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峰ヶ原信号場〜七里ヶ浜4号踏切

OpenStreetMapで峰ヶ原信号場から稲村ヶ崎駅までを見る。
明治35年(1902年)に藤沢から片瀬(現江ノ島)間を開業させた江之島電氣鐵道は翌36年6月に行合(大正4年に大境に改称)まで、7月には追揚(現存しない)まで、37年には極楽寺まで延伸している。
稲村ヶ崎駅手前の音無橋までの間は開業当時には併用軌道として扱われていたことが昭和6年(1931年)の資料からわかるが、現在は七里ヶ浜駅西側と音無橋西側の2ヶ所のみが併用軌道(いわゆる「路肩軌道」)扱いで残っている。
この路肩軌道区間には現在でも多数の非公認踏切が残っているが、プライバシー保護の観点から撮影は最小限に留めているのであらかじめご了承いただきたい。
この区間には昭和23年(1948年)までに廃止された停留場が8ヶ所もあって、戦前は海岸沿いに旅客需要が結構あったであろうことが想像される。
そのほか、江ノ電の非公認踏切などに関する撮影スタンスなどは藤沢1号〜柳小路3号踏切のページを参照されたい。
明治35年(1902年)に藤沢から片瀬(現江ノ島)間を開業させた江之島電氣鐵道は翌36年6月に行合(大正4年に大境に改称)まで、7月には追揚(現存しない)まで、37年には極楽寺まで延伸している。
稲村ヶ崎駅手前の音無橋までの間は開業当時には併用軌道として扱われていたことが昭和6年(1931年)の資料からわかるが、現在は七里ヶ浜駅西側と音無橋西側の2ヶ所のみが併用軌道(いわゆる「路肩軌道」)扱いで残っている。
この路肩軌道区間には現在でも多数の非公認踏切が残っているが、プライバシー保護の観点から撮影は最小限に留めているのであらかじめご了承いただきたい。
この区間には昭和23年(1948年)までに廃止された停留場が8ヶ所もあって、戦前は海岸沿いに旅客需要が結構あったであろうことが想像される。
そのほか、江ノ電の非公認踏切などに関する撮影スタンスなどは藤沢1号〜柳小路3号踏切のページを参照されたい。
参考資料:
・国立公文書館所蔵
- 「乗客昇降場名称並び新設認可報告」(江ノ島電氣鐵道, 1915)※田辺、行合、大境名称変更
- 「臨時停留場設置届の件」(江ノ島電氣鐵道, 1931)※祝賀会々場
- 「臨時停留場廃止届の件」(江ノ島電氣鐵道, 1931)※祝賀会々場
- 「停留場廃止の件」(江ノ島電氣鐵道, 1931)※峰ヶ原、追揚
- 「臨時停留場設置の件」(江ノ島電氣鐵道, 1931)※七里ヶ浜納涼園前
- 「石上外八停留場廃止の件」(江ノ島電氣鐵道, 1931)※大境、音無橋
- 「臨時停留場設置の件」(江ノ島電氣鐵道, 1935)※キャンプ村前
- 「キャンプカー前臨時停留場設置の件」(江ノ島電氣鐵道, 1936)
- 「キャンプカー前停留場設置の件」(江ノ島電氣鐵道, 1937)
- 「臨時停留場設置の件」(江ノ島電氣鐵道, 1938)※キャンプカー前
- 「姥ヶ谷停留場位置変更の件」(江ノ島電氣鐵道, 1939)
- 「停留場廃止及位置変更の件」(江ノ島電氣鐵道, 1940)
- 「停留場変更の件(停留場設計変更認可並に特別設計許可申請)」(江ノ島電氣鐵道, 1943)
- 「停留場廃止」(江ノ島電氣鐵道, 1948)※姥ヶ谷
・国土地理院Webサイト
- 「昭和21年空中写真」(米軍撮影, 1946)
- 「昭和36年空中写真」(国土地理院撮影, 1961)
・国立国会図書館デジタルコレクション所蔵
- 「江ノ電讃歌」(吉川文夫, 1985)
・「グラフ江ノ電の100年」(江ノ島電鉄, 2002)
・「知られざる江ノ電踏切の謎」(武相高校鉄道研究同好会, 2016)
注:本書では非公認を含め踏切数を111としているが、10年前の資料であり現況とは一致しないものがある(本書の111ヶ所については今回現況確認を行った)。
・ひこねの駅研究所(廃止された停留場の位置について参考とさせていただいた)
・江ノ電公式サイト「当方見聞録」
・国立公文書館所蔵
- 「乗客昇降場名称並び新設認可報告」(江ノ島電氣鐵道, 1915)※田辺、行合、大境名称変更
- 「臨時停留場設置届の件」(江ノ島電氣鐵道, 1931)※祝賀会々場
- 「臨時停留場廃止届の件」(江ノ島電氣鐵道, 1931)※祝賀会々場
- 「停留場廃止の件」(江ノ島電氣鐵道, 1931)※峰ヶ原、追揚
- 「臨時停留場設置の件」(江ノ島電氣鐵道, 1931)※七里ヶ浜納涼園前
- 「石上外八停留場廃止の件」(江ノ島電氣鐵道, 1931)※大境、音無橋
- 「臨時停留場設置の件」(江ノ島電氣鐵道, 1935)※キャンプ村前
- 「キャンプカー前臨時停留場設置の件」(江ノ島電氣鐵道, 1936)
- 「キャンプカー前停留場設置の件」(江ノ島電氣鐵道, 1937)
- 「臨時停留場設置の件」(江ノ島電氣鐵道, 1938)※キャンプカー前
- 「姥ヶ谷停留場位置変更の件」(江ノ島電氣鐵道, 1939)
- 「停留場廃止及位置変更の件」(江ノ島電氣鐵道, 1940)
- 「停留場変更の件(停留場設計変更認可並に特別設計許可申請)」(江ノ島電氣鐵道, 1943)
- 「停留場廃止」(江ノ島電氣鐵道, 1948)※姥ヶ谷
・国土地理院Webサイト
- 「昭和21年空中写真」(米軍撮影, 1946)
- 「昭和36年空中写真」(国土地理院撮影, 1961)
・国立国会図書館デジタルコレクション所蔵
- 「江ノ電讃歌」(吉川文夫, 1985)
・「グラフ江ノ電の100年」(江ノ島電鉄, 2002)
・「知られざる江ノ電踏切の謎」(武相高校鉄道研究同好会, 2016)
注:本書では非公認を含め踏切数を111としているが、10年前の資料であり現況とは一致しないものがある(本書の111ヶ所については今回現況確認を行った)。
・ひこねの駅研究所(廃止された停留場の位置について参考とさせていただいた)
・江ノ電公式サイト「当方見聞録」

鎌倉高校前2号踏切から七里ヶ浜(しちりがはま)駅手前の併用軌道区間方向を見たところ。
この踏切の山側は顕証寺の境内になっており、墓地などもあるため撮影は差し控えている。
写真では分かりにくいが国道134号から左に道路が分かれていく先から線路側の路肩がオレンジ色(黄色)にペイントされており、その部分が併用軌道ということになるのだろう。
ここからの写真は2026/9/14撮影。
この踏切の山側は顕証寺の境内になっており、墓地などもあるため撮影は差し控えている。
写真では分かりにくいが国道134号から左に道路が分かれていく先から線路側の路肩がオレンジ色(黄色)にペイントされており、その部分が併用軌道ということになるのだろう。
ここからの写真は2026/9/14撮影。

この併用軌道区間には「江ノ電踏切の謎」では10ヶ所、廃用となっているものも含めると非公認踏切が14ヶ所あるがプライバシーの問題がないように気をつけながらいくつか紹介しよう。
(配慮不足などがあればご指摘いただければと思います)
併用軌道区間に入って最初の非公認踏切は画角の関係で看板が見えていないが右の階段の上にイタリア料理店があり、客はこの踏切を渡っていく必要がある。
(配慮不足などがあればご指摘いただければと思います)
併用軌道区間に入って最初の非公認踏切は画角の関係で看板が見えていないが右の階段の上にイタリア料理店があり、客はこの踏切を渡っていく必要がある。

アパートの下にある上を蓋されてしまったトマソン物件な廃階段。
おそらくアパートが建つ前に住宅があってここに非公認踏切があったものと思われる。
おそらくアパートが建つ前に住宅があってここに非公認踏切があったものと思われる。

踏み板がある非公認踏切の向こうあたりに昭和6年に廃止された峰ヶ原停留場があった。
昭和6年(1931年)は江ノ電にとって明治35年(1902年)から数え30周年にあたる重要な年と位置付けられていたようだが、その中で多数の停留場廃止や移転を実施した年でもあった。今回の探索区間でも4ヶ所が廃止となっている。
「ひこねの駅研究所」によれば昭和7年から18年(1943年)までの間はここに七里ヶ浜停留場があったというが、その資料はまだ見つけていない。
昭和6年(1931年)は江ノ電にとって明治35年(1902年)から数え30周年にあたる重要な年と位置付けられていたようだが、その中で多数の停留場廃止や移転を実施した年でもあった。今回の探索区間でも4ヶ所が廃止となっている。
「ひこねの駅研究所」によれば昭和7年から18年(1943年)までの間はここに七里ヶ浜停留場があったというが、その資料はまだ見つけていない。

住宅の壁に向かって路肩のペイントが途切れている場所があるが、ここもかつては非公認踏切であったと思われる。

最も七里ヶ浜駅寄りにある踏み板付きの非公認踏切は階段を利用する住民にとっての短絡路になっており、この踏切がないと東側の七里ヶ浜1号踏切まで行合(ゆきあい)川沿いを最大1km近く北へ迂回しなければならない。

七里ヶ浜駅のすぐ西側に空き店舗から線路に降りてくる階段があるが、線路側はガードレールで封鎖されていて踏切として機能していない。
この建物には山側から入ることができるので、仮に店舗に入居するテナントがあっても使用されることはないだろう。
この建物には山側から入ることができるので、仮に店舗に入居するテナントがあっても使用されることはないだろう。

ヨットを模したモニュメントがある七里ヶ浜駅の改札口。
この位置には「ひこねの駅研究所」によれば昭和18年に行合停留場が移ってきたが、昭和19年に七里ヶ浜駅となったという。同サイトによればこの位置に行合停留場があった期間の七里ヶ浜停留場は初代行合停留場(大境停留場)の位置にあったとしているが、そのあたりの資料は見つけていない。
この位置には「ひこねの駅研究所」によれば昭和18年に行合停留場が移ってきたが、昭和19年に七里ヶ浜駅となったという。同サイトによればこの位置に行合停留場があった期間の七里ヶ浜停留場は初代行合停留場(大境停留場)の位置にあったとしているが、そのあたりの資料は見つけていない。

行合川を渡る行合橋梁の東側にある七里ヶ浜1号踏切。
出来るだけ人が少ないタイミングを狙ったが、写真右側に七里ガ浜高校があるため学生と観光客が工作してかなり混沌とした状態になっていた。
出来るだけ人が少ないタイミングを狙ったが、写真右側に七里ガ浜高校があるため学生と観光客が工作してかなり混沌とした状態になっていた。

踏切東側で江ノ電が海岸に向かって大きくS字カーブを描いているところに田辺昇降場があった。
田辺昇降場は大正4年に行合昇降場(二代目)に改称しているが、昭和18年の移転に伴ってこの位置では廃止となったと思われる。
昭和36年の空中写真では旧停留場付近に踏切があるように見えるのだが、工事用なのか道路なのかは空中写真だけではわからない。
田辺昇降場は大正4年に行合昇降場(二代目)に改称しているが、昭和18年の移転に伴ってこの位置では廃止となったと思われる。
昭和36年の空中写真では旧停留場付近に踏切があるように見えるのだが、工事用なのか道路なのかは空中写真だけではわからない。

ふたたび日差しが戻ってきたところで国道134号上にある七里ヶ浜バス停から相模湾越しに葉山方向を眺めたところ。
日本の渚100選の一つである七里ヶ浜海岸は腰越の小動岬と稲村ヶ崎の間に広がる砂浜だが、おおよそ3kmの長さで尺貫法の1里≈約3.9kmで考えると明らかに長さが不足している。
里という単位は古代の律令制時代には約533.5m、鎌倉時代には655m程度であったとされるので、当時はだいたい7里くらいあると理解されていたのかもしれない。
日本の渚100選の一つである七里ヶ浜海岸は腰越の小動岬と稲村ヶ崎の間に広がる砂浜だが、おおよそ3kmの長さで尺貫法の1里≈約3.9kmで考えると明らかに長さが不足している。
里という単位は古代の律令制時代には約533.5m、鎌倉時代には655m程度であったとされるので、当時はだいたい7里くらいあると理解されていたのかもしれない。

七里ヶ浜2号踏切は国道から側道を少し登ったところに丁字路の形で接続している。
踏切東側(写真奥)には初代の行合昇降場があり、明治36年(1903年)6月には江ノ電がここまで延伸されている。
行合昇降場は大正4年に大境昇降場に改称したが、昭和6年に廃止申請が行われこの位置の停留場はいったん廃止されたと思われる。
踏切東側(写真奥)には初代の行合昇降場があり、明治36年(1903年)6月には江ノ電がここまで延伸されている。
行合昇降場は大正4年に大境昇降場に改称したが、昭和6年に廃止申請が行われこの位置の停留場はいったん廃止されたと思われる。
ところが同じ昭和6年、江ノ電開通30周年記念祝賀会場へのアクセス用として同年4/15から3日間、祝賀会々場前臨時停留場がこの場所に設置されている。祝賀会は写真右側の海岸で行われたとある。
この臨時停留場は予定通り廃止されているが、7月になって今度はまた同じ位置に七里ヶ浜納涼園前臨時停留場が設置されている。申請書に添付された地図によれば納涼園はもう少し稲村ヶ崎方向の海岸沿い(国道から線路脇の道路が分岐していくあたり)にあったらしいが、停留場としては元からあったものをそのまま転用したのではないかと思われる。
さらに昭和10年(1935年)には同じ位置と思われる場所にキャンプ村前臨時停留場が7/1から8/31限定で開設され、その後翌年から昭和13年(1938年)まではキャンプカー前臨時停留所というなんとも大雑把な名前の停留場が毎年夏季限定でオープンしていたようだ。
昭和13年といえば5月に国家総動員法が施行され、9月には作家や作曲家が従軍作家・従軍詩曲部隊として編成されるなど戦局まっしぐらな時期だったはずだが、国民の体位向上に良いとして海水浴が奨励されていた。英語の使用が自粛されていくのも翌14年あたりからのようで国内ではまだキャンプを楽しむ人々も多かったのだろう。
「ひこねの駅研究所」ではその後昭和17年までキャンプカー前臨時停留場、昭和19年までは七里ヶ浜停留場となっていたというが関連する資料は見つけていない。同サイトによればキャンプカーといっても現在のキャンピングカーのようなものではなく、江ノ電の廃木造車体を並べて宿泊できるようにしたものだそうだ。
この臨時停留場は予定通り廃止されているが、7月になって今度はまた同じ位置に七里ヶ浜納涼園前臨時停留場が設置されている。申請書に添付された地図によれば納涼園はもう少し稲村ヶ崎方向の海岸沿い(国道から線路脇の道路が分岐していくあたり)にあったらしいが、停留場としては元からあったものをそのまま転用したのではないかと思われる。
さらに昭和10年(1935年)には同じ位置と思われる場所にキャンプ村前臨時停留場が7/1から8/31限定で開設され、その後翌年から昭和13年(1938年)まではキャンプカー前臨時停留所というなんとも大雑把な名前の停留場が毎年夏季限定でオープンしていたようだ。
昭和13年といえば5月に国家総動員法が施行され、9月には作家や作曲家が従軍作家・従軍詩曲部隊として編成されるなど戦局まっしぐらな時期だったはずだが、国民の体位向上に良いとして海水浴が奨励されていた。英語の使用が自粛されていくのも翌14年あたりからのようで国内ではまだキャンプを楽しむ人々も多かったのだろう。
「ひこねの駅研究所」ではその後昭和17年までキャンプカー前臨時停留場、昭和19年までは七里ヶ浜停留場となっていたというが関連する資料は見つけていない。同サイトによればキャンプカーといっても現在のキャンピングカーのようなものではなく、江ノ電の廃木造車体を並べて宿泊できるようにしたものだそうだ。

昭和6年の資料を見ると大境停留場は踏切西側、江ノ電の保線用施設があるあたり(写真奥に踏み板が見える)に移動したようだ。祝賀会々場前臨時停留場の位置を示した地図では大境停留場はそこに記載されている。
しかし、結局同年10月に大境停留場は廃止されている。
しかし、結局同年10月に大境停留場は廃止されている。

ふたたび江ノ電が国道と分かれていくところ。
坂道を上ったあたりから併用軌道区間が始まっている。
坂道を上ったあたりから併用軌道区間が始まっている。

坂道を上って線路と道路が同じ高さになるあたり。
七里ヶ浜西側と異なりこちらはペイントがなく線路と道路の間にガードレールが設置されているが、非公認踏切がある場所ではガードレールが途切れている。
「江ノ電踏切の謎」ではここから音無橋までの間に七里ヶ浜3号踏切の西側に12ヶ所(そのうち5ヶ所は道路側の入口としては2ヶ所という形になっている)、東側に2ヶ所の非公認踏切があるとしているが、東側には現地で見る限り店舗入口になっている非公認踏切がさらに2ヶ所確認できる(うち1ヶ所は店舗が閉店し廃踏切になっている)。
また、西側のうち2ヶ所は現時点では山側が廃屋になっているようで利用されていないと思われる。
七里ヶ浜西側と異なりこちらはペイントがなく線路と道路の間にガードレールが設置されているが、非公認踏切がある場所ではガードレールが途切れている。
「江ノ電踏切の謎」ではここから音無橋までの間に七里ヶ浜3号踏切の西側に12ヶ所(そのうち5ヶ所は道路側の入口としては2ヶ所という形になっている)、東側に2ヶ所の非公認踏切があるとしているが、東側には現地で見る限り店舗入口になっている非公認踏切がさらに2ヶ所確認できる(うち1ヶ所は店舗が閉店し廃踏切になっている)。
また、西側のうち2ヶ所は現時点では山側が廃屋になっているようで利用されていないと思われる。

併用軌道区間を鎌倉へ向かう4両編成。手前側の1002編成は2007年1月で運行を収容することが発表されている。
先頭車両が差し掛かっているあたり(写真奥)には、昭和6年に廃止された追揚停留場があった。
先頭車両が差し掛かっているあたり(写真奥)には、昭和6年に廃止された追揚停留場があった。

併用軌道区間の真ん中よりやや稲村ヶ崎寄りにある七里ヶ浜3号踏切。
明治36年に江ノ電が行合から追揚(「ひこねの駅研究所ではこのときの追揚は現在の稲村ヶ崎であったとしている)まで延伸した際に開業したと思われる姥ヶ谷(うばがや)停留場は最初踏切の東側にあり、昭和14年(1939年)に踏切西側に移設された。
姥ヶ谷停留場は昭和20年(1945年)に休止となり、そのまま昭和23年に廃止されている。
明治36年に江ノ電が行合から追揚(「ひこねの駅研究所ではこのときの追揚は現在の稲村ヶ崎であったとしている)まで延伸した際に開業したと思われる姥ヶ谷(うばがや)停留場は最初踏切の東側にあり、昭和14年(1939年)に踏切西側に移設された。
姥ヶ谷停留場は昭和20年(1945年)に休止となり、そのまま昭和23年に廃止されている。

併用軌道区間が終わって江ノ電が道路と分かれていくところに音無川を渡る音無橋梁(写真奥)があるが、その手前の非公認踏切付近に音無橋停留場があった。ここも明治36年開業だが、稲村ヶ崎駅に近かったこともあってか昭和6年に廃止されている。
踏切を渡って左側にはレンタルスペースがあるが、そこは5千円札の肖像となっている津田梅子の別荘跡であるという。
踏切を渡って左側にはレンタルスペースがあるが、そこは5千円札の肖像となっている津田梅子の別荘跡であるという。

停留場名の由来となった音無橋は車道の方にある。大正15年に架橋されたものだ。

稲村ヶ崎駅前の七里ヶ浜4号踏切。

稲村ヶ崎駅には簡易改札内に構内踏切が残っている。
稲村ヶ崎駅はもとは駅員がいる有人駅だったのだが、令和6年(2024年)に無人化されている。
稲村ヶ崎駅はもとは駅員がいる有人駅だったのだが、令和6年(2024年)に無人化されている。