、かつては水路がまっすぐ進んでいたのだろう。
少し上流に進むと、水路敷は新設された道路脇の歩道になっている。
区画整理地域は長久保道(交差点左右の道)にぶつかる地点で終了。再び、いかにもな水路敷が道路の右側に現れる。
水路敷はゆっくり西向きにターンしていく。
長久保道を西側から。上の写真の交差点よりも手前、右手の駐車場入り口付近のほうが地面が低くなっているようだ。
明治時代の流路は現在よりやや西側を流れていたとされており、凹んでいるあたりが流路だったのではないだろうか。
水路左の道路は途中で行き止まりになってしまう(下流に向かって撮影)。
道路と水路敷に、結構な高低差があるのもわかる。
道路と別れた水路敷は道幅を広げて、地蔵通りとの交差点に向かう(下流に向かって撮影)。
このあたり、パッと見23区内とは思えない農村風景が見られる。かつては、このような景色がどこまでも続いていたのだろう。
地蔵通りを渡った西側は区画整理により昔の面影がまったく残っていない。
一応、写真中央を右から左に行くのが水路敷。
このあたりで写真左に向かって旧流路があったとされるが、まったくわからない。
地蔵通りを南向きに見る。
(この写真は2012/5/6撮影)
田柄用水はここからS字カーブになっていて、地蔵通りを3回横断することになる。
区画整理地域を抜けると、水路敷はこんもりとした林の中で進んでいく。
しばらく行くと、再び道路に出会う。このあたりの道路は昭和14年の地図にも書かれている場所。
左奥は田柄用水沿いに作られた
土支田農業公園。
土支田農業公園は、実習を通して農業を学ぶ施設と公園が併設されている。
水路敷は農業公園の西側に続いている。
ここから写真右側に向かって枯れ川の谷が橋戸新田公園を目指していたようだが、痕跡はわからない。
橋戸新田公園。
(この写真は2012/5/6撮影)
枯れ川はこのあたりから始まっていたという。
土支田通り、大泉二丁目バス停付近から、谷頭(こくとう)があったとされる場所を見る。
写真奥の華屋与兵衛とグラッチェガーデンズの間が低く落ち込んでおり、そのあたりが谷頭と思われる。
左側には白子川に落ちる崖があるので、写真を撮影しているあたりは分水嶺といえなくもない。
再び土支田農業公園からの水路敷へ戻る。
公園を出ると、路地裏の水路敷が続く。
路地裏から、きれいに植え込みが作られた場所に出る。
このあたりで水路は緩やかに南へターンしていく。
水路が南を向いたところでやや大きい道と交差する。
ここから、水路は大きく東(写真では左)へ転回して地蔵通りに向かって元来た向きに戻っていく形になる。
S字カーブの中央付近。
右側(南側)が1m近い段差があって、南方向は台地状になっている。一方、この先では左側も1m近い段差になる部分があり、このあたりは枯れ川ではなく人工的に掘削した可能性が指摘されている。
土支田創生苑の裏側(南側)を下流方向に見る。左側(南側)の段差がよくわかる。右側は植え込みでよくわからないが、土支田創生苑の敷地とは段差がある。
東鋼管工業とスカイハイムドシダの間はやや広くなっている。そこを抜けていくと、再び地蔵通りが見えてくる。
水路敷と地蔵通りの交差点を北向きに見る。
(この写真は2012/5/6撮影)
道がカーブしているため、先ほどとおってきたS字カーブの上辺はほとんど見えない。
水路敷はいったん道路の下に吸収されるが、すぐにシンメトリックなY字路で復活する。
左が水路敷だが、右側もいかにも川らしくゆるやかなカーブを描いており、昭和14年の地図では右が水路だったようにも見える。
Y字路の先で、水路はまたしても南へターンし、三度地蔵通りを目指す。
右側から南向きに出てきた水路敷は、古くから地図にある道にぶつかって西に向きを変える。
ここから少しの間は、道路の南側を進んでいく。