Natrium.jp
伊勢崎1号~23号踏切

OpenStreetMapでとうきょうスカイツリー駅から曳舟駅付近を見る。
東武伊勢崎線は浅草駅および押上駅から東武動物公園駅までの間に「東武スカイツリーライン」という愛称を付けており、駅や路線図での案内は基本的にそちらが使用されている。
浅草駅からとうきょうスカイツリー駅までの間に踏切はないので、今回はとうきょうスカイツリー駅近くにあった踏切跡から、北千住駅北側の荒川手前までを一気に見ていくことにする。
なお、伊勢崎線(スカイツリーライン)の踏切にある表示では「伊 第○号踏切道」となっているが、このページでは便宜上「伊勢崎○号」の表記で進めていくのでご了承されたい。
参考資料:
・国立国会図書館所蔵「東武鉄道百年史〔本編〕」(東武鉄道社史編纂室, 1998)
・国立国会図書館デジタルコレクション所蔵
- 「大東京區分圖三十五區之内向島區詳細圖」(東京地形社, 1935)
- 「交通技術19(1)(219) / 東武鉄道伊勢崎線(曳舟‐鐘ヶ淵間)高架化計画」(長谷川候/交通協力会, 1964)
- 「補償研究2(13) / 東武鉄道高架工事の用地取得について」(行友照雄/補償研究会, 1964)
- 「Subway = 日本地下鉄協会報(112) / 東武伊勢崎線と地下鉄11号線直通化工事の概要」(小野里一彦/日本地下鉄協会, 1998)
・特別区協議会/特別区自治デジタルアーカイブ「大東京区分図三十五区之内本所区詳細図」(植野録夫/東京地形社)
・国土地理院Webサイト
- 「旧1万地形図(向島)」、「旧1万地形図(千住)」(大日本帝國陸地測量部, 1923)
- 「旧1万地形図(千住)」(大日本帝國陸地測量部, 1926)
- 「昭和22年空中写真」(米軍撮影, 1947)
- 「旧1万地形図(千住)」(国土地理院, 1960)
・「東武伊勢崎線、日光線 古地図さんぽ」(坂上正一/フォトパブリッシング, 2018)
・墨田区Webサイト「東武鉄道伊勢崎線(とうきょうスカイツリー駅付近)連続立体交差事業」
・葛飾区立中央図書館所蔵「可豆思賀2(葛飾探検団調査報告書)/ 堀切橋と堀切駅-堀切橋と周辺地域の交通史(上)」(西村進/葛飾区郷土と天文の博物館, 2006)
東武伊勢崎線は浅草駅および押上駅から東武動物公園駅までの間に「東武スカイツリーライン」という愛称を付けており、駅や路線図での案内は基本的にそちらが使用されている。
浅草駅からとうきょうスカイツリー駅までの間に踏切はないので、今回はとうきょうスカイツリー駅近くにあった踏切跡から、北千住駅北側の荒川手前までを一気に見ていくことにする。
なお、伊勢崎線(スカイツリーライン)の踏切にある表示では「伊 第○号踏切道」となっているが、このページでは便宜上「伊勢崎○号」の表記で進めていくのでご了承されたい。
参考資料:
・国立国会図書館所蔵「東武鉄道百年史〔本編〕」(東武鉄道社史編纂室, 1998)
・国立国会図書館デジタルコレクション所蔵
- 「大東京區分圖三十五區之内向島區詳細圖」(東京地形社, 1935)
- 「交通技術19(1)(219) / 東武鉄道伊勢崎線(曳舟‐鐘ヶ淵間)高架化計画」(長谷川候/交通協力会, 1964)
- 「補償研究2(13) / 東武鉄道高架工事の用地取得について」(行友照雄/補償研究会, 1964)
- 「Subway = 日本地下鉄協会報(112) / 東武伊勢崎線と地下鉄11号線直通化工事の概要」(小野里一彦/日本地下鉄協会, 1998)
・特別区協議会/特別区自治デジタルアーカイブ「大東京区分図三十五区之内本所区詳細図」(植野録夫/東京地形社)
・国土地理院Webサイト
- 「旧1万地形図(向島)」、「旧1万地形図(千住)」(大日本帝國陸地測量部, 1923)
- 「旧1万地形図(千住)」(大日本帝國陸地測量部, 1926)
- 「昭和22年空中写真」(米軍撮影, 1947)
- 「旧1万地形図(千住)」(国土地理院, 1960)
・「東武伊勢崎線、日光線 古地図さんぽ」(坂上正一/フォトパブリッシング, 2018)
・墨田区Webサイト「東武鉄道伊勢崎線(とうきょうスカイツリー駅付近)連続立体交差事業」
・葛飾区立中央図書館所蔵「可豆思賀2(葛飾探検団調査報告書)/ 堀切橋と堀切駅-堀切橋と周辺地域の交通史(上)」(西村進/葛飾区郷土と天文の博物館, 2006)

東武スカイツリーライン(伊勢崎線)の始発駅である浅草。駅舎とデパートが一体となった頭端式の駅だが、西武や相鉄などとは異なり東武百貨店でなく松屋が地下一階から三階まで入っている。
浅草駅の開業は昭和6年(1931年)で東京では初めてのターミナル直結型百貨店だという。東武百貨店の一号店にあたる池袋店の開業は昭和37年(1962年)で浅草駅が開業した時点では存在しておらず、平成24年(2012年)に松屋浅草が規模を縮小したものの、現在でも東武グループとして松屋に出資しているそうだ。
この写真は2026/8/8撮影。
浅草駅の開業は昭和6年(1931年)で東京では初めてのターミナル直結型百貨店だという。東武百貨店の一号店にあたる池袋店の開業は昭和37年(1962年)で浅草駅が開業した時点では存在しておらず、平成24年(2012年)に松屋浅草が規模を縮小したものの、現在でも東武グループとして松屋に出資しているそうだ。
この写真は2026/8/8撮影。

ところで、浅草駅を出てすぐに隅田川を渡ったところにある隅田高架橋付近にあったのが隅田公園駅。
昭和18年(1943年)には休止となり、昭和33年(1958年)正式に廃止となったが高架上にあったため地表に痕跡は残っていない。
この写真は2026/8/14撮影。
昭和18年(1943年)には休止となり、昭和33年(1958年)正式に廃止となったが高架上にあったため地表に痕跡は残っていない。
この写真は2026/8/14撮影。

伊勢崎1号踏切跡から工事中のとうきょうスカイツリー駅方向を見たところ。
とうきょうスカイツリー駅は明治35年(1902年)に吾妻橋駅として開業し、明治37年(1904年)に曳舟から亀戸までの路線(元東武亀戸線)が開業したことに伴っていったん廃止となった。
明治41年(1908年)にふたたび貨物線として復活したのち、明治43年に浅草駅に改称して伊勢崎線としての旅客営業を再開、昭和6年(1931年)に現在の浅草駅まで延伸され業平橋駅に改称するまでは伊勢崎線の始発駅となっていた。
伊勢崎1号踏切は東武鉄道百年史などによれば、京成電鉄押上駅地下化に伴い昭和36年(1961年)に廃止されている。
ここからの写真は2026/6/16撮影。
とうきょうスカイツリー駅は明治35年(1902年)に吾妻橋駅として開業し、明治37年(1904年)に曳舟から亀戸までの路線(元東武亀戸線)が開業したことに伴っていったん廃止となった。
明治41年(1908年)にふたたび貨物線として復活したのち、明治43年に浅草駅に改称して伊勢崎線としての旅客営業を再開、昭和6年(1931年)に現在の浅草駅まで延伸され業平橋駅に改称するまでは伊勢崎線の始発駅となっていた。
伊勢崎1号踏切は東武鉄道百年史などによれば、京成電鉄押上駅地下化に伴い昭和36年(1961年)に廃止されている。
ここからの写真は2026/6/16撮影。

次の伊勢崎2号踏切は現在工事中の「東武鉄道伊勢崎線(とうきょうスカイツリー駅付近)連続立体交差事業」により、2025年2月に立体交差化され廃止となったばかりだ。
踏切を渡っていた桜橋通りには、踏切跡の凸凹が残っているため標識が置かれている。
並走する京成電鉄押上線にも旧押上1号踏切があったが、こちらは押上駅の地下化により昭和35年(1960年)に廃止されている。
踏切を渡っていた桜橋通りには、踏切跡の凸凹が残っているため標識が置かれている。
並走する京成電鉄押上線にも旧押上1号踏切があったが、こちらは押上駅の地下化により昭和35年(1960年)に廃止されている。

京成押上線の押上1号踏切北側にあったのが伊勢崎3号踏切。
こちらは半蔵門線と東武伊勢崎線(当時)が直通運転を開始した平成15年(2003年)に廃止されている。
こちらは半蔵門線と東武伊勢崎線(当時)が直通運転を開始した平成15年(2003年)に廃止されている。

踏切の押上寄りに請地(うけち、もしくは、うけじ)駅があった。
隣にあった京成請地駅との乗り換え駅として設定されたが、実際には押上と業平橋での乗り換えが多かったためか昭和21年(1946年)に休止となり、昭和24年(1949年)に廃止されている。
隣にあった京成請地駅との乗り換え駅として設定されたが、実際には押上と業平橋での乗り換えが多かったためか昭和21年(1946年)に休止となり、昭和24年(1949年)に廃止されている。

伊勢崎4号踏切(写真右)と伊勢崎5号踏切(写真左)は写真中央の曳舟川通りを流れていた曳舟川の両岸にあった。
伊勢崎4号踏切から16号踏切までの間は昭和42年(1967年)までに高架化が行われて廃止されている。
伊勢崎4号踏切から16号踏切までの間は昭和42年(1967年)までに高架化が行われて廃止されている。

OpenStreetMapで東向島駅付近を見る。
曳舟駅は現在東武スカイツリーラインのとうきょうスカイツリー駅方向と押上駅方向、それに加えて亀戸線の分岐駅となっており、さまざまな形式の車両が乗り入れてくる。
曳舟駅は現在東武スカイツリーラインのとうきょうスカイツリー駅方向と押上駅方向、それに加えて亀戸線の分岐駅となっており、さまざまな形式の車両が乗り入れてくる。

曳舟駅北側で曳舟たから通りが斜めに渡っていた伊勢崎6号踏切。
ここからの写真は2026/8/10撮影。
ここからの写真は2026/8/10撮影。

すぐ近くにある伊勢崎7号踏切は線路に直交していた。

東京都道306号明治通り(環状4号線)と交差する伊勢崎8号踏切の跡。

国道6号水戸街道が斜めに交差していた伊勢崎9号踏切。

踏切跡の南側には東武鉄道が開業時に英国から購入した6号機関車が保存されている。

東向島駅南側にある伊勢崎10号踏切の跡。

踏切北側の東向島駅構内には、東部博物館があって昭和43年(1968年)の廃止まで東武日光軌道線を走っていた200形203号車(2車体連接車)やデラックスロマンスカー「けごん」のカットボディが屋外に展示されている。

東向島駅北側の伊勢崎11号踏切跡。
東向島駅は明治35年(1902年)に白鬚(しらひげ)駅として開業したのち、亀戸方向への延伸に伴って休止となったが大正13年(1924年)に玉ノ井駅に改称の上復活している。
東向島に改称したのは昭和62年(1987年)と比較的最近で、駅入口や駅名標には現在でも「旧玉ノ井」と書かれている。
東向島駅は明治35年(1902年)に白鬚(しらひげ)駅として開業したのち、亀戸方向への延伸に伴って休止となったが大正13年(1924年)に玉ノ井駅に改称の上復活している。
東向島に改称したのは昭和62年(1987年)と比較的最近で、駅入口や駅名標には現在でも「旧玉ノ井」と書かれている。


線路西側の大正通りから伊勢崎12号踏切跡を見たところ。
ここからの写真は2026/8/10撮影。
ここからの写真は2026/8/10撮影。

すぐ北側に伊勢崎13号踏切跡がある。

OpenStreetMapで鐘ヶ淵駅付近を見る。
昭和42年の高架化は鐘ヶ淵駅手前で終わっており、駅前には現役の踏切が残っている。一方駅北側は大正2年(1913年)から昭和5年(1930年)の荒川放水路(現荒川)開削によって線路が放水路の中に入ってしまう形になったため、大きく左にカーブしていく形となった。
昭和42年の高架化は鐘ヶ淵駅手前で終わっており、駅前には現役の踏切が残っている。一方駅北側は大正2年(1913年)から昭和5年(1930年)の荒川放水路(現荒川)開削によって線路が放水路の中に入ってしまう形になったため、大きく左にカーブしていく形となった。

伊勢崎14号踏切跡。鐘ヶ淵駅に向かって高架線が徐々に下りてきているのがわかる。

隣の伊勢崎15号踏切跡ではもはや自動車の通行がかなり厳しい桁下高さになっている。

さらに北側に歩行者用の通路があるが、ここは踏切ではなかったようだ。

高架アプローチ部分にあった伊勢崎16号踏切は廃止されて東西に渡ることができない。
「東武鉄道百年史」P832によれば昭和52年(1977年)に第3種踏切から第1種甲踏切に格上げされたそうだ。
「東武鉄道百年史」P832によれば昭和52年(1977年)に第3種踏切から第1種甲踏切に格上げされたそうだ。

鐘ヶ淵駅手前の伊勢崎17号踏切は東武スカイツリーラインとしては最初の現役踏切となる。
赤く舗装されている方が古代東海道で古く、左から踏切を渡る鐘ヶ淵通りの方が新しい。
赤く舗装されている方が古代東海道で古く、左から踏切を渡る鐘ヶ淵通りの方が新しい。

東武鉄道ではお馴染みの踏切番号が書かれたプレート。

踏切から鐘ヶ淵駅を見る。
通過線があり複々線になっている線路が大きく左(西)へカーブしていくが、荒川放水路の開削以前はそのまままっすぐ進んでいた。
手前に見える踏板は構内踏切ではなく職員専用通路だが、その向こうの構造はかつて構内踏切があったことが伺える。
通過線があり複々線になっている線路が大きく左(西)へカーブしていくが、荒川放水路の開削以前はそのまままっすぐ進んでいた。
手前に見える踏板は構内踏切ではなく職員専用通路だが、その向こうの構造はかつて構内踏切があったことが伺える。

OpenStreetMapで堀切駅から牛田(うしだ)駅付近を見る。
鐘ヶ淵駅から牛田駅の間で大きなカーブを描いていた東武伊勢崎線は荒川放水路の開削で土手沿いに線路を移すことになり、鐘ヶ淵駅と堀切駅付近ではかなり窮屈な線形になっている。
堀切菖蒲園への入口として明治35年に開業し亀戸延伸時の明治38年に休止、明治41年にいったん廃止されている旧堀切停車場は「可豆思賀 2」の「堀切橋と堀切駅-堀切橋と周辺地域の交通史(上)」によれば現在の堀切駅よりもかなり南側の荒川内(南葛飾郡南綾瀬村大字堀切字新川向)にあったという。
鐘ヶ淵駅から牛田駅の間で大きなカーブを描いていた東武伊勢崎線は荒川放水路の開削で土手沿いに線路を移すことになり、鐘ヶ淵駅と堀切駅付近ではかなり窮屈な線形になっている。
堀切菖蒲園への入口として明治35年に開業し亀戸延伸時の明治38年に休止、明治41年にいったん廃止されている旧堀切停車場は「可豆思賀 2」の「堀切橋と堀切駅-堀切橋と周辺地域の交通史(上)」によれば現在の堀切駅よりもかなり南側の荒川内(南葛飾郡南綾瀬村大字堀切字新川向)にあったという。

堀切駅の手前に荒川と隅田川をつないでいる水路(写真奥に隅田水門が見える)があるが、かつてはその両岸に踏切があったようだ。
現在水門管理棟となっているあたりに伊勢崎18号踏切があったと思われる。
「東武鉄道百年史」P637の写真がそれではないだろうか。
現在水門管理棟となっているあたりに伊勢崎18号踏切があったと思われる。
「東武鉄道百年史」P637の写真がそれではないだろうか。

水路左岸側、堀切駅改札口前にある跨線人道橋付近に伊勢崎19号踏切があった。
旧駅は荒川放水路開削に伴い川の中になってしまい、大正13年(1924年)に現在の位置へ移設され営業を再開している。
旧駅は荒川放水路開削に伴い川の中になってしまい、大正13年(1924年)に現在の位置へ移設され営業を再開している。

牛田駅西側の伊勢崎20号踏切は現役。

牛田駅から都道406号墨堤通りを西へ進んでいくと、京成押上線の鉄橋下に封鎖された廃線跡が残っていた。
写真右側の鉄橋下に通っていた千住貨物線の東側にあった東京製鐵専用線の入口部分が残っているものだ。
ということは写真手前の墨堤通りには専用線と貨物線の踏切があったということになる。「東武鉄道百年史」P832には昭和54年(1979年)に第1種踏切に格上げされたとある。
写真右側の鉄橋下に通っていた千住貨物線の東側にあった東京製鐵専用線の入口部分が残っているものだ。
ということは写真手前の墨堤通りには専用線と貨物線の踏切があったということになる。「東武鉄道百年史」P832には昭和54年(1979年)に第1種踏切に格上げされたとある。

国土地理院Webサイトの令和元年(2019年)の空中写真(国土地理院撮影)を見ると京成線の南側にも線路跡が残っているのが見える。
千住貨物線(千住線とする資料もあるが、「東武鉄道百年史」では千住貨物線と記載)は昭和10年(1935年)に開業、廃止は昭和62年(1987年)であった。東京製鐵千住工場は昭和61年(1986年)に閉鎖され、跡地はリサイクル会社が使用していたが専用線としては機能していなかったものと思われる。
千住貨物線(千住線とする資料もあるが、「東武鉄道百年史」では千住貨物線と記載)は昭和10年(1935年)に開業、廃止は昭和62年(1987年)であった。東京製鐵千住工場は昭和61年(1986年)に閉鎖され、跡地はリサイクル会社が使用していたが専用線としては機能していなかったものと思われる。

千住貨物線跡の西側から踏切跡を見たところ。写真右に見える路地の二つがそれぞれ千住貨物線(手前)、東京製鐵専用線(奥)になっているので、その左に踏切があったはずだ。

千住貨物線の分岐付近に残る現役の伊勢崎21号踏切。

そこから北千住方向へ進んだところにレンガ造りの橋脚が残っている架道橋がある。
ここは踏切ではなかったようだが、架道橋下が1.6m(実際にはもう少しありそう)しかなく大人が身を屈めて通り抜ける感じになっていた。
ここは踏切ではなかったようだが、架道橋下が1.6m(実際にはもう少しありそう)しかなく大人が身を屈めて通り抜ける感じになっていた。

OpenStreetMapで北千住駅付近を見る。
北千住駅から西新井駅方向に向かう線路は荒川放水路の開削に伴って経路が変更されている。
北千住駅から西新井駅方向に向かう線路は荒川放水路の開削に伴って経路が変更されている。

北千住駅手前の伊勢崎22号踏切はJR常磐線の北千住一丁目踏切と並んでいる。写真はJR側から踏切を見たところ。上空を通っているのは手前がつくばエクスプレス、奥が東京メトロ日比谷線だ。
二つの踏切は独立しており、中間に待機できるスペースがある。
二つの踏切は独立しており、中間に待機できるスペースがある。

伊勢崎22号踏切から南側を見たところ。
保線用車両が停泊しているあたりに大正13年に千住駅として開業し、昭和5年に中千住駅に改称した駅があった。旧国鉄の北千住駅構内にあった東武鉄道の北千住駅は手狭であったため、こちらに広い用地を確保して駅などの設備を設けたのだという。
旅客営業は昭和20年に休止、昭和28年(1953年)に廃止となったが、千住貨物線との分岐点(昭和37年まで中千住信号所、その後千住分岐点)として昭和62年の千住貨物線廃止まで存続していた。
保線用車両が停泊しているあたりに大正13年に千住駅として開業し、昭和5年に中千住駅に改称した駅があった。旧国鉄の北千住駅構内にあった東武鉄道の北千住駅は手狭であったため、こちらに広い用地を確保して駅などの設備を設けたのだという。
旅客営業は昭和20年に休止、昭和28年(1953年)に廃止となったが、千住貨物線との分岐点(昭和37年まで中千住信号所、その後千住分岐点)として昭和62年の千住貨物線廃止まで存続していた。

北千住駅北側で現在よりもやや東寄りに敷かれていた旧線は地上を走っていたため、大正12年の地図によれば踏切が2つあったようだ。
一つ目の踏切は日の出町団地の北側にある細い路地にあった。写真右手前の住宅裏あたりに旧線があり、踏切があったらしい。
また、新線にも当初は踏切があり、大正15年の地図によれば写真奥の突き当たりの先に伊勢崎23号踏切があったと思われる。
ここからの写真は2026/8/14撮影。
一つ目の踏切は日の出町団地の北側にある細い路地にあった。写真右手前の住宅裏あたりに旧線があり、踏切があったらしい。
また、新線にも当初は踏切があり、大正15年の地図によれば写真奥の突き当たりの先に伊勢崎23号踏切があったと思われる。
ここからの写真は2026/8/14撮影。

荒川で断ち切られた旧水戸街道にもう一つの踏切があった。写真中央の丁字路手前あたりを旧線が通っていたようだ。

旧水戸街道脇に残る日ノ出神社。
境内の縁起によれば荒川放水路の中にはいってしまった神社をいったんは対岸の五反野稲荷に合祀したものの、後にこの場所にあらためて祀ったという。
境内の縁起によれば荒川放水路の中にはいってしまった神社をいったんは対岸の五反野稲荷に合祀したものの、後にこの場所にあらためて祀ったという。