和光市ガイドマップで
寺前橋から熊野神社までの地図を見る。
白子川の両岸に湧水から来る流れや、旧流路らしきものがあるので、いくつかたどって見たい。
東武東上線高架橋の下にある寺前橋。北側へ向かう改修された白子川と旧白子川が分岐する場所にあたる。写真左側に見える排水口は、橋名の由来にもなっている地福寺の池から流れてきた暗渠であろう。
ここからの写真は2018/1/21撮影。
寺前橋で白子川と別れ、高島平方向へ向かう旧白子川は、この辺りでは児童遊園になっている。
寺前橋の南側、右岸の道路を進んで行くと、ちょうど都県境に当たる場所にあった微妙なトタン貼りの壁。
トタン板は都県境に沿って反対側にある工場の入り口まで続いていた。
工場の先で道路は白子川に突き当たっている。ここで流路が白子川から別れていたようにも見えるが、古地図では、写真左側の道から水路が来ていたようにも見える。
左側の道は一見行き止まりに見えるが…
突き当たりの右側、民家の軒先に水路敷と思しき空間が旧川越街道まで繋がっていた。古地図では向かい側のマンション敷地から水路が流れてきていたように描かれているが、痕跡は見当たらない。
ところで、旧川越街道に出たあたりに清水かつら生家跡地という史跡表示が地図にはあるのだが、現地にはそれらしき標識が見当たらずよくわからなかった。
清水かつらは深川生まれの男性詩人で、関東大震災で焼け出された跡この地に移り住んだのだそうだ。
旧川越街道に出て白子川へ、街道が川を超える場所にかかっているのが白子橋。橋の欄干には清水かつらの詩が彫られている。
白子橋の北側、さきほどの工場から進んでいく道が白子川に突き当たったところの川向こう、左岸側にも水路敷があった。
突き当たりの左側に和光市役所の看板が置かれている。
看板の向こう側には結構な流量のある開渠が流れてきていた。
開渠の部分には立ち入れないので北側から大きく回り込んで見る。途中、小さな祠が祀られていた。
白子川に沿って南北に通る白子宿通りに出た。写真の白子宿地域センターの敷地にもかつては湧き水があったという。
白子宿は川越街道の宿場として、天正15年(1587年)に後北条氏が開いたという。
旧川越街道に戻って、白子橋の西側。さきほどの開渠は床屋の脇から流れていっているようだ。
道路元標から南へ、白子宿通り沿いを水路は上っていく。旧川越街道もここで南に曲がり、白子川が作った崖線を登るために大坂へ向かう。かつてはこの辺りに宿場町が形成されていたのだろう。