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狛江1号~和泉多摩川2号踏切

OpenStreetMapで狛江駅から多摩川までを見る。
多摩川の堤防上にあった和泉多摩川2号踏切は、平成7年(1995年)立体交差切り替え後に行われた多摩川橋梁架け替えに伴って平成16年(2004年)に廃止されている。(なお、喜多見〜和泉多摩川間の連続立体化事業=複々線化の完成は1997年)
狛江という地名は平安時代中期に編纂された「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」に武蔵國多摩郡狛江郷として現れる古いもので、当時は狛江市から調布市、三鷹市と武蔵野市の一部を含む広域地名であった(参考:狛江市史)。狛江市には現在でも多数の古墳が残り、古代から人々が暮らしていたことが想像される。
狛江の「こま」は高麗(こま)に通じ、高麗人(高句麗人や百済人を指す)が移住したことからその名がついたとする説があるが、狛江市史によれば俗説であり確実な資料は見当たらないという(埼玉県の高麗郡、新羅郡=新座郡については渡来人由来であることが資料で確認ができるそうだ)。
多摩川の堤防上にあった和泉多摩川2号踏切は、平成7年(1995年)立体交差切り替え後に行われた多摩川橋梁架け替えに伴って平成16年(2004年)に廃止されている。(なお、喜多見〜和泉多摩川間の連続立体化事業=複々線化の完成は1997年)
狛江という地名は平安時代中期に編纂された「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」に武蔵國多摩郡狛江郷として現れる古いもので、当時は狛江市から調布市、三鷹市と武蔵野市の一部を含む広域地名であった(参考:狛江市史)。狛江市には現在でも多数の古墳が残り、古代から人々が暮らしていたことが想像される。
狛江の「こま」は高麗(こま)に通じ、高麗人(高句麗人や百済人を指す)が移住したことからその名がついたとする説があるが、狛江市史によれば俗説であり確実な資料は見当たらないという(埼玉県の高麗郡、新羅郡=新座郡については渡来人由来であることが資料で確認ができるそうだ)。

喜多見1号〜9号踏切で紹介した狛江弁財天池特別緑地保全地区内西側には、常時公開されている泉龍寺弁財天池(通称「しみず」)があって弁財天が祀られている。
隣接する泉龍寺に伝わる伝説によれば奈良時代に旱魃があった際、良弁僧正(東大寺の初代別当)が祈祷したところ竜神が現れ雨を降らせ、池に水が沸いたという。
このページの写真はすべて2025/6/1撮影。
隣接する泉龍寺に伝わる伝説によれば奈良時代に旱魃があった際、良弁僧正(東大寺の初代別当)が祈祷したところ竜神が現れ雨を降らせ、池に水が沸いたという。
このページの写真はすべて2025/6/1撮影。

弁財天池と道路を挟んで向かい側には天平神護元年(765年)に良弁により開山されたと伝わる泉龍寺がある。
天正19年(1591年)に徳川家康家臣の石谷清定が菩提寺として中興したという。
天正19年(1591年)に徳川家康家臣の石谷清定が菩提寺として中興したという。

泉龍寺から南へ向かって別院の境内に祀られている耳切り地蔵。明暦3年(1657年)造立だが、村人が追い剥ぎに耳を切られたと思ったが斬られたのは地蔵尊の耳で、身代わりになってくれたという伝説が残る。

さらに南へ行くと狛江1号踏切跡がある。写真は東西に走る道路を西側から見たところ。

狛江2号踏切は狛江第三中学校の校庭に突き当たる道路の位置にあったようだが連続立体化以前に廃されている。狛江三中は昭和44年(1969年)に廃止された狛江浄水場があった場所で、古くは道路が直進していたようだ。

すぐ西側を通る世田谷通り。ここは踏切ではなく、世田谷通りは陸橋で小田急線の上を跨いでいた。連続立体化工事では、平成7年(2005年)3月に終電と始発の間わずかで4時間道路と線路の上下を入れ替える工事が行われた。

狛江3号踏切は世田谷通り陸橋の下を通るような形だったようだ。写真は用水路に沿っていた旧道を南から見たところ。

そこから線路脇のふれあい側道を和泉多摩川駅方向(南)へ進んだところにある突き当たりの道路が狛江4号踏切跡。

現在和泉多摩川駅東口改札へ向かう通路がある道路には、連続立体化以前(昭和40年ごろ)に廃止された狛江5号踏切があったと思われる。

和泉多摩川駅北口。北口と呼称されているが、小田急線はほとんど南北向かって通っているため駅西側にある。和泉は竜泉寺弁財天池の湧水に由来する地名で、多摩川対岸の川崎市多摩区にも和泉という大字(住民はいない)が残っているが、多摩川の蛇行によって切り離されたものだという。

連続立体化以前からアンダーパスになっていた和泉多摩川通りの手前(北側)に和泉多摩川1号踏切跡がある。

多摩川の堤防を小田急線が越えていく。平成16年(2004年)に廃止された和泉多摩川2号踏切は堤防の上(以前はもう少し嵩上げされていた)にあった。
昭和36年(1961年)にこの踏切(当時は第3種踏切で遮断機はなかった)でダンプカーと新宿から向ヶ丘遊園に向かっていた2400形4両編成の各停が衝突し、先頭車(クハ2460)が多摩川の河川敷に落下、ダンプカーは多摩川橋梁まで引き摺られ炎上、運転手が死亡するという(列車側は重軽傷者のみ)大きな事故があった。
昭和36年(1961年)にこの踏切(当時は第3種踏切で遮断機はなかった)でダンプカーと新宿から向ヶ丘遊園に向かっていた2400形4両編成の各停が衝突し、先頭車(クハ2460)が多摩川の河川敷に落下、ダンプカーは多摩川橋梁まで引き摺られ炎上、運転手が死亡するという(列車側は重軽傷者のみ)大きな事故があった。

多摩川越しに登戸駅方向を見る。登戸側には踏切はなかったので、今回はここまでとなる。

おまけで和泉多摩川駅西口改札の上にいた子ツバメ。巣立ち間近というところか。