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田柄用水 - 富士街道〜田無用水(分水口)その3
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地図
南に向かう場所にあった地図。
田柄用水はこのあたりでは保谷町(旧保谷市本町)の北側を流れているのがわかる。
保谷町二号水源
そこから少し南に進んだところ、道路と蓋暗渠の東側に、「保谷町二号水源」という東京都水道局の施設がある。
ここは現役の水道用水源となっているらしい。かつては、湧水として田柄用水にその水を流していたのかもしれない。
段差
水源からすこし進むと、道路よりも暗渠のほうが高い位置になっていく。
側溝としては不思議な光景だが、土手になっている上に蓋をつけたのかもしれない。東側(写真では左)のほうが土地が高くなっており、その縁の高い部分を水路が流れていたのだろうか。
夏祭り
その先にある「保谷なかよし公園」では、夏祭りの準備が進んでいた。
西浦北向地蔵尊
公園の南に、西東京市指定文化財第36号の「西浦北向地蔵尊」がある。ここで、水路敷は道路と別れ写真左のほうへ進む。
このお地蔵さんは、関道の庚申像から5年後の享保4年(1719年)建立。
中島飛行機簡易軌道跡?
西浦北向地蔵脇の蓋暗渠を進んでいくと、途中に蓋暗渠が途切れて石橋になっている部分(矢印)がある。雑誌「東京人」2021年9月号P37の内田宗治氏の記事によると、西武柳沢駅の南、千川上水沿いの現在ではNTT武蔵野研究開発センタになっている中島飛行機武蔵製作所から、ひばりヶ丘駅南の現在では住友重機械になっている中島航空金属田無製造所に向かって伸びていた簡易軌道の遺構だという。
※2021/10/19追記。写真は雑誌記事とは逆向きに撮影したもの。
西へ
裏路地となった水路敷はすぐに道路と再び合流したところで、西に進路を変える。
また別れ
少しだけ道路の南側を蓋暗渠で進んだのち、またもや道路と別れ南寄りへ。
裏道
大きな屋敷の北側を水路敷は進み、写真奥で南へ直角ターンとなる。
空き地
その後、水路敷は広い空地のある場所へ。写真左奥の街路灯がある位置で、今度は西へ直角ターン。
地図にない道
そこから先は、なぜか地図には書かれていない住宅の裏道。
北原第一公園
この写真は上流側から。
裏道は北原第一公園の北側で、道路に合流して南へ直角ターン。
で、実はこの日、ここでいったん水路敷を見失ってしまったのだった。
Google Mapではこの南側で水路敷が西へ直角ターンしているのがわかるので、後日再訪したい。
西へ
2012/10/27に再訪。
公園の南角で水路敷はまたも西へターン。道路北側の側溝跡として蓋暗渠が続く。
谷戸新道へ
まっすぐ進んだ水路敷は、都道112号(谷戸新道)に合流する交差点でいったん痕跡を失う。
実はこのときは気が付いていなかったが、水路敷は写真の丁字路を南にターンしているようだ。後日確認に行ってきたい。
地図その4
全国Q地図の東京都3千分の1地図(1961〜1962年)
西北には、白子川水系の水源のひとつともされている東京大学田無演習林がある。
この地図では、田柄用水は現在の都道112号(谷戸新道)とは合流せず、やや東側を総持寺の敷地へ向かって南下しているように見える。
昭和22年
国土地理院Webサイトから昭和22年(1947年)空中写真(米軍撮影)を見る。
丁字路を南へターンした水路敷はそのまま所沢街道まで南下し、都道4号(所沢街道)に沿って西へ向かっているようだ。
南へ
前のページで見逃していた丁字路を2012/11/23に再訪。
南を向くと道路の左側に蓋暗渠があるのがわかる。
細道
南へ進んでいくと、蓋暗渠の終わりにマンションと民家に挟まれた細道が出現。
細道はすぐに西向きにターンしている。
ひったくりご用心
ひったくりご用心の看板をみつつ西へ進む。
夜来るには向かなそうな場所だ。
合流点
マンションの南側を抜けて、水路敷は都道112号(谷戸新道)と合流し、北原町一丁目交差点に向かう。
歩行者専用
交差点から振り返る。右側の駐車場との間に結構な段差があるのがわかる。
北原町一丁目
北原町一丁目交差点。田柄用水は写真正面方向を流れていたはずだが、このあたりでは谷戸新道開通の影響か、まったく痕跡が見られない。
とりあえず写真正面に小さく見える白い柵のところへ行ってみよう。
スリバチ
白い柵から道路がやや下っているのがわかる。
下りきったあたりを田柄用水が流れていたのかも知れないが、痕跡は何もない。ただし、古い空中写真を見る限り、水路はむしろ柵のあたりにあった可能性が高い。
田無町三丁目
田無町三丁目交差点から北側を振り返る。
田柄用水は、写真正面の設計事務所の右で所沢街道にぶつかり、街道の北沿いを西北に進んでいたと思われる。
歩道
道路北側へ戻る。無駄に広くなっている歩道が水路敷だったのかもしれない。
写真正面のあたりに見える緑色の柵の向こうで、水路は南へターンすることになる。
真ん中
都道12号(武蔵境通り)を過ぎたところで、所沢街道の南側に蓋暗渠のある小道が現れる。
田柄用水も、出発点である田無用水の分水口まであと少しだ。
このあとの写真はいずれも2012/8/25撮影。
最初の交差点
西向き一方通行の路地を渡ると、いよいよ分水口まであと僅か。
起点へ
写真奥の突き当りが、田柄用水の出発点である田無用水の分水口だ。
分水口
分水口から田柄用水を見る。
ここが田柄用水の出発点、田柄用水は田無用水の北側流路(現在は「やすらぎのこみち」として遊歩道になっている)から別れているのだが、その田無用水も玉川上水を分水した新堀用水のさらに分水だという。
田無用水の開通は元禄9年(1696年)、田柄用水は遥かに下って明治4年(1871年)に開通したという。上保谷をはじめとする9カ村の願いで作られた田柄用水は、関道の庚申像から3本の腕をもぎ取った空襲によって上流部が破壊されるまで、周囲の農地を潤す水路として利用されていたのだ。

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