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天王町1号〜星川8号踏切

OpenStreetMapで天王町駅〜和田町駅間を見る。
この区間は平成14年(2002年)から令和4年(2022年)にかけて連続立体交差事業が行われ、天王町1号踏切から星川6号踏切まで9ヶ所の踏切が平成30年(2018年)に廃止となっている。
(高架化工事は2007年着工)
高架下の空間は「星天qlay(ホシテンクレイ)」という商業施設として活用されている。
参考資料:
・「星天ニュース」(横浜市道路局, 2007-2022)
・「相模鉄道 街と鉄道の歴史探訪」(山田亮/生田誠/フォト・パブリッシング, 2019)
・和田町 | そうにゃんが行く!相鉄線ぶらり発見!そうにゃんだー!
この区間は平成14年(2002年)から令和4年(2022年)にかけて連続立体交差事業が行われ、天王町1号踏切から星川6号踏切まで9ヶ所の踏切が平成30年(2018年)に廃止となっている。
(高架化工事は2007年着工)
高架下の空間は「星天qlay(ホシテンクレイ)」という商業施設として活用されている。
参考資料:
・「星天ニュース」(横浜市道路局, 2007-2022)
・「相模鉄道 街と鉄道の歴史探訪」(山田亮/生田誠/フォト・パブリッシング, 2019)
・和田町 | そうにゃんが行く!相鉄線ぶらり発見!そうにゃんだー!

相鉄本線と並走する帷子川の古町橋から天王町1号踏切跡を見たところ。
用地買収の関係で天王町駅の横浜よりは連続立体交差事業以前のホームを流用したため西側が低くなっており、星川駅に向かって高架線が上っていく形になっている。
このページの写真は2026/7/10撮影。
用地買収の関係で天王町駅の横浜よりは連続立体交差事業以前のホームを流用したため西側が低くなっており、星川駅に向かって高架線が上っていく形になっている。
このページの写真は2026/7/10撮影。

踏切跡の脇に立つ星天qlayの案内看板。星天qlayは星川駅北側のA zoneから天王町駅下のE zoneまで分かれており、踏切跡の道路で区切られている。

C zoneとD zoneの間を通る天王町2号踏切跡。星川駅に向かって架道橋の位置が高くなってきている。

星川駅南側にあったのが天王町3号踏切。

天王町3号踏切跡から星川駅を見る。
星川駅構内にはかつて相鉄の車両工場があったため敷地が広く、巨大な高架駅が広がっている。
星川という地名は平安時代中期の承平年間(931〜938年)に編纂された「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」に「武蔵國久良(くらき)郡星川郷」として現れる古い地名だという。
星川駅構内にはかつて相鉄の車両工場があったため敷地が広く、巨大な高架駅が広がっている。
星川という地名は平安時代中期の承平年間(931〜938年)に編纂された「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」に「武蔵國久良(くらき)郡星川郷」として現れる古い地名だという。

奥に帷子川の星川橋がある星川1号踏切跡。

星川2号踏切は水道道(すいどうみち)が宮川橋を渡った先で斜めに相鉄本線を渡っていた。
工事中は東側に迂回路を設けて踏切の横断距離を短くする方法が採用されたという。
工事中は東側に迂回路を設けて踏切の横断距離を短くする方法が採用されたという。

星川3号踏切の星川駅寄りには、昭和5年(1930年)から昭和7年まで公園下駅(常磐園下駅、和田町駅の前身)があったがその痕跡は残っていない。

そこからすぐ、高架線が地上に降りてくる途中に星川4号踏切跡がある。

線路の北側、星川4号踏切跡の少し西側から和田町駅方向を見たところ。
写真奥に横浜新道の高架があり、その向こうには星川7号踏切が現存しているのだが、横浜新道の手前にも高架化前には2ヶ所の踏切があった。
二つ目は写真奥の突き当たりにあったのだが、一つ目の踏切は防音壁で遮られていて痕跡がない。
写真奥に横浜新道の高架があり、その向こうには星川7号踏切が現存しているのだが、横浜新道の手前にも高架化前には2ヶ所の踏切があった。
二つ目は写真奥の突き当たりにあったのだが、一つ目の踏切は防音壁で遮られていて痕跡がない。

線路南側を通る水道道を横浜新道方向に見たところ。
高架アプローチ建設のため先行して廃止された星川5号踏切の跡はこちらから見てもまったく残っていない。
空中写真やGoogle Mapを見ると住宅の間を通る細い道があったのだが、踏切廃止後に道路を含めて住宅地として分譲されてしまったため痕跡がなくなっているのだ。
高架アプローチ建設のため先行して廃止された星川5号踏切の跡はこちらから見てもまったく残っていない。
空中写真やGoogle Mapを見ると住宅の間を通る細い道があったのだが、踏切廃止後に道路を含めて住宅地として分譲されてしまったため痕跡がなくなっているのだ。

星川6号踏切のほうは南から見ると行き止まりの路地として残っている。
「この先 道巾せまし」と路面に書かれているが、この先は廃道となってしまっている。
「この先 道巾せまし」と路面に書かれているが、この先は廃道となってしまっている。

横浜新道をくぐって西側の星川7号踏切は現役。

星川7号踏切の西側には、特に利用されていない屋根付きの空間があり、その向こう(写真右奥)にバス折返し場がある。
ここに昭和7年(1932年)から昭和19年(1944年)まで和田町駅の前身である常磐園下(ときわえんした)駅があった。
常盤園は線路北側の高台にある常盤公園や横浜国立大学の敷地などになっている。帷子川河口を岡野新田(現在は横浜市西区岡野一丁目、二丁目)として開発した程ヶ谷(保土ヶ谷)の豪商、岡野家の別荘地であったが、関東大震災で家業が苦境に陥ったことから売却され一部が常盤公園などとして残ったものだという。
なお、駅名は常磐と書いているが、公園などは常盤と書いているようだ。
ここに昭和7年(1932年)から昭和19年(1944年)まで和田町駅の前身である常磐園下(ときわえんした)駅があった。
常盤園は線路北側の高台にある常盤公園や横浜国立大学の敷地などになっている。帷子川河口を岡野新田(現在は横浜市西区岡野一丁目、二丁目)として開発した程ヶ谷(保土ヶ谷)の豪商、岡野家の別荘地であったが、関東大震災で家業が苦境に陥ったことから売却され一部が常盤公園などとして残ったものだという。
なお、駅名は常磐と書いているが、公園などは常盤と書いているようだ。

和田町駅手前にある星川8号踏切も現役だ。
和田町駅は常磐園下駅が昭和19年に休止となったあと、昭和27年(1952年)に現在の位置へ移転して改名の上で再開業した形になっている。
和田町駅は常磐園下駅が昭和19年に休止となったあと、昭和27年(1952年)に現在の位置へ移転して改名の上で再開業した形になっている。