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品川道踏切〜小竹踏切

OpenStreetMapで大井町駅から大森駅までを見る。
東海道本線(東海道線)は東京から大井町までの間に踏切はないが、大井町から川崎方向に向かっては京浜東北線と並走しながら複数の踏切が残っている。
今回は大井町駅から多摩川を渡る手前まで向かって見ていくことにしよう。
東海道本線(東海道線)は東京から大井町までの間に踏切はないが、大井町から川崎方向に向かっては京浜東北線と並走しながら複数の踏切が残っている。
今回は大井町駅から多摩川を渡る手前まで向かって見ていくことにしよう。

東海道線最初の踏切(東海道線No.1)は大井町駅南側にある品川道(しながわみち)踏切。車両通行止めとなっている。
この写真は2026/10/12撮影。
この写真は2026/10/12撮影。

踏切脇にある跨線人道橋から見たところ。踏切警標にツタが巻きついてしまっている。

川崎方向へ進んで行ったところにある関道地下道。
昭和40年(1965年)ごろまでは踏切であったようで、国土地理院Webサイトの昭和22年空中写真(米軍撮影)では踏切になっているのが見える。
昭和40年(1965年)ごろまでは踏切であったようで、国土地理院Webサイトの昭和22年空中写真(米軍撮影)では踏切になっているのが見える。

次の鹿島谷(かしまやつ)ガードは下から架道橋であった。
高さ制限が2.4mしかなく大型車の通行は難しい。JRは踏切や架道橋の名称を周辺の旧地名や旧道から取っているので、住居表示などで失われた古い地名が保存されている場所が多い。鹿島谷は荏原郡大井町の小字であった。
高さ制限が2.4mしかなく大型車の通行は難しい。JRは踏切や架道橋の名称を周辺の旧地名や旧道から取っているので、住居表示などで失われた古い地名が保存されている場所が多い。鹿島谷は荏原郡大井町の小字であった。

鹿島谷ガードの西側、マンション脇に残っている廃道の奥に見える坂道が昭和22年の空中写真では踏切だった跡。
この写真は2026/10/27撮影。
この写真は2026/10/27撮影。

こちらは制限高3.6mで大型車も通行できる大佛ガード。「だいぶつ」と読むのかについては異論もあるようで、名称の元になったと思われる帰命山如来寺養玉院の大仏は「大井のおおぼとけ」と呼ばれている。
ちなみに如来寺は品鶴線の大仏架道橋の近くにある。
また、写真右手前には九頭竜権現を祀る大井の水神社がある。
ここからの写真は2026/10/12撮影。
ちなみに如来寺は品鶴線の大仏架道橋の近くにある。
また、写真右手前には九頭竜権現を祀る大井の水神社がある。
ここからの写真は2026/10/12撮影。

大森貝塚の北側を通る桐畑(きりはた)地下道は平成7年(1995年)に廃止された桐畑踏切(東海道線No.2)の位置にある。
地下道周辺には大森貝塚のイメージした壁画などが描かれており、地下道内には貝塚の復元模型も展示されている。線路南側の地下道脇には小さな湧水もある。
地下道周辺には大森貝塚のイメージした壁画などが描かれており、地下道内には貝塚の復元模型も展示されている。線路南側の地下道脇には小さな湧水もある。

大森貝塚の跡地は大森貝塚遺跡庭園として開放されている。
腕足類(貝に似ている別種)の研究で来日したアメリカ人エドワード・シルベスター・モース博士が横浜から東京へ向かう車窓から大森駅近くの崖に貝層が露頭しているのを発見し、発掘を行ったのが縄文時代の貝塚であった。
腕足類(貝に似ている別種)の研究で来日したアメリカ人エドワード・シルベスター・モース博士が横浜から東京へ向かう車窓から大森駅近くの崖に貝層が露頭しているのを発見し、発掘を行ったのが縄文時代の貝塚であった。

大森駅手前にある山王道跨線人道橋も昭和40年(1965年)までは踏切であった。


大森駅南側にある新井道ガード(新井道架道橋)は明治43年まで踏切だったそうだ。

新井道から南へ進んで入新井西公園。公園内にはきれいに磨かれたC5766が保存されている。

階段を上って入る学校踏切(東海道線No.3)。名前は東側にある大田区立入新井第一小学校に由来するのだろうか。

次の山谷道(さんやみち)踏切(東海道線No.4)は東向き一方通行となっている。

環状七号線の下を通り抜けて新田(しんでん)踏切(東海道線No.5)へ。ここは西向き一方通行になっている。
今では想像もつかないが、明治時代にはこのあたりが田んぼであったということだろう。
今では想像もつかないが、明治時代にはこのあたりが田んぼであったということだろう。

高さ制限1.7mとかつてはタクシーの行灯がぶつかって通れなかったという作尻(さくじり)ガード。水路を暗渠化して通した道路で、東向き一方通行だが平日朝と日中車両通行止めとなる。

内川を渡る新井宿第1号橋梁。
写真左側のフェンスで封鎖されている部分は、地元の篤志家が私設で通した通路があり、令和4年(2022年)3月まで通り抜けることができたというが高さ1.6mほどしかなく大人は腰をかがめて通っていたそうだ。
写真左側のフェンスで封鎖されている部分は、地元の篤志家が私設で通した通路があり、令和4年(2022年)3月まで通り抜けることができたというが高さ1.6mほどしかなく大人は腰をかがめて通っていたそうだ。

内川の南側にある堤方(つつみかた)踏切(東海道線No.6)。

次の新井宿踏切(東海道線No.7)も階段で線路に上るが、そんなことより踏切手前の上に「一旦止まれ見よ右左」と大書きされたゲートが目立つ。

京急の梅屋敷駅に至る梅屋敷通りが渡る上仲(かみなか)踏切(東海道線No.8)は西向き一方通行。

OpenStreetMapで蒲田駅近辺を見る。
蒲田駅の両側にある廃線跡も見に行ってみよう。
参考資料:
・国土地理院Webサイト「昭和22年空中写真」(米軍撮影, 1949)
・素浪人・サンダルニャーゴの日々「東京回想・陸橋(鉄道)」
蒲田駅の両側にある廃線跡も見に行ってみよう。
参考資料:
・国土地理院Webサイト「昭和22年空中写真」(米軍撮影, 1949)
・素浪人・サンダルニャーゴの日々「東京回想・陸橋(鉄道)」

呑川のすぐ東側にある外川田(そとかわだ)跨線人道橋も昭和44年(1969年)の架橋までは踏切だったと思われる。

呑川を渡って蒲田駅北側にある池上地下道へ。女塚踏切とも呼ばれていた池上踏切は昭和39年(1964年)に廃止され、昭和41年に池上架道橋をくぐる池上地下道が完成している。

ところで地下道西側の入口にある看板はなぜか「池下地下道」になっているのだが…
(注)看板上部の壁の落書きがあまりに酷かったため、PhotoshopのAI編集機能(Gemini 3.1 / Nano Banana 2)を使用して消してあります。
(注)看板上部の壁の落書きがあまりに酷かったため、PhotoshopのAI編集機能(Gemini 3.1 / Nano Banana 2)を使用して消してあります。

蒲田駅南側を通る環状八号線の蒲田陸橋(昭和36年=1961年完成)に上って北側から線路を見たところ。
陸橋北側の突き当たりとなっている道の先に開かずの踏切として有名だった下田道踏切があった。
ここからの写真は2026/11/3撮影。
陸橋北側の突き当たりとなっている道の先に開かずの踏切として有名だった下田道踏切があった。
ここからの写真は2026/11/3撮影。

下田道踏切の脇から京急空港線の糀谷駅に向かって伸びていたのが終戦後に接収されていた羽田空港へ物資を輸送するために敷設された連合軍羽田空港専用線で、写真左奥に見える大田区役所の前を斜めに横切り、大きく右(東)へカーブして京急空港線の方向へ向かっていた。
専用線の最初の踏切は右の道路上ではなく、かつてもう少し左側を通っていた道路にあった。
専用線の最初の踏切は右の道路上ではなく、かつてもう少し左側を通っていた道路にあった。

大田区役所の前から東側を見たところ。専用線は正面の道路を右手前から左のコンビニ奥の方法へ斜めに通っていて、このあたりに二番目の踏切があった。

カーブした専用線は区民ホール入口交差点付近を東へ進んでいくが、このあたりは貨物ヤードになっていたため踏切はなかった。

そのまま貨物線跡の道路を京急蒲田駅方向へ進んでいく。
三つ目の踏切は写真左に見える駐車場付近にあったようだが、線路を渡っていた道路は廃道となっていて痕跡は残っていない。
三つ目の踏切は写真左に見える駐車場付近にあったようだが、線路を渡っていた道路は廃道となっていて痕跡は残っていない。

京急蒲田駅前にある妙安寺の前を横切る歩道の先に四つ目の踏切があった。

京急本線のくぐって第一京浜へ。駅南側の歩道橋付近を専用線が通っていて、五つ目の踏切があった。
専用線はここから写真左にある大田区産業プラザPiOの北側(手前側)に沿って進んでいき、糀谷駅手前で京急空港線(当時は穴守線)と並走する形になっていた。
この写真は2026/10/27撮影。
専用線はここから写真左にある大田区産業プラザPiOの北側(手前側)に沿って進んでいき、糀谷駅手前で京急空港線(当時は穴守線)と並走する形になっていた。
この写真は2026/10/27撮影。

蒲田陸橋に戻って下をくぐり、次の御園踏切(東海道線No.9)を南側から見たところ。
御園踏切は実は東海道本線上にはなく、そこから西へ分岐していくJR東日本品川事業本部大田乗務ベース(旧蒲田電車区、大田運輸区、品川統括センター乗務ユニット)に向かう線路を渡っている。
ここからの写真は2026/10/13撮影。
御園踏切は実は東海道本線上にはなく、そこから西へ分岐していくJR東日本品川事業本部大田乗務ベース(旧蒲田電車区、大田運輸区、品川統括センター乗務ユニット)に向かう線路を渡っている。
ここからの写真は2026/10/13撮影。

踏切から旧蒲田電車区を見る。旧蒲田電車区は京浜東北線の車両基地となっており、平成31年(2019年)に電車庫の一部などを解体して総合訓練センター蒲田トレーニングセンターが設置されている。
旧電車区の南寄りにはかつて多摩川沿いにあった矢口発電所に石炭を輸送していた専用線があって、現在もその跡が残っているのでこちらを見にいってみよう。
旧電車区の南寄りにはかつて多摩川沿いにあった矢口発電所に石炭を輸送していた専用線があって、現在もその跡が残っているのでこちらを見にいってみよう。

旧蒲田電車区の構内に設けられた訓練線(荏原線)の訓練駅(太田駅)に停車している訓練用のミニ車両。Bトレインショーティというか鉄コレポケットというか(笑)
ここからの写真は2026/11/3撮影。
ここからの写真は2026/11/3撮影。

訓練線の途中にある訓練用踏切。

訓練線終端部にある志茂田(しもだ)駅。
志茂田というのは付近の旧地名で、現在でも小学校などの名称に残っている。
志茂田というのは付近の旧地名で、現在でも小学校などの名称に残っている。

居並ぶE233系1000番台の前を横切る構内踏切。

留置線終端部の先、道路を渡った先に道塚南公園があり、そこがかつての専用線跡となっている。写真左に見える信号付近に最初の踏切があったと思われる。

公園内に残っている専用線の境界標(左下)。古い鉄道の境界標には「工」の字が彫られているものが多く、この境界標も公園側から見ると「工」の字が彫られている。これは明治時代の鉄道を管轄していた工部省の略称なのだそうだ。

公園中央部分を通る道路の先にある車輪を模した園名板。
これのある道路は昭和22年の空中写真を見る限り踏切ではなかったようだ。
これのある道路は昭和22年の空中写真を見る限り踏切ではなかったようだ。

道塚南公園(写真右)と道塚第三児童公園(写真左)の間にあった踏切跡を南側から見たところ。

道塚第三児童公園は線路っぽく舗装されているが、左に向かう分岐は実際の線路跡ではないようで左手前は行き止まりになっている。
写真奥にも踏切があった。
写真奥にも踏切があった。

次の古川児童公園との間にある道路は昭和22年の空中写真では水路であったようだ。

古川児童公園の西側道路(ここも踏切跡)に出た。
矢印部分に境界標が残っており、専用線は写真左奥へ向かう道路ではなく右寄りの住宅部分を通っていたようだ。
矢印部分に境界標が残っており、専用線は写真左奥へ向かう道路ではなく右寄りの住宅部分を通っていたようだ。

前の写真左側の路地を進んでいくとトミンハイム多摩川に突き当たるが、そこに矢口発電所があった。
境界標は写真左の学習塾の両側にあり、ちょうど学習塾の部分を専用線が通っていたことになる。
境界標は写真左の学習塾の両側にあり、ちょうど学習塾の部分を専用線が通っていたことになる。

矢口発電所跡に建つトミンハイム多摩川を見たところ。
矢口発電所は大正3年(1914年)に東京・横浜間の電車線に電力を供給するために建設されたが、大正12年(1923年)の関東大震災で大破してしまいそのまま大正15年(1926年)に廃止となってしまった。
専用線は発電所の北側、ちょうど写真中央を奥に向かう幅広い歩道の部分にあったようだ。
矢口発電所は大正3年(1914年)に東京・横浜間の電車線に電力を供給するために建設されたが、大正12年(1923年)の関東大震災で大破してしまいそのまま大正15年(1926年)に廃止となってしまった。
専用線は発電所の北側、ちょうど写真中央を奥に向かう幅広い歩道の部分にあったようだ。

歩道が終わった先に緑地が伸びていて、専用線はその先に向かっていたがこれ以上入っていくことはできない。

さて、ここからは再び東海道線に戻って川崎方面へ。旧蒲田電車区の脇を通り過ぎたところにある町谷(まちや)跨線人道橋も昭和50年(1975年)に架橋されるまでは踏切だったと思われる。
ここからの写真は2026/10/13撮影。
ここからの写真は2026/10/13撮影。

蒲田自動車教習所の前に工事用踏切のようなものがあるが、この位置に元から踏切があったわけではない。

教習所南側にある大倉踏切(東海道線No.10)。

西六郷公園の前にある仲町跨線人道橋も昭和47年の架橋までは踏切だったようだ。

京急本線雑色(ぞうしき)駅北側の商店街を西に向かったところにある雑色踏切(東海道線No.11)は線路西側からだと道路幅が踏切内の方が広くなっているため、踏切警標などが大きく路上に張り出している。

踏切東側には補助標識も取り付けられている。

踏切南側に宮前跨線人道橋が併設されている宮前踏切(東海道線No.12)。


六郷中学校の北側に線路に突き当たる路地があるが、ここに昭和22年の空中写真では踏切があった。
この写真は2026/10/27撮影。
この写真は2026/10/27撮影。

六郷中学校南側には八幡(やはた)踏切(東海道線No.13)がある。
ここからの写真は2026/10/13撮影。
ここからの写真は2026/10/13撮影。

八幡踏切西側の蒲田寄り遮断桿はなぜかやたらと短く、歩道部分だけにかかっている。
川崎寄りの遮断桿の方は相当長く、ギリギリ踏切全体をカバーできないのかもしれない。
川崎寄りの遮断桿の方は相当長く、ギリギリ踏切全体をカバーできないのかもしれない。

八幡踏切のすぐ南側にある小竹踏切(東海道線No.14)。八幡踏切が西向き一方通行、小竹踏切が東向き一方通行となっている。

小竹踏切から南へ進んでいくと高架下にトランクルームがあるが、昭和22年の空中写真ではこのあたりから東側に向かって斜めに渡る踏切が見える。現在は東側に道路が残っておらず、それらしい痕跡も見当たらない。
この写真は2026/10/27撮影。
この写真は2026/10/27撮影。

京急本線の六郷土手駅西側を通る第一高畑架道橋。昭和22年の空中写真ではここも踏切だったように見える。
この写真は2026/10/13撮影。
この写真は2026/10/13撮影。