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お花茶屋1号〜青砥5号踏切

OpenStreetMapでお花茶屋駅から青砥駅までを見る。
青砥駅付近の連続立体交差化工事は昭和47年(1972年)から昭和61年(1986年)にかけて行われ、青砥駅は昭和60年(1985年)に4階建の高架駅となった。
それと並行して青砥駅と京成高砂駅間の複々線化工事も行われ、こちらも昭和60年に完成している(北総線の京成高砂乗り入れは平成3年から)。
これらの工事が行われた際の資料は豊富に残っているのだが、空中写真や古地図を見ると青砥・京成高砂間にはそれ以外にも踏切があったようで今回はそれも探していくことにする。
参考資料:
・国立国会図書館デジタルコレクション所蔵
- 「開発往来21(8)(223):青砥~京成高砂問の施工」(高山栄助/開発行政懇話会, 1977)
- 「交通技術32(7)(394):京成電鉄青砥駅付近の連続立体化と複々線化工事」(高山栄助/交通協力会, 1977)
- 「交通技術36(5)(444):シリーズ・1980年代の民鉄界 京成電鉄 1980年代の展望」(藤井浩二/交通協力会, 1981)
- 「土木施工:構想・計画調査設計・施工・維持補修・管理の総合土木技術誌23(10):京成電鉄青砥駅付近高架化工事」(中島明雄; 中村親夫; 鈴木徳次/オフィス・スペース, 1982)
- 「龜青東南部 南葛飾郡新宿町・龜青村・奥戸村([三千分一地形図]; 15號ノ4)」(遠藤市次/都市計畫東京地方委員會, 1926)
- 「新宿東南部 南葛飾郡新宿町・奥戸村・金町村・小岩村([三千分一地形図]; 15號ノ5)」(遠藤市次/都市計畫東京地方委員會, 1926)
・国土地理院Webサイト
- 「昭和22年(1947年)空中写真」(米軍撮影)
- 「昭和38年(1963年)空中写真」、 「昭和41年(1966年)空中写真」、 「昭和45年(1970年)空中写真」(国土地理院撮影)
・JTBキャンブックス「京成の駅 今昔・昭和の面影」(石本祐吉 / JTBパブリッシング, 2014)
・「京成電鉄 古地図さんぽ」(生田誠 / フォト・パブリッシング, 2018)
青砥駅付近の連続立体交差化工事は昭和47年(1972年)から昭和61年(1986年)にかけて行われ、青砥駅は昭和60年(1985年)に4階建の高架駅となった。
それと並行して青砥駅と京成高砂駅間の複々線化工事も行われ、こちらも昭和60年に完成している(北総線の京成高砂乗り入れは平成3年から)。
これらの工事が行われた際の資料は豊富に残っているのだが、空中写真や古地図を見ると青砥・京成高砂間にはそれ以外にも踏切があったようで今回はそれも探していくことにする。
参考資料:
・国立国会図書館デジタルコレクション所蔵
- 「開発往来21(8)(223):青砥~京成高砂問の施工」(高山栄助/開発行政懇話会, 1977)
- 「交通技術32(7)(394):京成電鉄青砥駅付近の連続立体化と複々線化工事」(高山栄助/交通協力会, 1977)
- 「交通技術36(5)(444):シリーズ・1980年代の民鉄界 京成電鉄 1980年代の展望」(藤井浩二/交通協力会, 1981)
- 「土木施工:構想・計画調査設計・施工・維持補修・管理の総合土木技術誌23(10):京成電鉄青砥駅付近高架化工事」(中島明雄; 中村親夫; 鈴木徳次/オフィス・スペース, 1982)
- 「龜青東南部 南葛飾郡新宿町・龜青村・奥戸村([三千分一地形図]; 15號ノ4)」(遠藤市次/都市計畫東京地方委員會, 1926)
- 「新宿東南部 南葛飾郡新宿町・奥戸村・金町村・小岩村([三千分一地形図]; 15號ノ5)」(遠藤市次/都市計畫東京地方委員會, 1926)
・国土地理院Webサイト
- 「昭和22年(1947年)空中写真」(米軍撮影)
- 「昭和38年(1963年)空中写真」、 「昭和41年(1966年)空中写真」、 「昭和45年(1970年)空中写真」(国土地理院撮影)
・JTBキャンブックス「京成の駅 今昔・昭和の面影」(石本祐吉 / JTBパブリッシング, 2014)
・「京成電鉄 古地図さんぽ」(生田誠 / フォト・パブリッシング, 2018)

お花茶屋駅の東側、構内踏切のような位置にあるのがお花茶屋1号踏切。
「子ども葛飾区史 第10節 お花茶屋・白鳥・宝町」の記事によれば、八代将軍徳川吉宗が鷹狩りの途中で腹痛となり、ここにあった新左衛門茶屋の娘「お花」の手厚い看護で回復したことから「お花茶屋」の名前を賜ったと伝わっている。
とはいえお花茶屋駅ができた時にはまだ周辺の地名は上千葉町で、住居表示が実施された昭和43年(1968年)に地名となっている。
ここからの写真は2026/6/24撮影。
「子ども葛飾区史 第10節 お花茶屋・白鳥・宝町」の記事によれば、八代将軍徳川吉宗が鷹狩りの途中で腹痛となり、ここにあった新左衛門茶屋の娘「お花」の手厚い看護で回復したことから「お花茶屋」の名前を賜ったと伝わっている。
とはいえお花茶屋駅ができた時にはまだ周辺の地名は上千葉町で、住居表示が実施された昭和43年(1968年)に地名となっている。
ここからの写真は2026/6/24撮影。

すぐ東側で曳舟川親水公園通り(旧曳舟川)が渡るお花茶屋2号踏切は、両側の歩道にも遮断機がある大きな踏切だ。

踏切から東側を見たところ。水戸街道を越えるためにこの先は高架となる。

高架アプローチ部分にかつてお花茶屋3号踏切があった。桁下が1.8mしかなく、大きめのミニバンやワンボックスカーは通れない。

水戸街道を渡る架道橋の下に高架化で廃止されたお花茶屋4号踏切があった。

すぐ東側の立石さくら通りも元は水路で、ここに踏切はなかった。

その次の架道橋も元は水路の上を通っていて、踏切はなかった。

さらに次の架道橋も水路跡で踏切ではなかった。

ようやく次のお花茶屋5号踏切跡に出る。青砥駅に向かってだいぶ高架線が高くなってきた。

お花茶屋6号踏切跡は高架下の道路の方が手前の路地よりも幅広くなっている。高架化された際に線路の下だけ拡幅されたらしい。

奥に見える亀有新道が渡っていたお花茶屋7号踏切跡の手前で、京成本線は上下二層に分かれていく。
写真手前の架道橋は踏切跡ではなく、高架化された際に新設された道路だ。
写真手前の架道橋は踏切跡ではなく、高架化された際に新設された道路だ。

次の架道橋も水路跡に造られた新設道路で踏切はなかった。

青砥駅に向かって大きく曲がっていく途中にある自転車駐車場も水路の跡を利用している。

南から京成押上線が合流してくる手前にあるのがお花茶屋8号踏切の跡。写真奥に見える押上線の方には京成立石5号踏切があった。

OpenStreetMapで青砥駅から京成高砂駅を見る。
高架複々線化が行われた時点で廃止された踏切は5つだが、昭和22年以降の空中写真を見ると3ヶ所の番号がない踏切があり、青砥5号踏切はもう少し京成高砂駅寄りに位置していた。
高架複々線化が行われた時点で廃止された踏切は5つだが、昭和22年以降の空中写真を見ると3ヶ所の番号がない踏切があり、青砥5号踏切はもう少し京成高砂駅寄りに位置していた。

2025年にリニューアルされ間伐材や古材を活用したサステナブルな駅となっている青砥駅。写真左にちらっと写っているが、高架下広場は人生ゲームをモチーフとしたベンチやモニュメントが置かれている。
「青砥」という名称の由来は鎌倉時代の引付衆(裁判官)として公正な裁判にあたったという評判の(実在の人物ではないとされるが、室町時代の「太平記」や滝沢馬琴の「青砥藤綱摸稜案」、江戸自体の歌舞伎「白浪五人男」に登場)青砥左衛門藤綱が館を構えていたという言い伝えによるもので、周辺の地名は元から「青戸」となっている。
青戸の地名の方は葛飾区史によれば元は大戸(おおと)と呼んでいたものが青戸の文字があてられたといい、戸は川の渡し場を意味するという。
ここからの写真は2026/6/19撮影。
「青砥」という名称の由来は鎌倉時代の引付衆(裁判官)として公正な裁判にあたったという評判の(実在の人物ではないとされるが、室町時代の「太平記」や滝沢馬琴の「青砥藤綱摸稜案」、江戸自体の歌舞伎「白浪五人男」に登場)青砥左衛門藤綱が館を構えていたという言い伝えによるもので、周辺の地名は元から「青戸」となっている。
青戸の地名の方は葛飾区史によれば元は大戸(おおと)と呼んでいたものが青戸の文字があてられたといい、戸は川の渡し場を意味するという。
ここからの写真は2026/6/19撮影。

地上時代の青砥駅北側にあった青砥1号踏切は、高架下のやや幅広い道路となっている。

青砥駅付近の高架化工事が始まった時点では廃止されていて踏切番号がついていないが、ひとつ北側の道路よりもやや南側(写真右)にも踏切があった。
昭和41年(1966年)の空中写真では存在が確認できるが、昭和45年(1970年)の空中写真では廃止されているのがわかる。
昭和41年(1966年)の空中写真では存在が確認できるが、昭和45年(1970年)の空中写真では廃止されているのがわかる。

環状七号線をまたぐ京成の架道橋。ここは道路の方が後からできたので踏切はなかった。

環七から分かれて高砂橋へ向かう道路が斜めに高架をくぐるところに青砥2号踏切があった。

青砥2号踏切は高砂橋からの道ができる以前は南北に線路を渡る踏切だった。北側には道路が残っているが、南側は行き止まりの路地になっている。
大正12年(1926年)の地図などで南北に通る踏切が確認できる。
この写真は2026/6/28撮影。
大正12年(1926年)の地図などで南北に通る踏切が確認できる。
この写真は2026/6/28撮影。

次の青砥3号踏切跡の両脇は京成グループの工事会社が使用しているようだ。
この写真は2026/6/19撮影。
この写真は2026/6/19撮影。

中川の堤防まで来て南から京成線の鉄橋を見たところ。写真左には留置線に止まっている京浜急行の車両が見える。
昭和41年の空中写真では堤防を渡る京成線のあたりに踏切があったように見えるが、昭和45年の空中写真ではアンダーパスになっているようだ。
ここからの写真は2026/6/28撮影。
昭和41年の空中写真では堤防を渡る京成線のあたりに踏切があったように見えるが、昭和45年の空中写真ではアンダーパスになっているようだ。
ここからの写真は2026/6/28撮影。

高砂橋を渡って中川の左岸へ。
写真左の道路は旧東用水の暗渠(東用水せせらぎ通り)で京成線は鉄橋で越えていたが、その右側(京成高砂寄り)に線路に向かっていく坂道があって、その先に踏切があった。ここも昭和41年の空中写真までは踏切になっているのがわかる。
写真左の道路は旧東用水の暗渠(東用水せせらぎ通り)で京成線は鉄橋で越えていたが、その右側(京成高砂寄り)に線路に向かっていく坂道があって、その先に踏切があった。ここも昭和41年の空中写真までは踏切になっているのがわかる。

東用水の脇にある高砂天祖神社。このあたりはのちに鎌倉幕府の重臣となった葛西三郎清重が永万元年(1165年)に伊勢神宮へ寄進した葛西御厨(かさいのみくりや)にあたり、その後15世紀までに当地へ勧請されたと伝わっている。
ここからの写真は2026/6/24撮影。
ここからの写真は2026/6/24撮影。

ところで少し戻る形になるが東用水せせらぎ通りの西側、堤防のすぐ脇を南北にJR貨物の新金線が走っている。
写真は高砂小橋の南側にある耕道第二踏切。かつては第四種踏切だったことが想像される作りだが、きちんと警報器や遮断機が備わっている。
写真は高砂小橋の南側にある耕道第二踏切。かつては第四種踏切だったことが想像される作りだが、きちんと警報器や遮断機が備わっている。

踏切から北の高砂小橋方向を見たところ。京成線はその向こうを走っている。
新金線については余裕のある敷地を利用して新小岩と金町を結ぶLRTなどの旅客線を構築する検討が進められている。京成金町線と競合するような気がしないでもないが、京成本線から南側には南北を結ぶ鉄道がないため葛飾区内の交通利便性は高まると思われる。
新金線については余裕のある敷地を利用して新小岩と金町を結ぶLRTなどの旅客線を構築する検討が進められている。京成金町線と競合するような気がしないでもないが、京成本線から南側には南北を結ぶ鉄道がないため葛飾区内の交通利便性は高まると思われる。

京成高砂駅手前にある跨線人道橋。現在の跨線橋よりもやや西側(青砥寄り)に青砥4号踏切があった。踏切北側は複々線化用地になったため道路ごとなくなっている。

青砥5号踏切は南側から道路がホームに突き当たる場所にあったが、ホーム延伸に伴って高架化工事が始まる前はもう少し西側に移設されていた。
ここからの写真は2026/6/28撮影。
ここからの写真は2026/6/28撮影。

北側から青砥5号踏切跡を見たところ。
移設された踏切は写真手前の丁字路よりも少しだけ青砥寄り(写真奥)にあったが、複々線化で痕跡は消えてしまっている。
移設された踏切は写真手前の丁字路よりも少しだけ青砥寄り(写真奥)にあったが、複々線化で痕跡は消えてしまっている。

京成高砂駅南口に突き当たる道路も、京成高砂駅が京成高砂1号踏切の東側に位置していた昭和29年までは踏切であった。
昭和22年の空中写真ではこの位置に踏切がある。
昭和22年の空中写真ではこの位置に踏切がある。