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田柄用水(旧埼玉道〜笹目通り)その1

OpenStreetMapで田柄地区の全体図を見る。
田柄用水の名前が示す通り、用水路のハイライトはこの旧練馬田柄町ということになる。もともと、この辺りは低地で田柄川が流れていたが、その流路は何度も変わっているらしく確定するのが難しい。
とりあえず、文献などから推定した旧流路と、現在田柄川緑道として残っている道路を中心に、縦横無尽に走る水路敷を訪ねて行くことにする。
また、地図中央の田柄川緑道の北側に沿って、現在痕跡はまったく残っていないが光が丘にあった米軍グラントハイツ(旧成増飛行場)に向かって走る東武啓志線が走っていたとされる。
田柄用水の名前が示す通り、用水路のハイライトはこの旧練馬田柄町ということになる。もともと、この辺りは低地で田柄川が流れていたが、その流路は何度も変わっているらしく確定するのが難しい。
とりあえず、文献などから推定した旧流路と、現在田柄川緑道として残っている道路を中心に、縦横無尽に走る水路敷を訪ねて行くことにする。
また、地図中央の田柄川緑道の北側に沿って、現在痕跡はまったく残っていないが光が丘にあった米軍グラントハイツ(旧成増飛行場)に向かって走る東武啓志線が走っていたとされる。

いつもならば下流から上流に向かって探索するのだが、ここでは水路が縦横に迷路のように走っていてとても無理。自分でもどこで撮影したか分からなくなっている気もするので、全体的には下流側からランダムに紹介していきたい。
さて、現在の田柄川緑道は、遊歩道としての役割の他に、地下を流れる下水道幹線としての役割がある。都道442号(旧埼玉道)との交差点には東田柄橋の標柱があるが、そのうしろには写真のように水位を示す掲示板が掲げられている。
ここからの写真は2013/1/13撮影。
さて、現在の田柄川緑道は、遊歩道としての役割の他に、地下を流れる下水道幹線としての役割がある。都道442号(旧埼玉道)との交差点には東田柄橋の標柱があるが、そのうしろには写真のように水位を示す掲示板が掲げられている。
ここからの写真は2013/1/13撮影。

旧埼玉道の西側は、緑道に沿ってハッスル通り商店街という名称が付いている。1965年の創立というからページを書いている2015年でちょうど50年目だが、特に目立ったイベントが行われた様子はなさそうだ。

ハッスル通りの入り口からすぐ、クリーニング店の脇を南側に向かって細い水路敷を発見。細すぎて入ることはできない。

そこから緑道の北側を見ると、練馬区おなじみ水路敷の水色ペイントが施された通行可能な水路敷があった。

クリーニング店脇の細い水路敷がどこへ向かっているか、南側に回り込んでみた。住宅の間に、写真では分かりにくいが小さな蓋暗渠が顔を出している。

入ってくと徐々に道幅が狭くなっていき、最後は人の通れない水路になっていた。蓋暗渠といっても側溝のような幅しかなかった。

一方、北側の水路敷も進んでいくと徐々に細くはなるが、旧流路側の道路まで抜けることはできる。

そこから少し北に行ったところに、練馬区のミニ防災井戸がある。実際の井戸は写真左下にあるのだが、むしろ目立っているのは後ろにある給水塔のほうだ。

旧埼玉道へ戻って田柄川緑道の南側。住宅の間に水路敷と思われる未舗装の路地を見つけた。

その少し北側には、旧埼玉道から西へ入り込む細い路地。行き止まりになっているが、元はクリーニング店の水路につながっていたような位置にあり、佇まいもいかにも水路敷っぽいのだがどうだろう。

旧埼玉道を南へ進み、田柄通りとの交差点へ。そこには理容店の店先に古い庚申塔が立っていた。元禄9年(1696年)とある笠付きの青面金剛像だ。

上の青面金剛像から田柄通りを西へ進んだ歩道上に、もう一体青面金剛像が鎮座している。延亨(えんきょう)2年(1745年)造立とされるが、大変綺麗に彫り物が残っている像だ。

上の写真右側に写っている動物病院脇の水路敷を下った先にある南田柄緑地には、東側に1ブロックコンクリート蓋暗渠が残されている。

南田柄緑地の西側。このあたり、水路敷は田柄通りから田柄川緑道に向かって下り坂になっている。かつては、田柄通りのほうにも水路があって、田柄川緑道に向かって水を流していたのかもしれない。
ここからの写真は2013/1/2撮影。
ここからの写真は2013/1/2撮影。

この水路敷をそのまま進んでいくと、坂を下りきったあたりで舗装が終わり。未舗装になってしまう。

さらに水路敷をたどっていくと、田柄川緑道の手前でフェンスに阻まれてしまい。緑道まで進むことはできない。

前のページの水路の終点、田柄川緑道の出口は民家の玄関の奥から始まる細い蓋暗渠だった。

さらに田柄川緑道の北へ進むと、旧流路両側に農地が拡がる場所に出る。
このあたりは田柄二丁目土地区画整理事業の区画内になっており、写真のころはまだ農地だったが、現在ではすでに宅地化が進んでいる。
その区画整理で現在はすでに失われているが、写真中央に見えるフェンスは東西に進む水路敷だ。
このあたりは田柄二丁目土地区画整理事業の区画内になっており、写真のころはまだ農地だったが、現在ではすでに宅地化が進んでいる。
その区画整理で現在はすでに失われているが、写真中央に見えるフェンスは東西に進む水路敷だ。

かつてはこのような感じで西に向かう水路敷があった。

西側の出口は塗り直された水色ペイントとともに現在でも残っている。撮影当時は水色ペイントがほとんど剥がれていた。

出口の先は普通の道路になってしまっている。すこし行ったところで南へ進む無駄に幅広い道を発見。舗装しなおされて分からなくなっているが、水路が通っていたらしい。

道路は田柄川緑道の中央分離帯がなくなったあたりに出てくる。そこから南側を見ると、蓋暗渠に向かって階段で降りる場所があった。

水路敷側から階段を見る。この水路敷はしばらく中央に細い蓋暗渠のある道がつづくが、やがて藪になってしまい通り抜けるのは難しい。

南側に回り込んでみた。私設のフェンスが設置されているため、中に入るのは遠慮したほうがよさそうだ。

南がを見ると、さらに細い蓋暗渠道となっていて進んでいけるように見えるが、この道はほどなく崖にぶつかって行き止まりとなる。

一度田柄通りへ戻り、タイヤショップの脇を進む水路敷へ。水路敷の入り口には棕櫚だろうか、大きな枝を伸ばして侵入者を拒んでいるかのようだ。

途中、きょうづか公園の脇でいったん道路に合流するが、その先でふたたび細い水路敷となり坂を下って田柄川緑道へ向かっている。

田柄川緑道の北側は民家の脇道に並んでいく。

途中東側に分岐する怪しい蓋を発見。

水路敷の終点は旧流路の手前。保育園脇の路地だが、その先の道とはフェンスを挟んで食い違っていて進めない。北側はスイミングスクールの駐車場になっていて、痕跡はよく分からないようだ。

旧流路の北側にある愛宕神社。慶長3年(1598年)伊勢神宮からの勧請といわれ、迦具突智命を祭神としている。
その西側には、光が丘の北側を抜けて白子川の支流に向けて水を流していたと思われる長い水路があったようなのだが、その途中までは次のページで辿ってみる。
その西側には、光が丘の北側を抜けて白子川の支流に向けて水を流していたと思われる長い水路があったようなのだが、その途中までは次のページで辿ってみる。