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石神井川周辺の水路敷群(愛宕神社〜光和小学校)

OpenStreetMapで今回のコースを見る。
高野台という地名は古いものではなく、かつては谷原(やわら)町二丁目、さらに昔は石神井村谷原在家の一部であった。
1965年(昭和40年)4月1日の住居表示で生まれたのが高野台で、三丁目にある長命寺の山号「東高野山」に由来するという。
足立区に「高野町(こうやちょう)」があったため、同音を避けて「たかのだい」としたが、西武国分寺線に同音の「鷹の台」があって、ややこしいことは変わらない。
長命寺があるあたりは確かに台地の上なのだが、石神井川寄りの地域は谷間にあるのに「高野台」という不思議な状態になってしまった。
高野台という地名は古いものではなく、かつては谷原(やわら)町二丁目、さらに昔は石神井村谷原在家の一部であった。
1965年(昭和40年)4月1日の住居表示で生まれたのが高野台で、三丁目にある長命寺の山号「東高野山」に由来するという。
足立区に「高野町(こうやちょう)」があったため、同音を避けて「たかのだい」としたが、西武国分寺線に同音の「鷹の台」があって、ややこしいことは変わらない。
長命寺があるあたりは確かに台地の上なのだが、石神井川寄りの地域は谷間にあるのに「高野台」という不思議な状態になってしまった。

水路敷探索のスタートは目白通りと笹目通りが交差する「谷原交差点」の少し東側にある、旧道の入り口から南へ向かう。
昔はオリンピック道路とも呼ばれた笹目通りができる前は、こちらが石神井を南北に通る道だったようだ。北側は成増飛行場が出来た時に寸断されてしまい、現在では光が丘団地に埋没してしまっている。
光が丘の歴史同好会がまとめた「光が丘 昭和時代の地図帳」(2008年発行)によれば、川越街道から千川通りへ向かって南下する「長命寺道」と呼ばれた道だったらしい。
今回の写真は特に断りのない限り2012/11/10撮影。
昔はオリンピック道路とも呼ばれた笹目通りができる前は、こちらが石神井を南北に通る道だったようだ。北側は成増飛行場が出来た時に寸断されてしまい、現在では光が丘団地に埋没してしまっている。
光が丘の歴史同好会がまとめた「光が丘 昭和時代の地図帳」(2008年発行)によれば、川越街道から千川通りへ向かって南下する「長命寺道」と呼ばれた道だったらしい。
今回の写真は特に断りのない限り2012/11/10撮影。

上の写真で右側に写っているマンションを過ぎるとすぐ、道路の右側になにやら古い階段を発見。

階段を上っていくと、小高い丘の上に鎮座していたのは愛宕神社(右側には稲荷神社もある)。
神社といっても、社名を示す御柱があるだけの簡素な造り。裏側にあった碑銘によれば、大正12年(1923年)建立とある。
神社といっても、社名を示す御柱があるだけの簡素な造り。裏側にあった碑銘によれば、大正12年(1923年)建立とある。

さらに少し進んで左側、写真中央にあるちょっとした林は、市杵島神社というこれまた小ぢんまりとした祠のある場所。
古い地図で見ると石神井川の支流らしき水路の起点になっているようだ。
こちらの探索はまたの機会としよう。
古い地図で見ると石神井川の支流らしき水路の起点になっているようだ。
こちらの探索はまたの機会としよう。

その先、高野台ひがし公園のあたりで旧道は谷底となり、上りに転ずる。
かつては水路がここまで流れてきて、写真左側で崖下を流れていた水路と合流していたという話もあるようだ。
かつては水路がここまで流れてきて、写真左側で崖下を流れていた水路と合流していたという話もあるようだ。

公園を過ぎて交差点の左を見ると、家の間に水路敷を示す水色の塗装を発見!(写真矢印部分)
この水路とここで合流していた可能性があるが、今回のルートとは別の水路なので、紹介は別の機会ということで。
この水路とここで合流していた可能性があるが、今回のルートとは別の水路なので、紹介は別の機会ということで。

まっすぐ進むと、坂が徐々に急になってくる。
奥に笹目通りとの合流点が見えてきたところ、写真奥のマンションの手間に右へ分岐する道路が、今回の探索でたどる水路敷の末端部だ。
奥に笹目通りとの合流点が見えてきたところ、写真奥のマンションの手間に右へ分岐する道路が、今回の探索でたどる水路敷の末端部だ。

長い前振りを経てようやくたどり着いた水路敷の末端部。道路右側に蓋暗渠を舗装したと思しき歩道が現れる。
ここから水路は今歩いてきた坂を下って公園に向かっていたのではないかと推測されるが、痕跡は残っていなかった。
この路地はすぐに写真奥で笹目通りと交差する。
ここから水路は今歩いてきた坂を下って公園に向かっていたのではないかと推測されるが、痕跡は残っていなかった。
この路地はすぐに写真奥で笹目通りと交差する。

笹目通り側から路地を見る。

環状八号線と南田中で別れて笹目橋へ向かう笹目通りを横断歩道で渡る。
笹目通りは終点あたりが戸田市下笹目の飛び地になっているが、新大宮バイバスがあるため笹目通りはそこまで行っていないらしい。
笹目通りは終点あたりが戸田市下笹目の飛び地になっているが、新大宮バイバスがあるため笹目通りはそこまで行っていないらしい。

笹目通りを西側へ渡って振り返る。
路地の左に不自然な段差と階段があるが、これが水路の痕跡。どうやら笹目通りの方が若干盛り土をして作られたらしい。
路地の左に不自然な段差と階段があるが、これが水路の痕跡。どうやら笹目通りの方が若干盛り土をして作られたらしい。

水路敷はすぐに南西に転進し、ここからしばらく水路敷はユリノキ並木となって続く。
ただし、古い地図を見るともともとの水路はもうすこし南に向かっていたように見える。宅地化されるときに流路が変更されたようだ。
ただし、古い地図を見るともともとの水路はもうすこし南に向かっていたように見える。宅地化されるときに流路が変更されたようだ。

ユリノキ並木をしばらく進むと、左側に広がるのが高野台4丁目区民農園。
かつては、水路の両側にこのような景色が広がっていたのだろう。
かつては、水路の両側にこのような景色が広がっていたのだろう。

区民農園のすぐ先でユリノキ並木が終わり、水路敷の歩道は道路左側から右側に移る。
国土地理院Webサイトから昭和22年(1947年)空中写真(陸軍撮影)を見る。
東側と西側のずれは現在より大きかったようだ。
東側と西側のずれは現在より大きかったようだ。

交差点から南側を見る。上の地図で水路が道路に合流してくるのが矢印のあたり。
そこから手前はやや道路が広くなっており、かつては水路だったことが想像される。
そこから手前はやや道路が広くなっており、かつては水路だったことが想像される。

次の交差点には大きな木が一本立っていた。
水路敷は、このあたりでやや低地になっているところを進んでいたようだ。
水路敷は、このあたりでやや低地になっているところを進んでいたようだ。

高野台児童公園の向かい、水路敷北側の畑にあった謎の溝。
かつては用水路の支流だったのかもしれない。
かつては用水路の支流だったのかもしれない。

かつてはこのあたりにも並木があったようだが、現在残るのはこの大木のみ。

伐採された街路樹の切り株だけが残る。

高野台三丁目と石神井町二丁目の境目にある五叉路で、水路敷は北にターン。
水路は病院の看板の左側の道を進む。
水路は病院の看板の左側の道を進む。

水路は道路の左側に沿いながら、富士街道を目指す。

高野台三丁目交差点で富士街道を超える。

2012/11/17に改めて高野台三丁目交差点を富士街道西側から見る。
交差点が谷間のスリバチ状地形になっているのがわかる。水路はこのあたりの谷あいを進んでいたのだろう。
交差点が谷間のスリバチ状地形になっているのがわかる。水路はこのあたりの谷あいを進んでいたのだろう。

アパートの間を抜けて北へ。

むくのき公園を過ぎ、補助132号線側から公園を見ると、駐車場の奥にわずかに水路敷らしき痕跡が見つかった。

痕跡を見た場所から補助132号線を振り返る。左にあるのが光和小学校。補助132号線はこのあたりで最も土地が低くなっている。
水路は道路を渡って小学校の敷地内へ向かっていたはずだが、ここから先は完全に痕跡がなくなっている。 周辺の道路に比べ、小学校の敷地が降車の南側でなぜか低くなっているあたり、水路があったことを示しているのかもしれない。小学校のあたりは湿地だったということなので、水源となっていたのかもしれない。
水路は道路を渡って小学校の敷地内へ向かっていたはずだが、ここから先は完全に痕跡がなくなっている。 周辺の道路に比べ、小学校の敷地が降車の南側でなぜか低くなっているあたり、水路があったことを示しているのかもしれない。小学校のあたりは湿地だったということなので、水源となっていたのかもしれない。

光和小学校の周りを回り込む形で富士街道へ戻る。
写真中央のあたりで、富士街道がいったん谷間になっていて、地形図でも、このあたりが谷頭だったことが推測される。
水路の上流端もこのあたりとされるが、痕跡はまったく残されていない。
この水路は田柄用水が石神井一里塚で北上するところから別れ、最後は石神井川の谷原三之橋まで流れていたという。田柄用水が増水したときに水を逃がしたのだという話もあるようだ。
写真中央のあたりで、富士街道がいったん谷間になっていて、地形図でも、このあたりが谷頭だったことが推測される。
水路の上流端もこのあたりとされるが、痕跡はまったく残されていない。
この水路は田柄用水が石神井一里塚で北上するところから別れ、最後は石神井川の谷原三之橋まで流れていたという。田柄用水が増水したときに水を逃がしたのだという話もあるようだ。