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金町線の踏切

OpenStreetMapで京成金町線を見る。
京成金町線は京成高砂駅とJR常磐線金町駅に接続する京成金町駅を結ぶ単線の支線で、中間駅となっている柴又駅近くの帝釈天(日蓮宗題経寺)への参拝客を輸送するのが主な役割となっている。
京成高砂2号踏切までは京成本線と共有しているのでそちらは機会を改めて見ていくことにして、今回は単独の踏切となっている部分を見ていこう。柴又までの間には廃止された踏切が2ヶ所あるようだが、柴又から金町の間ははっきりしないもののかなりたくさん踏切跡の候補があるのでそこも見ていくことにする。
参考資料:
・国土地理院Webサイト
- 「昭和22年(1947年)空中写真」(米軍撮影)
- 「昭和22年(1947年)空中写真」(米軍撮影)
・JTBキャンブックス「京成の駅 今昔・昭和の面影」(石本祐吉 / JTBパブリッシング, 2014)
・「京成電鉄 古地図さんぽ」(生田誠 / フォト・パブリッシング, 2018)
京成金町線は京成高砂駅とJR常磐線金町駅に接続する京成金町駅を結ぶ単線の支線で、中間駅となっている柴又駅近くの帝釈天(日蓮宗題経寺)への参拝客を輸送するのが主な役割となっている。
京成高砂2号踏切までは京成本線と共有しているのでそちらは機会を改めて見ていくことにして、今回は単独の踏切となっている部分を見ていこう。柴又までの間には廃止された踏切が2ヶ所あるようだが、柴又から金町の間ははっきりしないもののかなりたくさん踏切跡の候補があるのでそこも見ていくことにする。
参考資料:
・国土地理院Webサイト
- 「昭和22年(1947年)空中写真」(米軍撮影)
- 「昭和22年(1947年)空中写真」(米軍撮影)
・JTBキャンブックス「京成の駅 今昔・昭和の面影」(石本祐吉 / JTBパブリッシング, 2014)
・「京成電鉄 古地図さんぽ」(生田誠 / フォト・パブリッシング, 2018)

京成高砂(金)3号踏切は京成電鉄高砂検車区の北側を通る道路が渡る踏切だが、京成金町線が平成22年(2010年)に京成高砂駅の高架ホームへ切り替えられてからは複線だった下り線を高架として本線と分離した一方、上り線は本線との接続用として残されている。
踏切を通る車両は検車区へ向かう回送電車のみとなっているため、この踏切が閉まるのを見ることはなかなかできない。
ここからの写真は2026/6/28撮影。
踏切を通る車両は検車区へ向かう回送電車のみとなっているため、この踏切が閉まるのを見ることはなかなかできない。
ここからの写真は2026/6/28撮影。

「さくらみち」が渡る京成高砂(金)4号踏切。東西に渡る大きな道路がまわりにないため、交通量の多い踏切となっている。

踏切から柴又駅方向を見たところ。右側旧上り線だが、なぜか旧下り線の方が路盤が低くなっている。

さて、そこから柴又駅方向へ進んだところ。東西から線路に突き当たる行き止まりの道路があるが、昭和22年(1947年)の空中写真では踏切になっている。

踏切を挟んで五叉路の形になっている京成高砂(金)5号踏切。

昭和22年の空中写真に写っているもう一つの踏切は桜道児童遊園北側で道路が突き当たっている場所からやや南(写真左)に向かって斜めに線路を渡っていたが、西側はすっかり住宅地になってしまっていて痕跡が残っていない。

柴又駅手前にある京成高砂(金)6号踏切。ここも踏切を挟んで五叉路になっている。

柴又駅前には寅さんの銅像が立っている(写真手前にはその寅さんを見送るさくらの銅像もある)。
柴又と金町の間は元々は明治32年(1899年)に開業した帝釈人車鉄道(のち帝釈人車軌道)の路線で、車夫が人力で客車を押して複線の線路を往復していた。その軌道特許が京成電気鉄道へ譲渡され、大正2年(1913年)に単線電化の京成金町線として京成高砂駅(当時は曲金駅)側の路線と接続されている(昭和10年代までは運行形態としては柴又で分割されていたという)。
柴又と金町の間は元々は明治32年(1899年)に開業した帝釈人車鉄道(のち帝釈人車軌道)の路線で、車夫が人力で客車を押して複線の線路を往復していた。その軌道特許が京成電気鉄道へ譲渡され、大正2年(1913年)に単線電化の京成金町線として京成高砂駅(当時は曲金駅)側の路線と接続されている(昭和10年代までは運行形態としては柴又で分割されていたという)。

柴又駅には構内踏切が残っている。
ここからの写真は2026/6/30撮影。
ここからの写真は2026/6/30撮影。

柴又駅北側の柴又1号踏切は車両通行止め。

昭和22年(1947年)の空中写真を見ると、柴又1号踏切と2号踏切の間、東側から道路が線路脇に出るところに踏切があった。西側はマンションになっていて道路が失われている。

振り返って帝釈天参道へ。この日は平日なので人出もまばら。

柴又帝釈天は寛永6年(1629年)開基の日蓮宗寺院で、安永8年(1779年)庚申の日に改修中の本殿梁の上から行方不明となっていた帝釈天の本尊が見つかったことから庚申信仰と結びつき、現在でも庚申の日に縁日が行われている。
付近一帯は古墳時代後期から奈良平安時代の遺跡群(柴又帝釈天遺跡)が広がっている。
付近一帯は古墳時代後期から奈良平安時代の遺跡群(柴又帝釈天遺跡)が広がっている。

柴又八幡神社(写真右)の前にある柴又2号踏切。
柴又という地名は養老5年(721年)に作成された「下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」に「嶋俣里」として現れるのが初出という極めて古い地名で、永禄2年(1559年)の「小田原衆所領役帳」に「柴俣」という字で記されているという。(大嶋郷については埼玉県東部の久喜市、幸手市、杉戸町付近とする説もある)
柴又という地名は養老5年(721年)に作成された「下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」に「嶋俣里」として現れるのが初出という極めて古い地名で、永禄2年(1559年)の「小田原衆所領役帳」に「柴俣」という字で記されているという。(大嶋郷については埼玉県東部の久喜市、幸手市、杉戸町付近とする説もある)

柴又2号踏切を通過する3544F。

踏切西側にある柴又八幡神社。
境内には墳丘が失われている6世紀末から7世紀初めの古墳があり、石室が現存しているそうだ。
境内には墳丘が失われている6世紀末から7世紀初めの古墳があり、石室が現存しているそうだ。

東京都道501号柴又街道が京成金町線と並行して進んでいくところ、西側から線路に突き当たる道路があるが昭和22年の空中写真では踏切のように見えなくもない。

柴又3号踏切は金町浄水場の向かい側、真言宗豊山派の良観寺門前にある。

良観寺側から踏切越しに金町浄水場を見たところ。
金町浄水場は江戸川から飲料水を取水するために大正15年(1926年)に稼働開始した施設。昭和の1970年代から1980年代は高度成長期の水質悪化などで問題視されたが、平成4年(1992年)から高度浄水処理が始まり水質は大幅に改善されたという。
金町浄水場は江戸川から飲料水を取水するために大正15年(1926年)に稼働開始した施設。昭和の1970年代から1980年代は高度成長期の水質悪化などで問題視されたが、平成4年(1992年)から高度浄水処理が始まり水質は大幅に改善されたという。

良観寺北側、金町公園から東に出る道路が突き当たるところも昭和22年の空中写真では踏切に見える。

金町公園には大きな自然池がある。公園は昭和25年(1950年)の開園だが、昭和22年の空中写真でも大きな池があるのが見える。

金町公園北側の道路が突き当たるところも踏切跡だった可能性がある。

金町浄水場正門前にも踏切があったようだ。

次の道路にも踏切があったと思われるが、ここ(ときわ花小路)は水路の跡でもあり、道路正面の柵の下には線路鉄橋と開渠が残っている。

浄水場バス停向かいの道路は昭和22年の空中写真では踏切ではない。

金町浄水場北側にある柴又4号踏切。

柴又4号踏切北側には線路を挟んで東西から突き当たる道路が並んでおり、いずれも昭和22年の空中写真では踏切のように見える。

二つ目の突き当たりも踏切跡と思われる。

次の突き当たりは写真方向(西側)が行き止まりで、踏切はなかったと思われる。

次の突き当たりが三つ目の踏切跡らしき場所。

水戸街道南側に四つ目の踏切跡と思われる突き当たりがある。

柴又5号踏切は水戸街道の金町三丁目交差点になっている。
線路を越える陸橋はあるが踏切を通る道路も交通量が多い。踏切は道路両脇の歩道と上下車道の4つに分かれて遮断機が設置されている。
線路を越える陸橋はあるが踏切を通る道路も交通量が多い。踏切は道路両脇の歩道と上下車道の4つに分かれて遮断機が設置されている。

踏切から水戸街道越しに京成金町駅方向を見たところ。

水戸街道の北側、西側に商店街の路地が見えるところに全国Q地図の東京都3千分の1地図(1961〜1962年)では踏切となっている。

京成金町駅手前で線路を斜めに渡る柴又6号踏切。現在は京成金町線最後の踏切ということになる。

京成金町駅のホームに収まる3544F。

京成金町駅ホームの下をくぐる地下道が定期券発売所の脇にあるが、1960年初期の地図ではここにも踏切があった。
ホームを4両編成対応に延長した際に廃止されたものと思われる。
ホームを4両編成対応に延長した際に廃止されたものと思われる。