東上1号~8号踏切
OpenStreetMapで
東武東上線の始発駅である池袋から、2駅目の下板橋までを見る。
東武鉄道の踏切は、起点から路線別に通し番号が付けられているので、東武東上線は「東上○号」踏切となる。
※踏切にある表示では「東 第○号踏切道」と書かれている。資料によっては「東上本線 第○号踏切道」と書かれているものもある。当サイトでは便宜上「東上○号」の表記で進めていくのでご了承されたい。
なお、東京都公文書館で大正3年(1914年)東上鉄道起案の「道路及河溝工事施設(巣鴨村地内工事施設箇所表)」(以下では記載された番号を「巣鴨村○号」とするが、この番号は踏切以外の暗渠、架道橋などにも付けられている)を入手し、開業当時の踏切位置がそこに記載されていたので位置関係を確認しながら改めて見ていくこととした(哩程はヤードポンド法、東上線は旧下板橋駅起点のはずだがゼロマイルは東上13号踏切東側と推定され、そこから池袋方は逆順で書かれている)。哩程には記載の誤りもあるようで位置は推定するしかないが、図面(巣鴨村地内線路平面図)が添付されているためそれとも付き合わせてみると番号のついていない踏切の記載が少なくとも8箇所見つかった。そちらも再訪してみよう。
(参考)ヤードポンド法での表記:哩(マイル)=約1.609km、鎖(チェーン)=約20.12m(1/80哩)、節(リンク)=約20.12cm(1/100鎖)。
西側から東上1号踏切跡(巣鴨村31号に該当と推定、哩程1哩34鎖=約2,292m)を見る。左側の煙突は豊島清掃工場。
写真正面から左に上がっていくのが池袋大橋で、その袂あたりが元は踏切だったものと思われる。貨物線(湘南新宿ライン)を橋で越えた向こうにあった旧国鉄の踏切は第二鎌倉踏切と名付けられており、東上1号踏切と合わせて通称池袋大踏切と呼ばれていたという。工事施設箇所表には欄外に鎌倉往還との追記があるが、鎌倉街道中道は都電鬼子母神前駅付近を北に抜けて山手線の宮仲橋(旧第一鎌倉踏切)あたりを通っており、池袋駅には来ていないとされる。
この写真は2024/3/16撮影。
旧第二鎌倉踏切の東側は池袋駅前公園になっている。
昭和41年(1966年)に池袋大橋が完成したことにより、東上1号踏切と第二鎌倉踏切は廃止されている。
ここからの写真は2011/10/22撮影。
上の写真で左端に写っているのが池袋水天宮。昭和3年(1918年)に蠣殻町の水天宮から分社したものらしい。
しかし、周辺はなぜか猫だらけでさながら猫天宮であった。
豊島清掃工場の煙突(高さ210m)を見るたびに軌道エレベーターに見えてしかたがないので、それっぽくしてみた(をい)。
実際には高緯度の日本で軌道エレベーターは作れないと思われる(苦笑)。
※この写真は合成です。
という冗談はさておきそこから北へ進んでいったところ、写真左奥の突き当たりが長汐病院の裏手にある番号のない廃踏切(巣鴨村28号と推定、哩程1哩21鎖30節=約2,037m)。
すぐ南側の道は東上鉄道の線路予定地上を通っていた(巣鴨村29号と推定)が、こちらは踏切にならなかった。線路西側に付け替え道路が作られたようだがそれも現存しておらず、そちらも行き止まりの道が残っている。
ここからの写真は2024/3/16撮影。
川越街道のおそらく南側(写真右側)には巣鴨村27号(哩程1哩14鎖30節=約1,896m)と推定される踏切があった。工事施設箇所表には欄外に板橋道という追記があり、川越街道(当時は大山駅から板橋区役所方向へ向かっていた)ではなく板橋間道(いたばしかんどう、板橋区役所から東上9号踏切を通って南下する道)の踏切だったようだ。
板橋間道は板橋区立中央図書館所蔵の「いたばしの古道」(板橋区教育委員会事務局社会教育課, 1983)によれば、旧中山道と王子新道が交差する旧中山道仲宿交差点から板橋区役所の裏を南へ向かって東上9号踏切を渡り、写真うしろにある池袋本町一丁目児童遊園で現在の川越街道に合流して大塚辻町(現在の新大塚駅付近)までの東京府道で、六ツ又陸橋のところにあった山手線の踏切名は板橋間道踏切という名前であった。
ところで、この日は写真に写っている池袋歩道橋を渡るつもりだったのだが、補修工事のため2024年1月から通行止めになっており、北側に渡るのに往復450mほど遠回りする羽目になった。
川越街道が東武東上線と埼京線を渡る富士見橋西端から富士見橋下保管所へ下る道を見たところ。写真のオレンジ色で塗ったあたりに巣鴨町25号(1哩10鎖70節=約1,824m)と推定される踏切があったようだ。渡った向こうには行き止まりの道も残っている。
保管所のすぐ北側、手前に残る堀之内人道橋跡から谷端川支流跡の道路を巣鴨村24号(哩程1哩8鎖10節=約1,771m)と推定される踏切の方向へ見たところ。この場所は下板橋駅東側で谷端川(やばたがわ)に合流していた二つの支流のうち西側の流れで、もともとは水路が線路の向こうから流れてきていた。
堀之内人道橋は昭和4年(1929年)から平成22年(2010年)まで東武東上線と旧国鉄池袋電車区を跨いでいた歩行者専用の跨線橋で、写真中央の住宅手前に階段があった。電車の撮影スポットとして人気だったようだが、老朽化のため更新されず閉鎖、解体された。代替の通路としてはかなり北へ進んだ北池袋駅北側の東上3号踏切脇の地下道が指定されている。
一方、写真右側の道路が谷端川支流の水路だったところで、突き当たって道路が南に折れる部分を踏切が直進していたらしい。暗渠の方は巣鴨村23号(土管埋設)として哩程1哩7鎖90節=約1,767mに記載があるので、踏切北側を並走していたのだろう。
そこからにすぐ北側の道には東側支流の暗渠(巣鴨村21号と推定、土管埋設と記載されている)が通っていた水路敷が残っているが、ここは踏切ではなかった。
線路東側へ回り込んで堀之内人道橋の階段が降りてきたあたりを見る。写真右側の建物あたりに階段があったと思われるが、こちらは痕跡が残っていない。
写真奥に見える石垣のあたりに暗渠があったらしい。
線路西側に戻って、さらに北側の廃踏切(巣鴨村20号と推定、哩程1哩3鎖70節=約1,683m)は水路敷の北側、保育園の脇にある園庭として使われている部分にあったようだ。
ここも東側は車両基地になっており痕跡はない。おそらくは上池袋さくら公園中央付近に突き当たっている道路につながっていたのではないかと思われる。
北池袋駅南側にある現役の東上2号踏切(巣鴨村19号と推定、哩程79鎖10節=約1,591mだがこの哩程では北池袋駅構内となってしまうため、実際の位置とはずれがあると思われる)。歩行者専用の踏切となっている。
右奥はJRの池袋運転区がある。
ここからの写真は2011/10/22撮影。
北池袋駅に停車中の普通志木行。TJライナーの車両で運行されていた。
この踏切、東側はJR東日本の埼京線(赤羽線)が通っており、反対側から見ると堀之内踏切となっている。東武の駅も、戦前は堀之内駅だったそうだ。
踏切警標の塗り分け方が東武とJRで異なっているのがわかるだろうか。警報機の音も異なるので、なんだか不思議な感じがする。
堀之内踏切側はかなりの段差があり、階段が付いている。
北池袋駅北側の東上3号踏切(巣鴨村18号と推定、哩程76鎖5節=約1,529m)。西向きの一方通行。写真右端には地下道の入り口が写っている。
ここもJRと共用で、東側は赤羽線 第一雲雀ケ谷(ひばりがや)踏切となっている。
東武とJRが分かれる場所にある東上4号踏切(巣鴨村17号と推定、哩程71鎖5節=約1,429m)。
写真の後ろ側にはJRの第二雲雀ケ丘踏切がある。
東上4号のすぐ北側にある東上5号踏切(巣鴨村16号と推定、哩程69鎖40節=約1,396m)は歩行者専用。東上4号と5号は今昔マップなどの古地図を見ても南北に並んで記載されている。
東上線が大きく西へカーブした先にある突き当たりの道が廃踏切(巣鴨村15号と推定、哩程63鎖80節=約1,283m)であったと思われる。北側は道路と線路の間が住宅地になっており、痕跡は残っていない。
この写真は2024/3/16撮影。
下板橋駅東側の東上6号踏切(巣鴨村第14号と推定、哩程62鎖30節=約1,253m)。踏切の南側はかなりの下り坂になっている。
ここからの写真は2011/10/22撮影。
路地の奥は行き止まりになっていた。しかし、柵の向こうにまだ道がある。
突き当たりの方は巣鴨村11号(哩程59鎖60節=約1,198m)があったものと思われる。
柵の向こうは養生シートが敷かれた道になっていた。行き着いた先がおそらくは東上7号踏切の跡と思われる。
同じく線路南側から東上7号踏切があったらしき場所を見る。
フェンスのある場所はかつて野球のブルペンのようになっていた。
谷端川支流の探索で再訪した時の写真。上の写真で空き地になっていた場所は、電車の見える公園として整備されていた。
ここからの写真は2017/11/26撮影。
北側から東上7号踏切跡へ向かう道。手前にある三の橋は欄干だけで、谷端川は暗渠になっている。
電車の見える公園にあるキャッチボール場(かつてのプルペン状の囲いがあったあたり)の西側にある藪の中のフェンスがあたりが東上7号踏切の跡ではないかと思われる。ここから東に向かって巣鴨村9号(哩程58鎖60節=約1,178m)と推定される踏切が別に存在し、
昭和22年(1947年)空中写真でも確認できる東上7号は土管埋設を挟んで巣鴨村7号(哩程57鎖5節=約1,147m)であったと推定される。
ここからの写真は2024/3/16撮影。
公園が西側に少し張り出した部分の端に巣鴨村5号(哩程51鎖80節=約1,042m)があったのではと推定される。線路北側に道路はないが、開業時にはこのあたりまが駅の池袋方先端だったのだろう。
下板橋駅を西側から見たところ。跨線橋のあるあたりに巣鴨村4号(哩程50鎖30節=約1,011m)と推定される踏切があったことになっているのだが、位置的には構内踏切だったのだろうか。現在も下板橋駅は下りにしか駅舎がなく、上りは臨時改札だけになっている。
下板橋駅西側の東上8号踏切(巣鴨村第2号と推定、哩程0哩48鎖5節=966m)。踏切西側には谷端川橋梁(巣鴨村1号)がある。
東武鉄道は奥に見える留置線側に駅舎を移動(東上鉄道の開業当時はここが始発駅であり、駅舎は留置線側にあったそうだ)し、その上に大学病院を誘致する計画(平成20年発表のメディカル・トラポリス構想)を立てていたのだが、大学病院側の経営難もあり計画は平成28年(2016年)に中止されたという話が板橋区議会の議事録に記載されているとのこと。
この写真は2011/10/22撮影。
その留置線にあった旧下板橋駅には、東武東上線(旧東上鉄道)のゼロキロポストがあり、東上線はここを起点に距離が記載されている。写真で下り線を行く51001Fの左脇に0キロポストがあるのが見える。
もともと東上線は小石川区大塚辻町(現在の新大塚駅近辺)からの免許を大正元年に取得しており、池袋から下板橋の間は軽便鉄道の支線としての別免許であった。二つの免許がわかれる地点がゼロキロだったということになる。線路平面図にはこの地点で免許が異なることを示すと思われる切り替え線(線路の線が南北にずれてつなげられている)が描かれている。
なお、東上9号〜21号踏切のページで説明する(準備中)が、大正3年時点でのゼロマイルはこのゼロキロポストの位置ではなく、東上13号踏切東側にある。
ここからの写真は2024/3/16撮影。
留置線北側の道路には、大正8年(1919年)に上板橋駅に建てられた東上鉄道記念碑が移設されて残っている。東上鉄道は大正9年に東武鉄道に合併されて現在に至るが、伊勢崎線など本体とは自社線路が繋がっていない。