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田柄用水 - 富士街道〜田無用水(分水口)その2
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最上流部
国土地理院Webサイトから昭和31年空中写真(米軍撮影)で田柄用水の最上流部分を見る。
富士街道を分かれて、西東京市内を北上、いったん富士町交差点から北西に進んできた関道と合流したのち、南西に向かって田無駅北側で田無用水との分水口までつながっている。
合流点
写真中央の自動車がある場所が、田柄用水と富士街道の合流点にあたる。
この先、富士街道は一段と細くなり、西武柳沢駅の北側では東向き一方通行になってしまう。
このページ以降、北原第一公園までの写真はいずれも2012/8/25撮影。
北へ
合流部分を北に向けて眺める。
道路の右側が蓋暗渠になっており、ここが田柄用水の水路敷だ。
分岐
しばらく進むと道路と水路敷が分かれ、水路敷はそのまま北へ進む。
東伏見団地バス停
水路敷は新青梅街道に東伏見団地バス停付近で突き当たる。
西へ
ここで水路敷は西に向かって直角に曲がっている。
水路敷は、新青梅街道のわずか南側、家と家の間をまっすぐと蓋暗渠で進んでいく。
再び合流
少し進んだところで再び水路敷は北へ進路を変え、新青梅街道へ合流する。
西東京都市計画道路3・2・6号調布保谷線
合流ポイントは偶然なのかどうか、工事中の西東京都市計画道路3・2・6号調布保谷線と新青梅街道の交差点となる場所(保谷町二丁目バス停付近)にあたる。
工事区間では、いったん水路敷の痕跡はわからなくなる(写真左下から伸びるアスファルトの色違いの線がそれかもしれない)。
保谷中南交差点
バス停の先に保谷中南交差点があり、そこで水路敷が再び新青梅街道の北側に向かって現れる。
保谷中へ
新青梅街道の北側を、市立保谷中学校へ向けて蓋暗渠が進んでいく。
保谷中学校
保谷中学校の南側で蓋暗渠は道路を渡り、西に転進する。
本町小学校
保谷中学校のグラウンド脇をクランクカーブを挟んで進んでいくと、隣接する市立本町小学校の校門前に。
農地
さらに進むと、北側が開けた農地になっている場所に出る。
左側はかなり昔からあったであろう屋敷森。
蓋暗渠は写真左の壁沿いをまっすぐ西へ進んでいく。
屋敷森
田柄用水の南側にある屋敷森を見る。
左に少し見えているのが本町小学校。
突き当り
屋敷森脇を過ぎると、蓋暗渠はすぐに駐車場に突き当たって北へ曲がる。
歩いているうちに曇ってきてしまった。
側溝
かつては道路脇の側溝だったであろう蓋暗渠が続く。
付いては離れ
暗渠の道はいったん二車線道路と合流しかかるが、すぐ西側を分かれて進んでいく。
古い地図を見ると、左側の水路があるほうが旧道だったと思われる。
曲がり角
しばらくそのまま進むと、信号機のある交差点で再び二車線道路に近づくが、水路敷はそちらの道とは合流せずに、富士町交差点から北西に進んできた関道に沿っていくことになる。
晴れ間
関道の脇に、側溝だったであろう蓋暗渠が続く。
再び日差しがさしてきた。
都道233号
関道は、保谷駅から南西に進んでくる都道233号と交差する。
細道
交差点を超えると、北へ進む微妙な細道を発見。
一見水路敷に見えるが、進んだ先は一般の道路になるので、古いあぜ道なのかもしれない。
分かれ道
ちょっと進んだところで、蓋暗渠は関道と分かれ、西へ進む。
暗渠
かつては畑の間を流れる用水路だったのだろうが、現在は住宅地の間にある暗渠になっている。
青面金剛庚申像
ちょっと寄り道して、上の写真中央の道を北へ。関道と合流して少し北へ行くと、西東京市指定文化財第23号の「青面金剛庚申像」(しょうめんこんごうこうしんぞう)に出会う。
正徳4年(1714年)建立で、江戸時代の上保谷村の中心地であったこのあたりの字名から、「榎の木の庚申様」とも呼ばれているそうだ。
道教に言う三尸(さんし)という人間の体内に住む虫が、庚申の日に体を抜け出して天帝にその人の罪悪を告げて寿命を縮めるとされていたことから、三尸が抜け出さないように夜通し酒宴を催したのが庚申講だそうな。
かつて、腕は六臂(左右に3本ずつ)あったが、昭和20年(1945年)の空襲で3本を失ったと、脇にある説明に書かれていた。
再び側溝
さて、西へ進んだ暗渠はまたもや道路にぶつかると側溝らしき暗渠となって今度は南西へ。
南へ
少し進んだ所で、今度は南へ進路を変える。

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