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京急蒲田第1〜第13踏切

OpenStreetMapで京急蒲田駅周辺を見る。
京浜電気鉄道が旧川崎停留場(六郷橋、のち廃止)から大森停車場前停留場(廃止)まで延伸開業した際には、蒲田停留場の前後は併用軌道で蒲田停留場も東海道上にあった。
梅屋敷から雑色までの間は大正12年(1923年)に専用軌道化されたが、蒲田から羽田へ向かう穴守線(元空港線)の踏切が長らく第一京浜国道に残されることになった。空港線については機会を分けて見ていくことにして、今回は雑色駅に向かってやたらとたくさんある踏切を見ていくことにしよう。
なお、京浜急行電鉄の踏切は現在は「駅名+第○踏切」となっているが、参考資料に明治・大正期の古い踏切名称が記載されているものがあるので判明している範囲で地図中に括弧書きで付記しておくことにする。
踏切位置については専用軌道切り替え前に発行された大正11年の土地収用事業認定付属の平面図(残念ながら踏切名の記載がない)を参考としたため、専用線開通時に踏切として設置されなかった可能性がある場所も含まれていることをあらかじめお詫びしておく。
参考資料:
・国立国会図書館デジタルコレクション所蔵「京浜急行八十年史」(京浜急行電鉄株式会社社史編集班, 1980)
・東京都公文書館所蔵「土地収用事業認定(鉄道敷設)【位置図 変更線平面図】」(京浜電気鉄道, 1922)
・国土地理院Webサイト「旧1万地形図 蒲田」(大日本帝國陸地測量部, 1923)
・JTBキャンブックス「京急の駅 今昔・昭和の面影」(佐藤良介 / JTBパブリッシング, 2006)
・「京急全線 古地図さんぽ」(坂上正一 / フォト・パブリッシング, 2018)
京浜電気鉄道が旧川崎停留場(六郷橋、のち廃止)から大森停車場前停留場(廃止)まで延伸開業した際には、蒲田停留場の前後は併用軌道で蒲田停留場も東海道上にあった。
梅屋敷から雑色までの間は大正12年(1923年)に専用軌道化されたが、蒲田から羽田へ向かう穴守線(元空港線)の踏切が長らく第一京浜国道に残されることになった。空港線については機会を分けて見ていくことにして、今回は雑色駅に向かってやたらとたくさんある踏切を見ていくことにしよう。
なお、京浜急行電鉄の踏切は現在は「駅名+第○踏切」となっているが、参考資料に明治・大正期の古い踏切名称が記載されているものがあるので判明している範囲で地図中に括弧書きで付記しておくことにする。
踏切位置については専用軌道切り替え前に発行された大正11年の土地収用事業認定付属の平面図(残念ながら踏切名の記載がない)を参考としたため、専用線開通時に踏切として設置されなかった可能性がある場所も含まれていることをあらかじめお詫びしておく。
参考資料:
・国立国会図書館デジタルコレクション所蔵「京浜急行八十年史」(京浜急行電鉄株式会社社史編集班, 1980)
・東京都公文書館所蔵「土地収用事業認定(鉄道敷設)【位置図 変更線平面図】」(京浜電気鉄道, 1922)
・国土地理院Webサイト「旧1万地形図 蒲田」(大日本帝國陸地測量部, 1923)
・JTBキャンブックス「京急の駅 今昔・昭和の面影」(佐藤良介 / JTBパブリッシング, 2006)
・「京急全線 古地図さんぽ」(坂上正一 / フォト・パブリッシング, 2018)

京急蒲田駅東口から国道15号第一京浜国道を東京方面に見たところ。
写真手前あたりに開業時の蒲田停留場があったと思われるが、現在の京急蒲田駅バス停は空港線南側に造られたバスロータリーの方にある。
この写真は2026/5/16撮影。
写真手前あたりに開業時の蒲田停留場があったと思われるが、現在の京急蒲田駅バス停は空港線南側に造られたバスロータリーの方にある。
この写真は2026/5/16撮影。

京急蒲田第1踏切は12両編成対応で京急蒲田駅のホームを川崎方向へ延長するために平成7年(1995年)に地下道化され廃止されたが、現在は歩道橋の下に見える通路になっているようだ。
ここからの写真は2026/6/4撮影。
ここからの写真は2026/6/4撮影。

巷では蒲田要塞とも称される京急蒲田駅の全景。巨大な駅から空港線が飛び出してくる景色は昭和の未来都市イラストのようだ。
平和島駅から六郷土手駅までと、空港線の糀谷駅までをまとめて連続立体交差化した大規模な工事は平成24年(2012年)に完成を見た。
平和島駅から六郷土手駅までと、空港線の糀谷駅までをまとめて連続立体交差化した大規模な工事は平成24年(2012年)に完成を見た。

京急蒲田駅南側のバス通りが渡っていた京急蒲田第2踏切の跡。
ここからの写真は2026/5/16撮影。
ここからの写真は2026/5/16撮影。

第一京浜国道から斜めに京急本線に向かっている道の先にあった京急蒲田第3踏切は高架化以前に廃止されている。

西向き一方通行になっている京急蒲田第4踏切跡。西側は丁字路になっている。

その隣は環状八号線が渡っていた京急蒲田第5踏切の跡。ここは特に交通量が多かったため、前後の第4から第8踏切までが他の部分に先行して平成22年(2010年)立体交差化されている。
踏切が廃止されても相変わらず交通量は多く、車が並んでいない状態で撮影するのは難しい。
踏切が廃止されても相変わらず交通量は多く、車が並んでいない状態で撮影するのは難しい。

大正12年(1923年)の旧1万地形図には環状八号線と第一京浜国道の交差点北側に下町(しもちょう)停留場と思われる停留場が描かれているが、停留所名は書かれていない。
東海道上の併用軌道にあった下町停留場は専用軌道化された大正12年に廃止されているので、大正11年の測量時点では存在していたが、大正12年の地図発行時点では廃止されていたのだろう。
この写真は2026/6/4撮影。
東海道上の併用軌道にあった下町停留場は専用軌道化された大正12年に廃止されているので、大正11年の測量時点では存在していたが、大正12年の地図発行時点では廃止されていたのだろう。
この写真は2026/6/4撮影。

OpenStreetMapで下町停留場付近から雑色(ぞうしき)駅までを見る。
明治34年(1901年)に併用軌道で開業した当初、東海道線上には下町と雑色の間に出村停留場があり大正12年(1923年)の専用軌道化に際しては下町停留場が廃止されたこともあって蒲田寄りに出村停留場が移設されている。
昭和11年(1936年)には副本線が設けられ急行停車駅となっていたが、空襲で被災して休止となり、昭和24年(1949年)に廃止されている。
明治34年(1901年)に併用軌道で開業した当初、東海道線上には下町と雑色の間に出村停留場があり大正12年(1923年)の専用軌道化に際しては下町停留場が廃止されたこともあって蒲田寄りに出村停留場が移設されている。
昭和11年(1936年)には副本線が設けられ急行停車駅となっていたが、空襲で被災して休止となり、昭和24年(1949年)に廃止されている。

環状八号線南側にあった京急蒲田第6踏切の跡。
ここからの写真は2026/5/16撮影。
ここからの写真は2026/5/16撮影。

そこから南、蒲田本町二丁目公園の北側に車両通行止めの道が高架下を通っているが、高架化時点では踏切ではなかったものの大正11年平面図では踏切として描かれている。

公園南側には少し幅の広い行き止まりの道があるが、ここに高架化以前に廃止された京急蒲田第7踏切(出村踏切)があったようだ。
大正12年に設置された出村(でむら)停留場はこの踏切の南側(写真左)にあった。
大正12年に設置された出村(でむら)停留場はこの踏切の南側(写真左)にあった。

二段式になっていた高架線が合流しつつあるところに京急蒲田第8踏切(蒲田警察署裏踏切)があった。
写真右手前が旧蒲田警察署(現在は警視庁第一自動車警ら隊蒲田分駐所)だったことが旧踏切名の由来となっている。
写真右手前が旧蒲田警察署(現在は警視庁第一自動車警ら隊蒲田分駐所)だったことが旧踏切名の由来となっている。

京急蒲田第8踏切跡から北側の出村停留場跡を見たところ。
副本線を備えていただけあってスペースに余裕があり、高架橋に上る車両のための出入口が設けられている。
ちなみに出村は旧六郷町の字名で、停留場があったところは蒲田町字蒲田新宿となっている。
副本線を備えていただけあってスペースに余裕があり、高架橋に上る車両のための出入口が設けられている。
ちなみに出村は旧六郷町の字名で、停留場があったところは蒲田町字蒲田新宿となっている。

蒲田消防署南側にある車両通行止めの通路も大正11年資料では踏切として描かれている。

その南側で線路に斜めにぶつかる道があるのだが、大正11年資料ではそのまま線路を斜めに渡る踏切として描かれている。

若干斜めに渡っていた京急蒲田第9踏切の跡。

その南側で車両通行止めとなっている通路も大正11年資料では踏切として描かれている。
線路の向こう(東側)を進んで行き、国道にでたところに旧出村停留場があった。こちらは字出村の範囲にある。
線路の向こう(東側)を進んで行き、国道にでたところに旧出村停留場があった。こちらは字出村の範囲にある。

少し間隔が空いて京急蒲田10号踏切があった。
写真手前に京浜電気鉄道が専用軌道を敷くまではアスタリスク型に道路が交差する六叉路があった(線路脇の側道はなかった)が、軌道敷設に合わせて踏切に一本化されたようだ。左手前の道は大田区立仲六郷小学校の敷地となっていて消えている。
写真手前に京浜電気鉄道が専用軌道を敷くまではアスタリスク型に道路が交差する六叉路があった(線路脇の側道はなかった)が、軌道敷設に合わせて踏切に一本化されたようだ。左手前の道は大田区立仲六郷小学校の敷地となっていて消えている。

コンビニ脇にあった京急蒲田第11踏切の跡。

次の京急蒲田第12踏切は東西の道路位置にずれがあり、斜めに踏切が渡っていたようだ。

踏切東側にある仲六郷熊野神社を国道側から見たところ。
六郷という地名は明治22年(1889年)に八幡塚(はちまんづか)村、雑色(ぞうしき)村、町屋村、高畑村、古川村の5村が合併した際に付けられた名前だが、5村なのに六郷とはこれいかにというと江戸時代以前には北側の旧蒲田電車区(現在は品川統括センター乗務ユニット)がある道塚村を含めて六郷と呼ばれていたが、明治の合併では道塚村だけが矢口村の方に合併したのだという。
六郷という地名は明治22年(1889年)に八幡塚(はちまんづか)村、雑色(ぞうしき)村、町屋村、高畑村、古川村の5村が合併した際に付けられた名前だが、5村なのに六郷とはこれいかにというと江戸時代以前には北側の旧蒲田電車区(現在は品川統括センター乗務ユニット)がある道塚村を含めて六郷と呼ばれていたが、明治の合併では道塚村だけが矢口村の方に合併したのだという。

ゾウのマークがついている雑色商店街のアーケード。
アーケードが途切れて京急本線をくぐるところに京急蒲田第13踏切があった。
雑色(ぞうしき)というのは律令時代に宮中の雑役をする役目のことであったが、地名の由来としては諸説あってはっきりしない。
アーケードが途切れて京急本線をくぐるところに京急蒲田第13踏切があった。
雑色(ぞうしき)というのは律令時代に宮中の雑役をする役目のことであったが、地名の由来としては諸説あってはっきりしない。

商店街から第一京浜国道に出たところにある雑色駅入口交差点を蒲田方向に見たところ。
このあたりに併用軌道時代の雑色停留場があった。
このあたりに併用軌道時代の雑色停留場があった。

交差点南側に国道から京急本線に突き当たる道があるが、ここに雑色停留場南側を渡る踏切があったようだ。雑色駅のホーム延長に伴って廃止されたものと思われる。