通りに戻ってすぐ、西側に浄土宗専称院がある。ここは地蔵寺ともいい、門前には鎌倉時代に豊島七仏と呼ばれる豊島清光が行基に作らせたという伝説が残る7つの地蔵尊のひとつが昭和12年(1937年)ごろ移された地蔵堂が建っている。
地蔵堂からさらに南へすすんだところにあるのが轡(くつわ)神社。江戸時代には轡権現と言われ、徳川家康がこの地に残していった轡(ハミ)を祀ったことに由来するという説がある。百日咳に霊験あらたかであったという。
さらにその先、サミット板橋弥生町店向かいには青面金剛庚申塔が建っていた(この写真は上流側から)。宝暦6年(1756年)造立という。
川越街道の日大病院入口交差点手前の交差点あたりが谷頭のようだが、上流端がどこなのかはよくわからない。
鎌倉街道は写真右側の2車線道路で、千川駅の方へ向かっていくようだ。
続いては、弥生小学校から中板橋駅を抜けて下ってくる流れを見て行こう。向屋敷橋の東側に木製の車止めがある路地からスタート。
すぐに石垣に突き当たるが、水路は東側から流れてきていたようだ。
石垣の上には福泉寺があり、その脇に延命子育地蔵が祀られている(この写真は上流側から)。延命子育地蔵は延享3年(1746年)造立で、昭和17年(1942年)に福泉寺とともにこの地へ移ってきたという。その福泉寺は寛保年間(1741〜44年)に埼玉県坂戸市に創建されたと伝わる。
福泉寺の裏側には、戦前のころ
遊泉園というプールがあったというが、現在痕跡は残っていない。
泉繋がりというわけではないが、上流方向には稲垣浴泉という浴場があり、その手前で水路は右の道から出てきていたようだ。
浴場の手前を曲がってゆるい坂を上ったところにある中板橋児童遊園から中板橋駅方向をみたところ。黄色いビルの左側に水路があったようだが、こちら側ではその痕跡は失われている。
中板橋側に回り込んで下流方向をみたところ。黄色いビルの方向から細い路地が伸びてきているのがわかる。
中板橋駅方向をみると、マンションの間にやたらとマンホールがある水路敷が残されている。
水路敷はすぐに直角に曲がり、中板橋駅へ向かう。
中板橋駅の跨線橋のところに出てきた。
中板橋駅側から下流方向を見る。
中板橋駅構内には水路らしきものは残されていない。南口へ回って街区案内図を見てみると、駅の南側では水路敷が弥生町と仲町の境になっていることに気がついた。
その町境の水路敷は、商店の間に蓋暗渠として残されていた。