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白鬚線の踏切

OpenStreetMapで白鬚(しらひげ)線跡を見る。
京成押上線の旧向島駅から分岐している白鬚線は昭和3年(1928年)に開業したものの、隅田川右岸への延伸は行われず(構想はあったという)昭和11年(1936年)には廃止されてしまったという短命な支線であった。
参考資料:
・国立国会図書館デジタルコレクション所蔵
- 「東京府南葛飾郡隅田町・寺島町・吾嬬町全圖 番地界入」(小林又七, 1931)
- 「大東京區分圖三十五區之内向島區詳細圖」(東京地形社, 1935)
・東京都公文書館所蔵「向島・白鬚間工事運輸開始(線路実測平面図)」(京成電気軌道, 1928)
・国土地理院Webサイト
- 「昭和11年空中写真」(陸軍撮影, 1936)
- 「昭和22年空中写真」(米軍撮影, 1947)
- 「昭和7年 旧1万地形図(向島)」(大日本帝國陸地測量部, 1932)
・JTBキャンブックス「京成の駅 今昔・昭和の面影」(石本祐吉 / JTBパブリッシング, 2014)
・「京成電鉄 古地図さんぽ」(生田誠 / フォト・パブリッシング, 2018)
・東京都墨田区向島四丁目北町会「曳舟川つれづれ草」(横井正男, 2023-)
京成押上線の旧向島駅から分岐している白鬚線は昭和3年(1928年)に開業したものの、隅田川右岸への延伸は行われず(構想はあったという)昭和11年(1936年)には廃止されてしまったという短命な支線であった。
参考資料:
・国立国会図書館デジタルコレクション所蔵
- 「東京府南葛飾郡隅田町・寺島町・吾嬬町全圖 番地界入」(小林又七, 1931)
- 「大東京區分圖三十五區之内向島區詳細圖」(東京地形社, 1935)
・東京都公文書館所蔵「向島・白鬚間工事運輸開始(線路実測平面図)」(京成電気軌道, 1928)
・国土地理院Webサイト
- 「昭和11年空中写真」(陸軍撮影, 1936)
- 「昭和22年空中写真」(米軍撮影, 1947)
- 「昭和7年 旧1万地形図(向島)」(大日本帝國陸地測量部, 1932)
・JTBキャンブックス「京成の駅 今昔・昭和の面影」(石本祐吉 / JTBパブリッシング, 2014)
・「京成電鉄 古地図さんぽ」(生田誠 / フォト・パブリッシング, 2018)
・東京都墨田区向島四丁目北町会「曳舟川つれづれ草」(横井正男, 2023-)

押上線・押上1号〜荒川1号踏切で取り上げた向島駅からの分岐跡。
白鬚線の路線跡はほとんどが住宅地として分譲されてしまっているため線路そのものをたどっていくのは難しいが、昭和3年の資料を元に踏切があったと思われる位置を中心に終点まで進んでみよう。
ここからの写真は2026/6/16撮影。
白鬚線の路線跡はほとんどが住宅地として分譲されてしまっているため線路そのものをたどっていくのは難しいが、昭和3年の資料を元に踏切があったと思われる位置を中心に終点まで進んでみよう。
ここからの写真は2026/6/16撮影。

八広五丁目団地と八広五丁目アパートの間をつなぐ歩行者用通路。
京成の図面ではこのあたりに最初の踏切があったと思われるが、この場所かどうかはよくわからない。
京成の図面ではこのあたりに最初の踏切があったと思われるが、この場所かどうかはよくわからない。

都立墨田特別支援学校(ミツワ石鹸向島工場跡地)南側を通る細い路地。京成の図面によればこの付近にも踏切があったようだが、空中写真でははっきりせず地図にも記載がないため正確な位置はわからない。

曳舟川通りに面した八広公園から道路北側を見たところ。
名前の通りここにはかつて曳舟川が流れていた。曳舟川は越谷市から本所・深川地区へ飲料水を供給するために上水として万治2年(1659年)に開削されたもので、享保7年(1722年)に上水としての利用が終わったあと水運路として岸から人が舟を曳いて移動していたことから曳舟川と呼ばれるようになったという。
曳舟川は昭和30年代に埋め立てられて道路となったが、白鬚線が走っていた頃はまだ現役の水路で線路は曳舟川橋梁で川を越えていた。その左右両岸に踏切があったようだが、図面によっては手前側に踏切が描かれていないものもあり正確なことはわからない。
川を越えた先、写真中央付近に向かって白鬚線が伸びていたが住宅が建っていて痕跡は残っていない。
名前の通りここにはかつて曳舟川が流れていた。曳舟川は越谷市から本所・深川地区へ飲料水を供給するために上水として万治2年(1659年)に開削されたもので、享保7年(1722年)に上水としての利用が終わったあと水運路として岸から人が舟を曳いて移動していたことから曳舟川と呼ばれるようになったという。
曳舟川は昭和30年代に埋め立てられて道路となったが、白鬚線が走っていた頃はまだ現役の水路で線路は曳舟川橋梁で川を越えていた。その左右両岸に踏切があったようだが、図面によっては手前側に踏切が描かれていないものもあり正確なことはわからない。
川を越えた先、写真中央付近に向かって白鬚線が伸びていたが住宅が建っていて痕跡は残っていない。

曳舟川通りを渡って裏手の道へ。この道路は京成電気鉄道の資料には溝橋とあって、昭和6年、同10年の地図にも道路が記載されておらず踏切はなかったようだ。
京成の図面では長浦停留場は溝橋の白鬚寄り、写真右の駐車場付近に描かれている。
京成の図面では長浦停留場は溝橋の白鬚寄り、写真右の駐車場付近に描かれている。

溝橋跡の道路から長浦停留場跡の駐車場方向を見たところ。
白鬚線は写真右側の道路よりもやや左側を走っていたようだ。
白鬚線は写真右側の道路よりもやや左側を走っていたようだ。

長浦停留場跡から北へ進んで踏切跡の道路を東側から見たところ。
路盤跡はすっかり住宅地になっている。
路盤跡はすっかり住宅地になっている。

踏切跡を渡って西側から水戸街道へ。
白鬚線はオービスのカメラが設置されているあたりを通っていたと思われるが、開通当時水戸街道はまだ完成していなかったはずで京成の図面には記載がなく踏切は写真左を奥へ向かう道路に描かれている。
白鬚線はオービスのカメラが設置されているあたりを通っていたと思われるが、開通当時水戸街道はまだ完成していなかったはずで京成の図面には記載がなく踏切は写真左を奥へ向かう道路に描かれている。

国土地理院Webサイトの令和元年(2019年)空中写真で水戸街道付近を見ると、白鬚線の跡に沿って住宅がカーブして建っている様子が見える。

水戸街道を渡って踏切跡から西側を見たところ。
駐車場と管理地(空き地)の間にいかにも線路跡なカーブした境界線が残っている。現地ではてっきり空き地が路盤跡かと思っていたのだが、空中写真と照らし合わせてみると左の駐車場側が路盤跡だった。
駐車場と管理地(空き地)の間にいかにも線路跡なカーブした境界線が残っている。現地ではてっきり空き地が路盤跡かと思っていたのだが、空中写真と照らし合わせてみると左の駐車場側が路盤跡だった。

駐車場裏側(西側)の路地を北から見たところ。
写真左のマンション手前で路地が狭くなっている部分があるのだが、そこが踏切だったと思われる。ここから西側の線路跡はふたたび住宅地となっている。
写真左のマンション手前で路地が狭くなっている部分があるのだが、そこが踏切だったと思われる。ここから西側の線路跡はふたたび住宅地となっている。

そこから西へ進んでいくと天理教教会脇に空き地(かつては商店があった)があるが、京成の図面ではここに道路があって写真奥に踏切が描かれている。昭和6年、10年の地図にもそれらしい道は記載がある。昭和22年の空中写真にも道があるので、廃道になったのは戦後の話と思われる。

その西側には南北に通り抜ける道路がある。写真右側の木立あたりが踏切だったと思われる。
ここから西側は東武伊勢崎線を築堤で跨いでいたため、しばらく踏切の跡はない。
ここから西側は東武伊勢崎線を築堤で跨いでいたため、しばらく踏切の跡はない。

東武伊勢崎線の高架を南側から見たところ。築堤は削平されてしまい跡形もないが、写真右の英会話と歯科の看板がある間あたりを白鬚線が通っていたと思われ、写真右側住宅地付近の築堤上に京成玉ノ井停留場があった。
玉ノ井は南葛飾郡寺島村の小字で、写真手前方向にある東武の東向島駅も昭和62年(1987年)までは玉ノ井駅であった。なお、東向島駅は明治35年(1902年)の伊勢崎線開業時から明治41年(1908年)にいったん廃止されるまでは白鬚駅と名乗っていたのだが、大正13年(1924年)に営業再開した際に玉ノ井駅に改称している。
玉ノ井は南葛飾郡寺島村の小字で、写真手前方向にある東武の東向島駅も昭和62年(1987年)までは玉ノ井駅であった。なお、東向島駅は明治35年(1902年)の伊勢崎線開業時から明治41年(1908年)にいったん廃止されるまでは白鬚駅と名乗っていたのだが、大正13年(1924年)に営業再開した際に玉ノ井駅に改称している。

伊勢崎線高架越しに西側の築堤跡を見る。写真中央の工場と思われる建屋付近が築堤で、線路は左の電柱付近を奥へ向かっていたのではないかと思われる。

さらに西側、写真右の屋敷あたりを白鬚線が通っていたはず。こちらも削平されてしまっている。

築堤の西側には京成の図面に6ヶ所踏切が描かれているので、順番に見ていこう。
最初の踏切は北向き一方通行の道路を南側から見るとやや曲がっているあたりにあった。
最初の踏切は北向き一方通行の道路を南側から見るとやや曲がっているあたりにあった。

二番目の踏切は南向き一方通行で左のせり出している住居の北側(写真奥)にあった。

三番目の踏切は写真左側の住居前付近にあった。

四番目の踏切は北側の大正通りから見る。写真奥は硝子問屋の敷地になっており、正面突き当たりよりもやや手前に踏切があった。

五番目の踏切は区立長寿庭園(写真右)前の丁字路付近にあった。

白鬚線は長寿庭園のやや北寄りを東西に通っていた。

長寿庭園の西側に出て路地を進んで行き、西側の道路を北から見たところ。
写真右手前の電柱あたりが踏切のあった位置と思われる。
写真右手前の電柱あたりが踏切のあった位置と思われる。

踏切跡の脇(北西側)に建つ青葉弁財天の文字塔。
昭和10年と彫られているので、文字塔が建てられた時にはまだ白鬚線が現役だったことになる。
昭和10年と彫られているので、文字塔が建てられた時にはまだ白鬚線が現役だったことになる。

弁財天の西側は特養老人ホームの敷地になっていて、大正通り側の入口には「京成白鬚線 白鬚駅跡」という看板が設置されている。
実際の白鬚駅は大正通りよりも南側、現在の老人ホーム裏手あたりにホームがあったようだが、おそらく駅舎部分は老人ホームの敷地内であったと思われる。
実際の白鬚駅は大正通りよりも南側、現在の老人ホーム裏手あたりにホームがあったようだが、おそらく駅舎部分は老人ホームの敷地内であったと思われる。

大正通りから東京都道461号吾妻橋伊興町線(墨堤通り)に出て振り返ったところ。
八百屋の裏側に細い路地があり、その向こう(写真中央やや左に見える秀ノ山部屋のビルの右)に白鬚駅跡があるのだが路地に入ってみても駅の跡が見えるわけではない。
八百屋の裏側に細い路地があり、その向こう(写真中央やや左に見える秀ノ山部屋のビルの右)に白鬚駅跡があるのだが路地に入ってみても駅の跡が見えるわけではない。

最後に墨堤通りを南に行ったところにある白髭神社。
天暦5年(951年)に近江の白鬚大明神の分霊を祀ったことに始まるといい、町名ではないが付近一体は白鬚地区と呼ばれていることから路線名や駅名として採用されたと思われる。
天暦5年(951年)に近江の白鬚大明神の分霊を祀ったことに始まるといい、町名ではないが付近一体は白鬚地区と呼ばれていることから路線名や駅名として採用されたと思われる。