Natrium.jp
谷端川と周辺の水路敷群(宮原橋〜板橋駅)
地図その1
OpenStreetMapで小石川後楽園から東福寺あたりまでを見る。
文京区では小石川と呼ばれているが、豊島区では谷端川となる。 今回は、豊島区立上池袋図書館所蔵の「暗渠となってその姿を消した、豊島区最長の川 旧谷端川の橋の跡を探る」(豊島区立郷土資料館友の会、1999)を参考に大塚駅を通って板橋駅まで行ってみよう。なお、橋名も同書を参考とした。
宮原橋
文京区と豊島区の区境にある宮原橋からスタート。
ここからの写真は2023/12/30撮影。
松浦橋
松浦橋が架かっていたあたりから右岸側を見ると、南大塚一丁目児童遊園の向こうに車止めを発見。
車止め
大塚三業通りと並走する方向で車止めに遮られた細い道があった。
砂利道
ひとつ道路を挟んで北側には未舗装の砂利道があった。ここも含めて支流の水路敷のように見えるが、確認できる資料は見つけていない。
巣鴨教会
砂利道は途中で細くなったあと、最後は舗装されている道となって日本基督教団巣鴨教会の脇に出てくる。教会の中には作曲家の山田耕筰歌曲「からたちの花」発祥の地という石碑があるが、10歳で父を亡くした山田耕筰はここにあった寄宿舎の「自営館」で育ち、そのころの辛い思い出を北原白秋が詞にしたものに山田自らが曲を書いたという。
大塚三業通り
川跡の大塚三業通りの方は、巣鴨小学校の前を通り抜け緩やかに左右に曲がりながら進んでいく。
地図その2
OpenStreetMapで熊野窪橋から上之橋間を見る。
新旧
古い看板建築や新しい高層マンションなどが混在する街並みを行く。写真奥に熊野窪橋があった。
家庭料理
一つ西側の道には、廃屋と見られる家庭料理店の建物が残っていた。
商店街
大塚三業通り商店街の、商店と住宅が混在するエリアを進んでいく。写真右奥にある割烹のあたりに見返り橋があった。
千川通り
大塚駅の築堤が見えてきたところで千川通りに出た。ここから大塚駅北側を回って空蝉橋下交差点の先までは千川通りと並走していく。
交差点には姿見橋があった。
左折
山手線ガードの北側で千川通りは左折して北池袋駅方向へ向かうが、川跡は写真左側のビル脇を通っていたらしい。その先には藤橋があった。
大塚駅北口
藤橋のあたりから大塚駅北口を見たところ。
標柱
ここでちょっと大塚駅南口に寄り道。都電が走る線路の手前、駅前には天祖神社の標柱がある。
天祖神社
前の写真奥の道を進むとすぐに右側に大塚天祖神社がある。旧巣鴨村の鎮守として元亨年間(1321〜1324年)に伊勢神宮を勧請したとされ、明治6年(1873年)までは神明社と称していた。
鉄板
ところで、大塚駅北側の線路脇に気になるところがあったのを思い出した。自転車駐車場になっている部分の西側、空蝉橋方向に鉄板で蓋をされた空間がある。
ここからの写真は2022/9/19撮影。
蓋暗渠?
前の写真奥、空蝉橋に寄って行った部分はフェンスで囲われているが、隙間からのぞいてみると蓋暗渠になっていた。空蝉橋はもともと高台にあり、谷端川の支流というには不自然な位置にあるが旧貨物駅の排水路とかそういうものだろうか。
踏切
再び千川通りに戻って上流へ向かう。藤橋跡の上流側で千川通りは都電荒川線(さくらトラム)を跨いでおり、ここには旧王子電鉄の鉄橋があった。警報機も遮断機もないが、都電は線路上にある信号機を見ていて、道路側も信号で制御されている。
ここからの写真は2023/12/30撮影。
空蝉橋下
千川通りを進んで空蝉(うつせみ)橋下交差点へ。交差点には蛇子橋があった。
豊島区立中央図書館所蔵の「巣鴨のむかし 第一集」(巣鴨のむかしを語り合う会、1989)によれば、空蝉橋南側の脇(現在は駐車場だが、大塚貨物駅の跡)に出世稲荷があり、境内に空蝉の松と呼ばれた立派な松の木があったという。
空蝉の松と名付けられた由来は同書によれば明治天皇が陸軍大演習を観覧した際にここで休憩して名付けたという説を紹介しているが、後付けの説ではないかともしている。また、同第三集(1997)の「宮仲界隈むかし話」(矢島喜太郎)では、神社に集まっていた文人墨客たちが松の幹に蝉の抜け殻を見つけて洒落で名付けたという説を紹介している。
カーブ
空蝉橋下交差点の先、千川通りが西向きにカーブしていくところ。写真左寄りの全管連会館付近で谷端川が出てきていたはずだが、水路跡は残っていない。
葮山橋
千川通りからひとつ西側の路地。写真奥の突き当たりが葭山(よしやま)橋で、その先から谷端川が出てきていたがここも水路跡は失われている。
北大塚三丁目
千川通りに戻って北大塚三丁目交差点。谷端川本流の暗渠は写真右側の一方通行出口の方から流れてきていた。一方、左側の千川通り沿いに旧流路跡のような水路敷があるので、そちらもあとで見ておこう。先に右の方へ進んでみる。
宮仲橋
右の道に入ってすぐ、巣鴨新田交番の前に宮仲橋があった。宮仲は巣鴨村の字名で、谷端川の右岸(南)側、春日通りまでの一帯を示す地名であった。
中之橋
マンション手前の交差点が中之橋の跡。
上之橋
くねくねと蛇行する水路跡を進んでいく。写真奥には上之橋があった。このあたりは昭和10年(1935年)前後には暗渠化されていた。
合流
上之橋跡の交差点。ここに左(西)から山手線の西巣鴨橋脇から流れてくる支流が合流していたので、そちらに寄り道してみる。
ここからの写真は2023/12/20撮影。
S字
左に進むとすぐにS字カーブが現れる。支流は道なりに写真奥左方向から来るが、矢印の部分には谷端川旧流路と思われる路地がある。
手前の路地はすぐに行き止まりとなっているが、奥の路地は明治通りまで続いているので後ほど見ていくことにして、先に支流を進んでいく。
脇道
道路を進んでいくと、途中で水路跡の脇道が出てくる。
上池袋中央公園
支流の水路跡はしばらくは明治通りの南側を並走している。
狭
だんだん水路敷らしい狭い道になってきた。
水路敷
途中で山手線に向かって南に曲がっているのだが、これはもう明らかに水路敷。
拡幅
拡幅しようという努力は見られる。
上流端
支流は山手線の西巣鴨橋(工事中)手前で上流端となっている。
地図その2
OpenStreetMapで板橋駅までを見る。
旧流路
それでは、本流に戻る前にさきほどの旧流路と思われる道を明治通りに向かって進んでみよう。
境界標
一部で拡幅もされている微妙な幅の道だが、地面には道路幅より狭い位置に境界標があり、左右がセットバックしていることがわかる。
境界標コレクション
その境界標なのだが、やたらとバリエーションがある。写真右下、五三の桐が描かれたものは日本土地家屋調査士会連合会が設置したものだそうだ。このほかにコンクリート製のものや、「境界」とだけ書かれたもの、矢印だけのものもあった。
明治通り
明治通りに出た。
車止め
明治通り向かい側の工場脇に車止めのある細道が残っており、写真奥が谷端川本流の道路となる。
本流
さて、本流側に戻って改めて明治通りを越えていくことにする。交差点には鎌倉橋があった。
トキハソース
少し進んで左岸側を振り返ったところにあるのがトキハソース(旧社名は常盤商會なので「ときわ」と読む)。大正12年(1923年)に板橋区で創業した同社は昭和46年(1971年)に現在地へ移転した。移転した際には環境の違いでソースの味が変わってしまい苦労したという。
道路沿いにはソースの自動販売機が置かれている。
谷端橋
板橋駅に向かって進んでいく。交差点のあたりには谷端橋があった。
駐輪場跡
板橋駅から谷端川北緑道を巡った2017年には写真右側は自転車駐車場だったのだが、現在は閉鎖されているようだ。ここで今回は終わりとなる。
by Natrium